有縁剣 手向け花
小さな石を埋めただけの無縁仏に小さな花が手向けられているのを目にして、牧添桑三郎は、おや、と思った。
墓地の一番外れ、竹と幾らかの雑木が植えこんである塀沿いに、できうるだけ人目につかぬようつくられた墓である。置き石は苔むしていて、知らぬものならば、それが墓であることすら気付かぬやもしれぬ。
そこに己以外の参拝客を見出したのは、この日がはじめてのことであった。
花は水仙。草木の芽吹きにはまだ早い時期であるから、方々を探してようやく摘んできたものであるのだろう。かくいう桑三郎が左手に抱えているのもまた、水仙の束であった。
添えてある一花に加えるようにして、墓前に供え、手を合わせる。亡き友に対して祈った。
吹きつける木枯らしに寒さを感じて、立ち上がった。竹の葉がざわりと揺れて、吹き込みが増してきたことを耳に伝えてくる。
長屋町の役宅が焼失してからちょうど一年になる。あの日も今日と同じような、寒くて、風が強く、肌がひりつくような気候であった。
最も火勢が大きく、被害も大きかったのが、石の下に眠っている池仁枝朗の役宅で、のちの調べではそこが火元であったろうと判じられた。
火事は枝朗の失火によるものだということになった。異を唱える者はいなかった。肝心の枝朗が、現場からほとんど炭のようになった状態で見つかったからだ。
だからこの墓に、枝朗の骨は入っていない。そういう墓であった。
石の苔を払ってやりたい気持ちにとらわれつつ、桑三郎はもときた道を戻りはじめた。清めることよりも目につかぬことの方が、その墓にとっては大事なのだった。
しかし誰であろうか。道々に桑三郎は思案を巡らせる。枝朗の縁者であろうか。だが、事件ののち池仁の家は取り潰され、枝朗は妻子もなく身ひとつの暮らしであったはずで、父母は確か亡くなっていたはずだ。ならば、新たな仏でもあの墓に加えられたのであろうか。
そうであるなら、何とも不憫なことであろうとも思う。
寺社町を抜け、城下に戻ってきた桑三郎は、そのまま足を道場へと向けた。
遠くに靄がかる隙羅山を左手に見て橋を渡ると、閑散とした景色は消え、長屋と屋敷が立ち並び、喧騒の絶えぬ城下らしい風景が戻ってくる。騒々しいその大通りを抜け、少し外れまで足を延ばした先に衿屋道場はあった。
現在第四席であり師範代でもある桑三郎が姿を見せると、門下生たちは皆手を止め足を止め、挨拶をしてくる。それらに鷹揚に返しながら、目当ての顔を探した。
果たして、新伝要蔵を見つけた。
「要蔵」
声をかける。桑三郎と要蔵、そして枝朗の三人は、幼き頃からの道場仲間だ。席次は剣才のあった桑三郎が圧倒したが、それでも友誼は今日まで変わらず続いている。
「枝朗の墓へ参ってきた」
「おい」
慌てた様子で要蔵は裾を掴み、声を潜める。
「滅多なことを言うな。枝朗は失火の犯人と断ぜられたのだ。いらぬことで疑いを受けるぞ」
「火つけをしたわけではなかろう」
「だがそれでも、池仁の家を恨んでいる家中は多い。一年が過ぎた今でもだ」
長屋町に住む多くのものが、普請が終わるまでの間、過酷な生活を強いられたと聞く。大事な家財を失ったものも、また多いのだった。
「だが、まことに枝朗だったのか」
「まだそれを言うのか桑三郎。誰にでも誤りはある。あの枝朗であってもだ」
桑三郎の知る池仁枝朗という男は、何事にも慎重で、気配りのできる男であった。誤りに火を発するなどということがらからは、最も縁遠い男である。
ある寒い日のことを思い出す。枝朗と二人、長屋で七輪を囲んでいたときのことだ。
「手あぶりであれ何であれ、寒いときというのは、人はそれを大いに頼りにしている。火を絶やさぬよう手もかけるから目配りもするし、始末もきちんとする。だが、そろそろ仕舞にかかろうか、というような時季が、まことに危うい。寒さが緩んだぶんだけ、火への目配りが疎かになる。それゆえに、不始末や着き火を起こしやすい。人の行いは諸事、斯様のごとくだ」
小さな起こり火を見つめながらそう語っていたのが、枝朗であった。おそらく火の始末のことだけを語っていたのではあるまい。気持ちの奥深いところにそのような重石を持っている、そういう男であった。
