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問答剣 露休め

 霧のような雨が降っている。

 濡れながら家にたどり着いた小放露五郎こばなしつゆごろうは雫を払いもせず、軒先でうなだれていた。

 またやってしまった。何度目かになる自省を繰り返す。道場から帰ってくるまでの間、そのことばかりがこころの内でとぐろを巻いていた。

 軒先からは雨垂れが定められたような間で落ち、土を叩いている。目ではわからないほどの雨粒でも、一ところに集まることで、こうして目にも耳にも届くような大きさに変わってゆく。

 人との関わりあいも似たようなものだなぁ、と露五郎は思った。

 露五郎の格好は紺地の稽古着である。出先は、月に四度ほど通うことにしている城下の衿屋えりや道場であった。

 小放の家は代々控え立場の廻り同心である。定廻り同心のように常にお役目が回ってくるわけではないが、それでもそこそこの剣の腕前は保っておかねばならない。

 衿屋道場を勧めたのは母のかつらであった。先代である父から幼少より手ほどきを受けてはいたが、露五郎の腕前はよくいって並み程度、何とか扱える、といえるほどのものでしかなかった。手本としていた父の腕前が、そもそもまずかった。

 だがそれでも。世代は移り、父は隠居して、露五郎にはお役目が回ってくる。

 母の桂は半ば強いるようにして、衿屋道場に露五郎を押し込んだ。そういった経緯があり、露五郎は今も細々と道場通いを続けている。

 のではあるが。

 雫とともに、いくどめかになるため息を落とす。道場通いは、露五郎にとって今や重荷となっていた。

 はじまりは、ふた月ほど前。豪農の子息であるという又八またはちという男が入門してきたことだ。

 衿屋道場の門人は大半が士分であるが、町人や百姓も広く受け入れている。これは奥の間に掛けられている「八方手尽」の書を体現しているためだともいわれているが、詳らかなところを露五郎は知らない。

 ともかく、そういう男が入門してきた。

 百姓の出であるからかどうかは定かでないが、又八は粗暴な男であった。ともかく一つ所に留まりじっとしているということができぬたちであるらしく、主に礼儀や立ち居振る舞いのことで、師範代などから叱責を受けている。

 声も大きく、何かにつけて人を脅しつけるような喋り方をする。元来気弱な露五郎が苦手とする人物であった。

 であるからして、できうる限り近づかぬよう、道場内でも出くわさぬようこころを配っていたのであったが。

 剣士としては、又八はなかなかに非凡なものを身に宿していたようで、道場で見かけるたびに見違えるように腕を上げていた。露五郎ほどのものが見てもわかるくらいの変化であるのであるから、これは相当なものであるといってよいだろう。

 月はじめの席次替えで、又八は露五郎の左隣にまで上っていた。

 目をつけられたのはこのときだろう、と露五郎は思っている。

「あんたが露五郎さんか」

 ひと言めからそれであった。相手が武士であることなど何とも思っていないことが、それだけでも受け取れた。

「なあ、今からおれと稽古してくれよ。ちょいとでいいからよ」

 そんなことを言いつつ露五郎が行こうとした先を遮ってくる。露五郎は目の先を下げたままもごもごと、拙者は用事がありまして、などということしかできない。

 思いもよらなかったことが起こると、咄嗟にことばが出てこないのである。露五郎の悪癖であった。

「ちょいとだけ、ちょいとだけだ。いいだろ」

 又八は引き下がらない。己の意思をねじ込んでくる。こうなると、露五郎のこころの内はぐるぐると回り、何も考えられなくなる。

 そして、考えることをやめた露五郎の口は、己が思いもよらぬことを勝手に喋りはじめる。

「まずは人になってからお話しなされ。そうすりゃ話も聞きましょう」

 又八が驚きで固まっている間に脇をすり抜け、逃げるように道場を後にした。それがはじまりであった。

 以来、又八は道場で露五郎を見かけるたび、何かと突っかかってくるようになった。

 強く押されると、つい思いもよらぬことを口にして、反発してしまう。それが露五郎の悪癖の二つ目であった。

 はじめは何とか穏便に、話をしようとする。だが又八はいつも、己のことばだけを押し付け、意見が通らないと腕や竹刀で露五郎を小突いたりもする。焦りと怒りが溜まった露五郎はついまた、いらぬことを口走ってしまう。

