宿願剣 こもれ日
暦の上では秋に入ったというのに今日はまたやけに蒸すかのような暑さだな、とひろみが思っていたちょうどそのときだった。
屋敷の裏でもの音がしたので針仕事を止め、覗いてみると案の定、作事場を抜け出してきた夫の慎吾が縁側に腰掛け、団扇を使っていた。
地等家の狭い庭には柿の木が植えてある。先代藩主の頃、武家屋敷の庭に食える実が生る樹木を植えることが奨励された名残であるという。いざという際の飢えをしのぐよすがになれば、という配慮であったようだ。
けれども、この木がなければ庭に畑をつくれたのに、とひろみは思う。そのようなさもしいことを考えてしまうだけ、武家の困窮が深まったということであるのやもしれぬ。
ともかくも、ひろみが嫁いだ地等の家には屋敷に似つかぬ立派な柿の木があり、その枝は伸び放題に伸びて、縁側にちょうど良い具合の陰を落としているということだ。そしてその木陰は、役目をさぼりがちな夫、慎吾のお気に入りの場所でもあるのだった。
「また抜け出して来たのですか」
「この真夏に仕事をさせようってのがそもそもの誤りなのですよ……。真夏なんてのは、ただ己が生き延びることだけにすべて傾ければよいのです……。ことに、幼子やご老人なんぞはこの暑さだけでも亡くなってしまうのですから……」
そのようなことを、だらりと伸びたまましゃべるのも億劫だという態でぼそぼそと語る。ひろみはまなじりをつり上げる。それもまた、いつものことだった。
「ばかなことを申してないで、見つかる前にお戻りなされませ。先の月にも、抜け出したことがあからさまになって、小頭どのにお叱りを賜ったところではないですか」
「前にも申したでしょう……。わたしはなぜかこう、汗をかきにくいたちでしてなぁ……。暑いところに長くいると、とてもとても、大ごとなのです……」
「また、そのようなことを」
いや、これは世迷言ではなく、とか、そもそも獣の汗とは身体の熱を、とか夫が言い立てるのを無視して、肩を引っ張り上げ、立ち上がらせる。幼き頃より武芸に精を出していたひろみは、今でも女人の身としては滅法力が強い。もしかすればこのひょろりとした夫よりも己の方が力持ちではないかとさえ思うときもあるが、さすがにそれは認めたくなかった。
「お叱りを受ける前に、お戻りなされませ」
背を押して木陰より追い出す。慎吾は口の中でもごもごと何かを言いつつ何度か振り返ったが、遂にあきらめて表へと出て行った。
柿の葉の隙間を縫うように、日がひろみへと落ちかかる。舟形の葉を持つ柿がつくる憩いは相応に厚く詰まっているのだが、そのわずかな間隙を貫いて、日はひろみの肌を焼く。掌で目庇をつくりつつ、何くの別なくあまたに降り注ぐその強さに、恨めしさとともに幾ばくかの畏れのようなものを胸のうちに過らせた。
屋根の内へと戻りつつ、ひろみは思案する。それにつけても、この頃の夫は忙しそうである。何でも屋敷町の方に大きな石が落ちたとかで、先の月ごろから何かと呼び出されることが増えているようである。
慎吾の語るところでは、その石は天上より落ちてきたのだそうで、その証に、落ちたばかりのときには大変な熱を持ち、周囲の家屋敷をすべて燃やしてしまったのであるという。そのため、普請組は今でも休む間がないほどの慌しさである、とのことであった。
それだけであるならまだ、よかったのだが。数日後にはまた別の、妙な事態が持ち上がった。
屋敷町はそれを囲むように堀が巡らせてあり、そこには隙羅山から城下に繋がる大川から水を引き廻してある。隙羅山は古くより霊峰と呼び伝えられている大山麓で、身に湛える水量も尋常のものではない。その清水で満たされた堀は、水運の用として使われているのはもちろんだが、屋敷町の外側に住む町人たちにとっては、絶好の釣り堀ともなっていた。
網を打ったり大仕掛けを施すのでなければ、堀での魚釣り、貝採りは許されている。事件の数日後から、常とは違うかたちの魚が獲れるようになった。
やたらと肥大した魚や、円く曲がったような魚、頭が二つあるような魚や、逆に尾が二つに分かたれた魚などが釣り上げられる。それも一尾や二尾でなく、二つに一つくらいの割合で、そういったものが姿を現すのだ。魚だけではなく、田螺などにも奇妙なかたちのものが見られた。