要蔵が言うとおり、人であるからには過ちは犯す。だがそれでもやはり桑三郎は、一連の件に釈然とせぬものを感じ続けている。
果たして己が得たいと思っている答えを探しているだけなのか。いかにすれば己のこころが晴れるのか、わからなかった。
「知らない方がよいことというのはあるのだ、桑三郎。墓へ持っていったのは水仙か」
「ああ。この時季だとそれくらいしかなくてな」
「お主はそれを土着の花だと思っておろうが。我が国に入ってきたのはどうも源氏か北朝の御代の頃であるらしい。そう聞けばどうだ」
「何やらありがたみが薄れるようではあるな」
「であろう。おれも本草の書でその記述を見たときは、何やら知らぬ方がよかったような、そんな気になったわ」
ともかくこれ以上関わるな、と釘を刺し、要蔵は稽古へ戻っていった。
桑三郎のわだかまりは、晴れぬままであった。
要蔵から話を持ち込まれたのは、そのひと月ほど後のことだった。
「縁組だと」
「うむ。先の妻が亡くなってから二年。子もおらぬのだし、そろそろ後添えを貰ってもいい頃だろう」
久々に長屋町の牧添家を訪れるから何用かと思えば、おもむろに切り出したのがそのような話であった。
菊という名の町人なのだがな、と要蔵は語り出す。
「名からもわかるとおり、もとは武家の娘だ。件の火事で焼き出され、当主を失い断絶した家のひとつだな」
普請方に勤めるこの友人が、あの火事で被害を受けたものたちを援け、こうした縁組を勧めて回っていることは知っていた。幼い頃の要蔵は貧しく、道場や学問所へ払う謝礼も滞りがちであったと聞いている。やがて学問方面に才を発揮する彼に目が留まり、新伝の家に婿として迎えられるまでは本当に苦労したのだということを何度も聞かされたし、また目にもしていた。それゆえか、要蔵は突如苦境に立たされたものたちに対して目配りを欠かさぬところがあり、桑三郎がこの友人を好ましいと思っているところでもあった。
「だがまさか、おれのところに持ち込もうとはな。ということは、何ぞ訳ありか」
「話が早くて助かる」
互いに苦い笑みを浮かべる。どちらかといえば実利を好む要蔵である。わざわざ友である人間に話を持ってくるということは、それなりの事情があるだろうことは予想できた。
「実はその娘、故なき恨みを買っておってな。傍に腕の立つものが必要なのだ」
今は武家長屋を離れ、城下よりやや離れた川向こうの町人長屋に住んでいるという。
「だが、そこでも孤立しておってな。今のままだと、命も危ういかもしれん」
「ふむ」
腕組みをし、目を閉じて思案する。
見えぬ話であった。何より、要蔵の話し方がおかしい。常ならばこのような遠回りの話をする男ではないのだが。
大筋の部分を隠しながら話しているふうであるのが見え見えであり、そのこともまた、おかしい。
目を開き、友を見据えた。
「なぜ恨みを買っているのか、聞いてもよいか」
「言えぬ。だがお主なら、その娘を一目見れば、わかるだろう。今、おれが言えるのはそれだけだ」
「隠しごとだらけで、話がまったくわからぬぞ、要蔵」
「だからお主にしかこの話は持って来れぬのだ、桑三郎」
二人して暫し睨みあう。先に視線を外したのは要蔵だった。
「ともかく、一度見てくれ。それから決めてくれればいい」
「見ればわかるのだな」
「ああ、そのはずだ」
桑三郎は了承した。要蔵の安堵したような、それでいてどことなくすまなそうな表情が、その日床に就くまで、ずっとこころの内へと残っていた。
翌日になってもやはり要蔵の顔を忘れられぬ桑三郎は、今日のうちにでも確かめにゆく方がよいと決めた。道場に本日は休むとの言伝を残し、要蔵に教えられた町人長屋へと向かった。
城下の武家町と町人街は主に川と大通りで区切られていて、橋一つと大道を一つ横切るだけで、景色は様変わりする。町人街の大通り沿いと川岸は喧騒に包まれ、魚の匂いや出汁の匂い、それから藁と土の入り混じったような匂いが漂い、いつも砂埃が舞い上がっていて、いくつもの声色が飛び交っている。それらのどれもこれもが、一本通りを過ぎるごとに色あせるが如く失われていくのは、面白いものだと桑三郎には思われた。
