身丈剣 山楝蛇
もうそのような季節になったのか、と川縁の小路を通るたびに観仏知三郎は近頃思う。
朽葉の色に白がなり代わろうとしている。梅に加えて、桜が混じりはじめたのだ。
梅は春の盛りを知らせるといい、桜は春の終わりを知らせるともいう。桜が咲き出せばもう凡その樹木は芽吹き、虫どもが土から這い出てくる。世のすべてが新たな命に包まれるのだ。
知三郎が覚えている限り、この小路沿いに植えられていたのは梅だけであったはずだ。はずなのだが、いつしか春には桜も咲くようになっていた。それが植えられたものであるのか、手前勝手に咲いているものであるのかは知三郎は知らぬ。桜というのは存外弱い木であるとも聞いているから、やはり誰か人の手が加えられているのやもしれぬ。
とまあ考えを巡らすくらいには、この川縁は知三郎にとって通い慣れた道であるといえる。変わったのは景色だけでなく、知三郎の図体も大きくはなった。だが、覇気は昔の方があったやもしれんなあ、いやあったであろうなあ、などと一人ごちながら、やや早足で小路を抜けてゆく。
小路を抜ければ知三郎の住む馬宿長屋である。川の側で城下のはずれ近くにあることから、駕籠屋や荷運び人足などが固まって居ついたため、そのような名がついた。知三郎もこの長屋に、二年ほど前から居を構えている。ここからさらに足を延ばせば、そこはもう隙羅山への峠である。
ちょうど巳の刻くらいであろうか。昼餉前のひと仕事を終え、そろそろ一息入れようかという刻限で、長屋全体にもやや緩やかな気配が漂っている。これが前後にもう一刻ほどずれれば、通りはあわただしく馬や人足、職人たちが行き来し、まったく違った様相を見せる。その狭間のようなこの刻限が、知三郎は何とも好きであった。
ふと、足を止めた。長屋の中ほど、知三郎の住処の前に人影がある。汚れほつれのない着物をぴしりと着込んでいて、笠を被っている。腰には手入れの行き届いた差料があり、何とも長屋にそぐわぬ姿であった。
「ようやく見つけたぞ、知三郎」
侍が笠を押し上げる。見知った顔があった。
「樫之助か。よくここがわかったな」
「この一年のうちに住みついた浪人はおらぬかと、方々を訪ねて回ったのだ。ようやくここにたどり着いた」
笑みを浮かべて、山鹿樫之助は笠を外した。若い頃より女子どもを虜にしていた細面の顔が露わになる。多少やつれたような気配があるが、まさに知三郎の知る樫之助であった。
通り過ぎようとした顔見知りの中年女が、頭を下げながら通り過ぎ、それから振り向いて樫之助をもう一度見ながら歩き去ってゆく。その先で誰かとぶつかったのか、背中から悲鳴とともに騒々しい音が響いた。
ため息を一つつき、樫之助を長屋の中へ誘った。
物珍しそうに視界を巡らせている樫之助を座らせ、白湯を出してやる。知三郎の不機嫌さを知ってか知らずか、樫之助はやたらと浮ついている。
「いや、ようやく見つけられたのが、なんとも嬉しくてな。これまでの苦労が報われた。そんな心持ちだ」
「こんなところまで何用だ、樫之助。おれはお役御免となった身だぞ」
「聞いた。お主が自ら申し出たということではないか。年番方付への大出世であったというのに、どういうことだ」
藩城下には東西の奉行所があり、知三郎と樫之助はともに西奉行所の勤番である。先年、知三郎は筆遣いの上手さと、提出する報書きの簡明さが上役の目に留まり、人事や出納を管理する年番方付へと取り立てられた。奉行所の機密を扱う部署であるから格式も高く、軽輩であった観仏家からすればこれは出世といってよい。
「おれは筆を握っているよりも、木刀を振っている方がよい」
「それを言うなら、おれとて剣の腕を磨くよりは、漢籍の一つでも読んで過ごしたい。だがおぬしは筆に才があり、おれは剣に才があった。そういうことだろう」
「まあ、そうなのやもしれぬが」
言葉を濁した知三郎を、樫之助がじいっと睨み付ける。白湯には手を付けてさえもいない。
「だがおれの知る観仏知三郎という男は、己の好し悪しで役目を投げ捨てる男ではない。何があった。言え」
言うまではあきらめないぞ、という前のめりの姿勢で、知三郎から目を離さない。どれくらいそうしていたか。知三郎はとうとう根負けして、背を丸めた。
「出仕してすぐにな。下士たちの評定を求められた。おれもこれまでは下士であったのだからよく見知っているであろうと。そういうことだ」