しらせを受けた町方は、早急に堀での釣りを禁じる高札を掲げた。仔細はわからぬまでも、奇形が大量に生ずるのは何らかの異変が起きている、と考えるほどの知見は町方でも持ち合わせている。時候近いこともあってか、屋敷町の事件が関わりあるのではないか、と考えるものも多かった。
ともかくも、現状堀内のものどもを口にするのはよろしくない、と藩上層においても決議され、即座に触書が立てられたのであった。
「だがそれでも、釣りに興じるものどもが一向に減りませんのでな。各組から暇をしているものたちが借り集められ、堀の見回りをしておるというわけです」
帰宅した慎吾は毎晩に酒一杯を楽しむのが常である。その際に、お役目のことを話してくれることも時折ある。
その日は蕪漬けの一椀をつけたが、三切れしかないそれをさも大事そうに少しずつ齧りつつ、うまそうに呑む。機嫌がよさそうだといえばそうだし、常が不機嫌なのだと考えればそうとも見える。感情の変わり目がわかりにくい夫ではあった。
「では、それでおまえ様も」
「うん。うちの組で暇なものといえば、私ですからなあ」
機嫌よく言うことではないのだが、と少し睨んだが、慎吾は動じることなく、最後の一切れを齧っている。
「趣味で釣っておるものは、よいのです。だが今や、堀で獲る魚貝が、命を繋ぐ糧となっているものも多い。そういうものたちは、何度追い払ってもまた、竿や笊を抱えて戻ってくるのです」
「ですが、食べては危ういのではないのですか」
「それも伝えるのですが。目に見えぬものがなければ、人はなかなか、すぐそばにある危うさにさえ気づかぬものなのですよ」
確かに、危ういということならどう危ういのか、それを見せてもらわねば、ひろみとて信じることは難しい。けれども、頭が二つある魚なんてのはやはり気味も縁起も悪いから、口にしたくないと考えるのが当然であるように思われたが。
そういったものであっても食わねばならない。貧しいということは、そういうことなのであろう。
「堀は長く広いですからな。押しとどめることは難しい。ですがまあ、やるしかないでしょう」
珍しく苦々しげな顔を見せて、慎吾は茶碗を干した。
異変が起きたのはひと月ほどが過ぎた頃だった。
その日も針仕事をしていたひろみはまた、表の方で物音を聞いた。
あの人はまた、と眉をしかめて立ち上がる。狭い宅であるから母屋から土間まではひと続きで、ほどなくひろみは戸のところで蹲る夫を見つけた。常とは違い、慎吾は慌てた様子で、大きく息を吐いている。
「おまえ様」
「堀近くや橋下に住まっている貧者たちが騒いでいる。どうにも様子がおかしい。すぐに戸締りをして、守りを固めよ」
ひろみが問うより前に、慎吾は鋭く言い放った。ひろみは背筋を伸ばし、衿を正す。
「あいわかりました。おまえ様は」
「見廻りのものたちが談合に当たっている。顔見知りが多い故な。私もそちらに加わるつもりだ。が」
立ち上がった慎吾が肩を掴んだ。
「私が見たところ、どうにも、話が通じるような肌触りではない。そもそも、ことばすら通じるのかどうかも怪しい。もしも戸を打ち破られたら、人と思うな。獣に襲われたのであると思え。それから」
ひろみの目をじっと見据えた。
「どうにもならぬと思えば、庭にある柿の木の下に逃げよ。きっとそなたを、守ってくれる」
それから一度、ひろみをかき抱くと、慎吾は走り去った。何かを問う暇もなかった。
すぐに我に返った。
外垣と戸を締め、桶盥を動かす。襷を掛け回してから、母屋の奥にしまってある長持を引き出した。
髪を解し、鉢巻を締め、小太刀を帯に差す。縁側へ続く戸板のひとつだけを開け放して、小太刀を左手に提げた。
戸を打ちつける音が響く。やってきたのだ、とわかった。慎吾の言を疑う道理は何もない。
土間の上で鞘を払い、待ち構えた。
足元が揺れるほどの大きな響きとともに、戸板が打ち破られた。五人、六人。襤褸を纏った男女が一挙に飛び込んでくる。
段を上ろうとする先人の男を、上りざまを狙って斬った。目のうちの白い部分が朱に染まっている。まさに、人ではなく狂える獣のようにひろみには見えた。