人の世がどれほどに広がろうと、人が手を伸ばせる範は決まっているのだ。桑三郎はそう思う。それを越えて、こうした外側にまで手と、目を届かせようとする要蔵は大したものだとは思う。
その要蔵が、枝朗の件は探るなという。あやつのことであるからおそらくは、桑三郎よりもずっと事情を知ってはいるのだろう。だが、そこには手も目も伸ばせぬのだ。
逆に言うならば。要蔵は己の領分を知っているのだともいえる。おれに欠けているのはそういうものだろう。桑三郎は思った。
剣においてはそれなりのところまで昇ることができた。だが、それ以外はどうだろうか。
おれは、いったいどこに手を向けることができるのだろうか。
住所は閑静な長屋だった。人の気配も少ないところを見れば、空き家が多いのやもしれぬ。外観の古び方と手入れのされていなさが、桑三郎にそう思わせた。
目当ての場所を見つけ、踏み出そうとして、足を止めた。
いやな気配を感じた。殺気。そういわれる類のものだ。
桑三郎がやってきた方向と逆側。同じ通りを同じ戸を目指して、近づいて来たように思える。
鯉口を切り、踏み込んだ。
黒藍の着物に塗笠の二本差し。とまれ尋常なものではない。
「何用だ」
声をかけたのと、侍が大刀を抜いたのは同時であった。
抜き打ちの一撃を、右足だけ一歩進めた半身で避ける。そのまま桑三郎も抜き打ちで斬りかかった。
仕留めるつもりであった一撃は裾をかすめただけに留まり、すれ違う。桑三郎の全力での初撃を避けられるものなど、衿屋道場においても僅かでしかない。相手はかなりの手練れであると判じた。
ただの浪人ではあり得ない。ならば、藩家中のものか。
要蔵の忠告が、こころを過った。
正面からの打ち込みが来る。図らずも受け太刀になった。速く、重い。剛剣だった。
ぎりぎりと押し込まれる。身体の軽さは桑三郎の弱みで、師範からもいつも指摘を受けている。でき得るだけ受け太刀をせぬよう。速く、軽く。それを持ち味にせよとの教えであった。
だが今、桑三郎は相手方の有利な体勢に持ち込まれてしまっていた。
たまらずに後ずさる。だが対手は力を緩めることなく押し、詰めてくる。
左足の踵が板塀に触れるところまで、そのままついに押し込まれる。このまま上体を折られれば、そこを斬られておしまいだろう。
もはやこれまでか。桑三郎は死を覚悟した。
そのときだ。
声が響いた。いや、声というべきだったか。
飛んできたのは唾だった。桑三郎の顔一面にそれが降りかかってきた。
男の剣が緩む。男が背を丸め、くさめをしている。
肩口から斬り下げた。くさめが止まり、涙と鼻汁と、涎で顔を汚した男が、驚きを浮かべたまま俯せに倒れていった。
背後に影を感じて、振り返った。
土色の倹しい着物姿の娘がいた。両手にいっぱいの、水仙を抱えている。
「枝朗」
その顔を見て、思わず声に出た。その造作が、亡き友にそっくりだったから。
「池仁枝朗どのの、縁者か」
剣を納めながら問うた。
「はい。故あって、別家の娘として育てられましたが」
だがその顔を見れば。気付くものはいるだろう。
「あの日はちょうど内緒で兄を訪ねていて。それで、あの」
「詳しい話は別の場所で聞こう。名を何という」
「菊と申します」
ああ、と桑三郎は天を見上げた。おれにはここに手を向けろというのだな、要蔵。
要蔵の意地悪い笑みがこころに浮かぶ。だが桑三郎には、断る理由は見当たらなかった。
「拙者は牧添桑三郎と申す。枝朗とは道場仲間であった。これも何かの縁」
菊が抱えていた水仙から、一本を取り上げる。どうやらもう一つの謎も、答えを得られたようだ。
「屋敷町に腹の黒い友がいる。ひとまずはそこへゆこう。そやつにも、いろいろ聞かねばならぬのでな」
ゆっくりと女の足に合わせて桑三郎が歩き出す。その三歩後ろから、菊が静々とついてゆく。
霞がかった空の先。花開こうとする山々が人の営みを見下ろしている。
(完)