「拙者は野良犬を斬るために剣を習っておるのではないからな」

 その日の悶着の末に露五郎が言ってしまったのは、それであった。

 又八の顔面が瞬く間に朱に染まった。

「またそれか。おめえは、おれを人扱いしねえのか。おれが百姓だからか」

「百姓だからじゃない。おまえさんが、人でないからじゃ」

 こころのうちでは、そうではない、言いたいことはそういうことではない、と思っている。だが、己の口を己で止められなかった。

「侍だからってだけで、えらそうにしやがって」

 そうではない、と言いたかった。だが、言えなかった。

 お役目柄、露五郎は町人と接する機会は多い。そうすれば、町人と一くくりにしても、その中にはさまざまな人間がいる、ということがわかる。話し合いができるものもいれば、そうでないものもいる。人としてまっとうに向き合えるものがいれば、そうはできず十手にものを言わせねば仕方のないものもいる。それは武士であるかとか、農民であるかとか。そういった身分とは関わりあのないものである、と露五郎は感じていた。

 露五郎が言いたいのは、そういうことだった。けれども、それがことばとしては出てこない。

「今に見てろよ」

 又八が立ち去ったことで騒動は終わった。だが露五郎は家に帰りつくまで。帰り着いた後も、他にやりようがあったのではないかと思い悩むことになる。

 言うべきときに言えず、言わなくてよいことを、言ってしまう。ことば。露五郎を悩ませるのは、いつもことばだ。

 人はどうしてしゃべるのかのう。そんなどうしようもないことでただただ悩む。霧のような雨の日のことであった。



 数日の雨ののち、晴れ間がようやく城下に訪れた頃、露五郎はお役目で寺町の外を巡っていた。

 寺内で何らかの催しが行われているらしく、その見廻りに露五郎は駆り出されていた。寺町を囲むように縁日の露店が軒を連ね、道を挟んだ対面にもまた同様に香具師の列が並んでいる。赤と白と、金や黄の色とりどりの露台やのぼりが、久々に姿を見せた日を浴びて目に飛び込んでくる。その奥の奥には、靄がかる隙羅山ひまらやまも久々に顔を覗かせていた。

 人で埋まった道中をすり抜けるようにして露五郎は歩む。控え同心が駆り出されるのはこういった特段の際や、定廻の誰かが手傷や病を得た場合がほとんどだ。こういう場所の警護はそこそこに慣れているといってよかった。

 とりあえず一巡りを済ませ、ひと休みしようと考えていたとき、ひとつの露店が目に留まった。

 正しくは、耳に留まった、という方がよいか。気を惹かれたのは、軽口、と呼ばれる講談師の語りであったからだ。

 軽口は、こういった縁日やら辻やらで、ちょっとした小咄を話聞かせて小銭を稼ぐ商売だ。近頃は縁日となれば、こういった軽口を生業とする香具師がひとりふたりは混ざっている。

 軽口が得意とするのは、笑い話である。ことば遊びや掛けことばを多用するは講談や浄瑠璃芝居に通ずるが、そこで使われるのは、それらよりもっと卑俗で、単純で、裏や教養を必要としないものだ。

 露五郎はこの軽口が、好みであった。己が思うことをなかなかうまく話せぬためか、軽口がすらすらと、次々にことばを紡いでゆくのは、ただ聞いているだけで楽しいものであった。

 いくつもの軽口を耳にしていると、話者の巧拙も何となくだがわかるようになってきた。上手くしゃべるのに、なかなか話が入ってこない話者がいれば、語りはゆっくりであるのに、やたらと惹き込まれるような心持ちになる話者もいる。また、語りに交える身振り手振りも、語りと同じくらいに要となっていることにも、気付いた。手ぬぐいや扇子を上手く使う話者もいた。

 この軽口はうまいな、と足を止め聞き入りながら、露五郎は感じていた。遠目ではあるが、しぐさも堂に入っている。しかも手ぬぐいと扇子、両方を用いて、まるで八本ほども手があるのではないかと見間違う場面もあった。