男が後続を巻き込みながら倒れる。その左右を抜けてこようとする獣が二人。右のものに横薙ぎに斬りつけ、そのまま左から上ろうとするものの頭に肩口をぶつける。
落ちてゆくのを認めてから、後ろ脚に母屋まで下がる。
土間は、両眼を朱に変えた貧者たちで溢れていた。
倒れていたものたちも次々にと立ち上がってくる。ひろみの腕と小太刀では、致命の傷を与えるのは難しい。
城下は今どうなっているのか。そう考えかけて、やめた。まさか地等家だけをめざして、彼らがやってきたわけではあるまい。この界隈一帯が、今のひろみと同じ状況に陥っている。そう思量する方がよさそうだった。
獣どもが列を成して近寄ってくる。それらを払うようにして小太刀を三角に回しながら、僅かずつ奥へと下がる。
そのまま縁側へ。今日もまた、日は強く庭を照りつけている。朝夕は涼しくなったといえど、日中はまだまだ暑い日が続いている。
縁側を慎重に降りると、柿の木を背にした。
屋敷から貧民どもが湧いて出てくる。それを目にして、ひろみは覚悟を決めた。
ひろみを守るように、木が陰をつくっている。陰は縁側を離れ、円を描くようにかたちを変えている。そこから少しはみ出すように、小太刀を外へと向ける。
そういえば、夫は姿を見かけぬと思えば、いつもこの柿の木の傍へとやって来ていた。こうして背を預けていれば、その気持ちが少しだけ、わかるような気もする。
日の光というのは強大な力なのです。以前、夫がそのように語っていたことがある。いったい何処で学んだものか、夫の慎吾はときに世の仕組み、成り立ちというものにやけに詳しいときがあった。
目には見えぬけれども、日の光にはいまだ明らかにできぬ力というものが含まれている。そうしてそれらが草木を生長させたり、はたまたこの暑さをもたらしたりと、多様なはたらきをするのだという。
「それらの力を自在に使えるようになればよいのですが。日頃よりその力を溜め込んでおいて、必要となったときに用いる。そのようなことができるようになれば、とてもよい」
「まあ、そのようなことが、できるのですか」
「わかりません。だが遠い先のいつかには、そのような仕組みも、見つけられるやもしれませんねえ」
慎吾がお役目を怠けていたのは、あれもまた。己の生きざまに、はたしてこれでよいのかと悩んでいたのかもしれない。このようなときであるというのに、ひろみは夫と語り合った些些ごとを思い出し、薄く笑った。
小太刀を握る手の甲に、まばらに光が射している。
人も同じだ。ほんとうに小さな隙間から、そっと光がこぼれ落ちる。気付けるかどうかは、わからないけれど。
おまえ様。わたくしを、お守りくださいませ。
ふと、気付いた。胸の前に突き出し、構えた小太刀。その刀身が、輝いている。
陰より出た刀身は日の光を浴びている。白く輝きを射すのは当然だ。だがひろみの目に届く光は、どうにも紫がかった色を帯びているように見える。
そこでようやく気付いた。ひろみを取り巻く円い陰。そして柿の木自体も、淡く紫色を帯び、湯気のごときものが立ち上っている。
貧者どもが跳びかかってきた。せめて一太刀。刃を自身に引きつける。
光が爆ぜた。
紫色の細い光が一条、二条。ついにはいくつもの帯となって木を中心として放たれる。それらの帯は上下、左右に動き、廻り、周囲のすべてを薙ぎ払うように回転してゆく。
その紫光が二度三度と通り過ぎてゆくのを、驚きで固まったままひろみは見ていた。
光が止んだ。
刻にしてどれくらいの間であったろうか。ひろみにはわからない。光が消えた後にひろみが見たのは、まったく何もない、一面更地となった剥き出しの荒野であった。
振り返る。一本の柿の木が、そこには変わらずあった。平らな大地にただ一本。ひろみを守るように円く陰を宿して、立っている。
守ってくださったのですか、おまえ様。
答えはない。だが、慎吾はすべて知っていたのではないか。そう思えてならなかった。
屋敷は残骸すら残っていない。夫がどうなったのか。城下がどうなったのか。今はまだ、知るすべがない。
それでも。
この木だけは守らねば。ひろみはそう、思い定めていた。隙間を抜けた日が、ひろみの解いた髪を照らした。
(完)