ひとつの人事が定まった瞬間より、次の人事への評定がはじまっている。それが武家社会というものだ。そして次の春を見越した品定めは、春の終わりの時期よりすでに、はじまっていた。
知三郎がまず命じられたのは、下士たちの行状を詳らかにし、伝えることだった。どのような人物であるかを密に記し、それを甲乙丙丁に区分してゆく。そういう仕事であった。
それを聞き出した樫之助は、目を閉じてうんうんと頷いている。
「なるほど。確かにそれは嫌なお役目だな。気が滅入ってしまうのもよくわかる。さぞつらく、苦しかったことだろう」
と、ひとり納得しはじめたので、手を挙げて留めた。
「違う。違うのだ樫之助」
「何がだ」
腕を組み、天井を見上げる。役目について移った屋敷とは比べるべくもない、雨風で痛み、染みと色褪せの目立つ梁を眺めた。ここに移ってから考え続けていたこと。それを訥々と口にする。
「はじめはおぬしの言うように嫌なお役目だと。そう思っていた。同僚たちを品定めし、区分けしてゆくなど。いや、誰かがやらねばならぬ役目であるというのはわかってはいるが、己がそういうものに堕すことは一生ないであろうと。そう、こころのどこかで思っていたのだ」
だがな、と一息ついて、樫之助を見た。
「実際やってみるとな。この、人を。人品力量をおれが定め、おれが区分けしてゆくという作業。これが、とてつもなく楽しいものであると、気づいた」
樫之助が目を見開くのがわかった。
「そうだ樫之助。人や、人のつくったものを品定めし、甲乙丙丁と仕分けてゆくのはな……とてもとても、快いのだ。まるで己が神か仏にでもなったような。そのようなこころ持ちを、味わったものだ」
「……知三郎がか」
「そうだ。このおれが、だ」
いつしか前のめりだった樫之助が後ろに退き、知三郎が前に出ている。
「人を品定めすることはな。快楽なのだ、樫之助。そうして、そのような己を知ったとき、おれはどうしようもない気持ちになった。このお役目を続けていればおれはいつしか人でなくなる。そう思ったのだ」
「それで、お役目を返上したというのか」
「そうだ」
今度は樫之助が天を仰いだ。幼い頃より、何かと仕草も似ているといわれていたことを思い出した。
確か、樫之助が知三郎の真似をはじめたのだ。まだ、知三郎が樫之助より剣の腕が勝っていた頃だった。顔に似合わず意外に負けず嫌いな樫之助は、身近な手本として知三郎を選んだ。樫之助の剣才が目覚めたのは、その少し後のことであったか。
「人は、他人より優れていたいと思うものだ。それは仕方ない。だからこそ、人を己の持つ何かで定めて、分類したくなる。そうしてこいつはこの部分でおれより下だとか。あるいは、おれはこうして分類できるほど人やものを見る目があるのだとか。そんなふうに思って安心を得るのだ。これはもう、仕方のないことだ、樫之助。だがな」
拳を握りしめる。
「それをわかった上で。己の中にそういう浅ましいものがあるのだと、認めた上で。そこからいかに脱するかを考えるのが、人というもののありようではないかと。おれは、そう思ったのだ」
知三郎が膝立ちになる。素早く手を伸ばした。樫之助がそちらを向いたときにはもう、手に細長い何かを握っている。
「山楝蛇だな。この辺りは峠も近いから、よく出るのだ」
首元を掴まれた蛇が、知三郎の手の中でうねっている。
「驚いたな。知三郎は相変わらず目がいい。筆が上手なのもそのせいかな」
「おぬしの剣と同じ。何ごとも修練だ」
樫之助も立ち上がった。
「そろそろ失礼するとしよう。急に押しかけて、すまなかった」
「いや、おれも話せて、よかった」
蛇を逃がしついでに見送るべく、二人で戸を潜った。
「そういえば博学な樫之助だが。おぬし、山楝蛇に毒があることは知っておるか」
「いや、はじめて聞く。まことか」
知三郎が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「山に入るものたちの間でだけ、伝わっているそうだ。ほら、この口の奥、一番奥にあるのが、何と毒牙であるらしい。人の腕など、己の口よりも大きなものに噛みつくと、届かぬのだそうだ。だから、知られておらん」
「ほう」
近くの繁みへ逃がす。元来臆病な山楝蛇は、振り向きもせず藪の奥へと逃げ去ってゆく。