 そしてそれらのすべてが、計られたうちの中で組み立てられている。そう感じられる話者であった。

 ふと露五郎のこころに浮かんだのは、幼き頃に学問所で学んだ算術である。それに近しいものを、どうしてだか露五郎は話者の語りに聞き取った。

 研鑽の妙。軽口の語りには、それがある。

 騒がしい縁日の中、露五郎はひとり、道場でのことを思い返していた。

 わしもこれくらいしゃべれたら。また違ったやり方があったのじゃろうか。

 ことばなぞ使わずに済めばよくなるといいのに。そんなことを思いながらこれまで生きてきた露五郎である。だがはたして、これまであの軽口ほどに、ことばに対して向き合ってきたであろうか、と思った。

 もしや。話芸というもんは、剣術や算術のように学んで身につけられるものなんじゃろうか。

 余計なことをつい言ってしまう性質は、容易く正せそうにはない。だがそれを、話芸というもので何とかできるのであったら。

 そんなことを考えはじめたときだ。

 通りの奥の方で何やら騒ぎが起こっている。軽口に耳を傾けていた露五郎は気付くのが遅れた。

「ちょ、ちょいと、通してくれ」

 懐から十手を抜き出して見せつけつつ、人をかきわけてゆく。ひとかただけ人の波が途切れ、ぽかりと輪をつくっている。

 輪の中に二人。ひとりは倒れ、道の上には赤黒い血が染み出している。

 立っていたのは、長脇差を提げた又八だった。

「な、なにをやっとるんじゃ」

 露五郎は踏み出して、声をかけた。露五郎を認めた又八が顔を向け、少しだけ驚いた様子を見せた。

「おめえ、同心か」

「そうじゃ。か、刀を捨てい」

 十手を示しながら、左手を伸ばす。だが、又八は動こうとしない。

「いやじゃ」

 長脇差を両手で構えると、露五郎に相対した。露五郎も十手をしまうと、素早く刀を引き抜く。

「な、なにがあったんじゃ」

「こいつが、おれをばかにしやがった」

 又八が倒れた男に唾を吐きかける。町人と思われる男は、すでに息絶えているようであった。

「ばかにされたら、斬るのか」

「そうだ。百姓だからって、下に見られてたまるかよ」

 目が怒りでぎらついている。何ものをも寄せ付けない。そういうまなざしに見える。

 又八がどのような生を歩んできたのか、露五郎はとんと知らぬ。だが、もはや引き返せぬところまで来てしまっているようであった。

「それは本当に、百姓だから、なんじゃろうかな」

「なんだと」

「おまえさんが、そういうおまえさんだから。おまえさんもまた、人を下に、見ようと、してる、からじゃねえのか」

 先ほどの軽口を思い出す。拍子。そう、軽口のあれは、拍子を揃えていた。

 通り過ぎるものを、惹きつけるように。怒っているものにも、聞かせるように。

「相手の、話は、聞いたのか。ちゃんと、話は、きいたのか」

「うるせえ」

 又八が打ち込んできた。道場での又八には目を見張るものがあった。だが、今の又八には恐れを感じない。

「刀を、下ろせ。おまえさんの、話は、聞いてやる」

「信じねえ」

 細工のない斬り下ろし。露五郎は易々と避けた。又八の拍子が、乱れていた。

 潜り込むようにして、又八の腹に切っ先を埋めた。

 横に斬り捌くようにして抜き出し、すれ違う。残心を取るまでもなく、又八が倒れ伏すのがわかった。

 刀を収める。又八の目から力が消えてゆく。最期まで、獣のまなざしであった。

 喧騒が戻ってくる。仲間の同心たちが、集ってくるのが見えた。

 空を見上げる。四方から雲が集い、日を隠そうとしている。ひと雨来るかな、と感じた。

 何とかできたのであろうか。いつもの癖で自問する。うまくやれば又八が退くことはあったであろうか。あったかもしれない。だがそれには、あの軽口ほどの技が必要であったろう。露五郎では、難しかった。

 しかしながら、そういう道すじがあり得たかもしれない。それは、露五郎の何か奥底の方を揺さぶる岐路であった。

 雨が降るまでに帰れるじゃろうか。いや、難しいじゃろうな。

 すべてを終わらせて、早く帰りたかった。母の桂に、伝えたいことがあった。

 剣だけじゃあ、駄目じゃ。別の技を身につけねば。

 それが己の命題であると。露五郎は思い定めていた。

 母を説き伏せねばならぬ。口下手な露五郎には、なかなかに難しい試みであろう。

 だが。それでも。

 まずはここから。露五郎は拳を強く握りしめる。

 霧のような雨が、落ちかかっている。



(完)


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