「こんな暮らしをしているとな、今まで知らなかったことを知れたりもする。山楝蛇の口と同じよ。おれにはこれくらいの暮らしがちょうどよい。神にも仏にもなりたくはない。人でいい、身の丈でよいのだ」
その夜、いつもなら寝静まる頃に、知三郎はいまだ起きていた。
刀を手入れし、鍔を磨いている。道場に通っていた頃から、いつも過剰なほどに鍔と鍔元を磨き上げている知三郎に、皆半ば呆れ、半ば感心していたものだった。
「知三郎は本当に剣が好きなのだな」
そういってくれたのは、あれは樫之助であっただろうか。
手早く装具を整え終わったとほぼ同じくして、戸口に人の気配を感じた。
鞘を払い、立ち上がった。
「樫之助か」
答えは、戸口がゆっくりと開かれることでなされた。昼間と同じ、笠で顔を隠したいで立ちだ。
「やはり、口を塞ぐために探しておったのだな」
滑るようにして樫之助が入ってくる。鯉口は切られていて、やはり流れるような所作で抜き払った。知三郎の知る頃よりまた腕を上げている。そう感じられる所作であった。
「年番方様はおぬしを取り込めると、そう思っていたそうだ」
「上の見る目がそれでは、下のものどもはさぞ苦労するだろうな、樫之助」
片手で笠が解かれる。はたして、樫之助であった。
「取り込むつもりであったからこそ、見てはいけぬ文書もおぬしには渡しておったそうだぞ」
「ああ、見た。そしていやになった。口外せぬ、と言っても信じぬであろうな」
「どうでもよい。おぬしの始末がつけば、おぬしのあとには俺が座ることになる」
樫之助の笑みをおぞましいと感じたのは、はじめてだった。
知三郎の役目は、下士の品定めだけではなかった。藩奉行所文書庫には、その歴史にふさわしく、数多くの醜聞汚職も収められている。何かことが起こった折には、それを隠密裏に処理することもまた、年番方付の役目であった。
「人には身の丈というものがあろう、樫之助。昼間にそう、話をしたであろう」
「人をやめても上へとゆくぞ、おれは。お前に負けたままなど、まっぴらだ」
ああ、と知三郎は大きく息を吐き出した。
知三郎が遠ざけたかったもの。それが今、形を成して知三郎の眼前にあった。
もはや言葉は届かぬ。そう悟り、知三郎は剣を構える。
まともにやりあって樫之助に勝てるとは思えぬ。だが夜闇は、目のよい知三郎には大きな味方である。本来なら地の利も知三郎にあるはずであったが、白昼の訪問で樫之助は間取りを完全に把握しているだろう。樫之助の剣才を疑うべくはなかった。
樫之助が先に仕掛けた。第一撃を身をひねってかわす。間髪入れず二撃目が来る。斬るようでいて斬るようでない。樫之助が知三郎を追い込むように運足しているのがわかる。追い込むための剣撃だ。
樫之助の剣閃に慣れた目で、ようやく三撃目を受け止めた。
樫之助が力を込め、刃を押し付けてくる。知三郎も力はある方だが、日々の鍛錬と役目で鍛え抜かれた樫之助の腕は知三郎の押し返しをものともしない。そして知三郎は、壁際近くまで追い込まれている。
もはや術はない。樫之助は勝利を信じているはずだった。
知三郎は左の握りに力を込めた。刀が寝、肩口に樫之助の刃が食い込むのがわかる。
それを無視し、握りの部分を跳ね上げるように、樫之助の込める力に添わせる。
闇に血がしぶいた。
一つは知三郎の肩口。着物は裂かれ、かなりの深手と思われる傷が開いている。
もう一つは、樫之助の喉元近く。切り裂いたのは、知三郎の刀ではなく。そこにつけられた、磨き抜かれた鍔であった。
ごぼりと咳をして、樫之助が倒れる。知三郎も倒れながら、やぶれた袖をむしり取る。素早く肩に巻き付けて、血止めを図った。
息を整え、刀を片手で構えながら、尻と脚を動かして樫之助に近寄る。おどろいたことに、樫之助はまだ息があった。
「おぬしになりたかったのだ、おれは」
ごぼごぼという音交じりに、そのようなことを言ったように、知三郎には聞こえた。
「人は人だ。人なのだ、樫之助」
それが届いたのかどうか。
樫之助は動きを止めた。
知三郎は見下ろしていた。だが、そうではなかった。気付けば、その背に顔を埋めていた。
「なぜだ」
背に問いかけた。答えはなかった。
それが人なのだ。人ならざる何ものかが、そう答えたような。そのような気がした。
知三郎はそのまま。夜闇にひとり、突っ伏して哭いた。
(完)




