春風剣 雪割り
何やら騒がしい、と感じたのは、半刻ほど雪道を歩いてきたときのことだった。
木包喜多蔵は、頭まで被った大きな蓑から耳だけを出して、澄ませた。
暦の上では春になったはずだが、山の上方半分はいまだ、深い雪に覆われている。喜多蔵は、蓑を纏い、平たい木組みを脚に履いて、山を下っていた。木組みは喜多蔵自身の重みを広く分けてくれるが、それでも膝下の頃まで沈み込むほどに雪は深い。踏み込み、抜き出すたびにざかざかと音を立て、時折近場の木より濁った雪塊が落ちる。落ちた後には、朽葉色の木肌が白い景色を割っている。
喜多蔵が感じた騒がしさは、そういった景色とは別のものだ。
喜多蔵がここ隙羅山にこもってから四度目の季節が過ぎようとしている。はじめはふもと近くの打ち捨てられた猟師小屋を住処としていた。今は、そのさらに奥に見つけた大きな洞を利用して、仮の住まいをつくっている。
山に入ったばかりの頃は、いつ死んでしまってもおかしくないような始末であった。町での冬支度と同じつもりで過ごした一年目の冬は、夕から日が落ちるまでのほんのわずかな時で耳と手足の指を失いかけた。町屋で扱っておるような防寒の具は寒山では何一つ役立たぬのだと、思い知らされた一刻ほどであった。
それから己の命を糧として、さまざまなことを喜多蔵は知り、憶えた。山に住む幾人かとも知己となり、これまた様々なことを教えてもらった。
山のものは里のものとは違う。はじめの頃は、人ではない別の生き物とでも相対しているような心もちであった。だがそれがむしろ、半ばこころを失いかけていた喜多蔵には、よかったようだ。
僅かずつ平静を取り戻した。それでなんとかようよう、四度目の春を迎えつつある。今や、喜多蔵も半ばは山のものである。
だが。山のものには似つかわしくないものが、喜多蔵には一つある。喜多蔵は二刀を差していた。
音、というより声のする方へと向かう。今やそれらは人の声として、はっきりと喜多蔵に届いている。
漏れ聞くそれらから話を繋いでみる。どうやら、山道の雪かきをしているようであった。隣国との境となる山道から雪を除け、行列を通す。話の中に出てきた岡根大介、という名を聞いて喜多蔵は眼を見開いた。
領内の東部、隣国との境に、数年前より新たに拓いた開墾地があった。五年ほど前、地均しがようやく終わり、今年からは稲が植えられようという矢先に、隣国より差し出口があった。開墾地の一部が、隣国の領にかかっているというのだ。
藩はすぐさま人を出し、調べさせた。届いた報告は、開墾地はすべて領内のものであり、一向に問題はない、というものであった。
藩はその旨を隣国へ伝えたが、隣国はそれを承服せず。両藩の間には少なからず険悪な空気が漂いはじめていた。
何より困ったのは、開墾地の農民たちが、隣国のものたちと、土地の線引きを巡って争い始めたことである。
開墾地は、五年の間は年貢のかからない見取田とすることが約定されている。農民たちにとっても、田地が自分たちのものと認められるか否かは、生き死ににかかわる問題であった。
事態を重く受け止めた国家老の酒井守道は、兼ねてより親しくしていた隣国の家老是和吾国に直に使いを送り、争いが大きくなる前に鎮静化を図ろうと話し合いを申し込んだのであった。
事を荒立てたくないのは是和も同様であったようで、酒井の申し出を受けた。そうして、談合のために是和が密かに藩を訪れることに相成ったのである。
どちらも小藩ではあったが、石高は隣藩の方がやや大きい。自然、隣国の方がやや強い立場にあったし、下士や、そのる舞いを目にすることが多い農民たちにも、多少なりともそういう思いが染みついていた。このたびの騒動も、そのような下地があったからこそ持ちあがったものであるともいえた。
酒井が是和を自国に招いたのも、そういった力の差を考慮のうえ、対等な交渉を行うためであったし、是和としても事を穏便に済ますにはその方がよいと考えたのであろう。
だが隣国の国家老を招くにあたっても、やはりいくつかの問題が持ち上がった。
まず中老の岡根大介が酒井の方針に強く反対した。開墾地の件については当藩に落ち度はなく、藩主を通して強く抗議するべきである、というのが岡根の意見であった。
岡根は酒井の政敵である。土地の農民たちが争いをはじめている今、できうる限り早く事態を収束させるべきであり、面子にこだわって強硬に出るべきではないことは、誰もが認識していた。岡根のそれは、酒井に対する政治的な駆け引きである、というのが大方の見方であった。
酒井は岡根と岡根派の意見を無視し、是和との日取りの約定を手早く取り付けた。酒井と是和の談合の日取りが早くにまとまったのは、そのようないきさつもあってのことだったのである。
藩と隣国とを結ぶ街道は、長い冬のため未だ雪に埋もれていた。そこで酒井は、通運の利を得るためという建前で、街道の雪かきを命じたのだ。各地からの荷が滞ることで、城下の商人たちが困りはじめていたことも、また事実であった。
意見を退けられ、面子を潰された岡根が、何らかの形で邪魔をすることは十分に考えられた。そこで、徒士組三十名が警護を命じられることになった。そのとき選ばれた三十名の中に、木包喜多蔵の名が含まれていたのだった。
まだ片付いておらなんだのか。気取られぬよう小声で、喜多蔵は言ちた。
木々を縫うように坂を下り、近づく。はたして、寒風の下立ち働く武家や人足の姿が小さく見えてきた。
その中に一つ。喜多蔵は見知った顔を認めた。
宜田亥四郎。やはり五年前、喜多蔵とともに護衛に駆り出された三十名のうちの一人だ。何やら図面を覗き込んでは、傍の者たちに指示を出している。どうやら彼が、この作事を差配しているようであった。
終わっていないのだ。頬を張られたような痛感を、喜多蔵は覚えた。五年前を、思い出していた。
ことが起きたのは、東の関が片付き、西側へ人足たちを移そうとしていた時だった。
小雪が降り続く中での作事で、掻いたばかりの地はすでにうっすらと銀灰が浮きはじめている。だが草鞋より上までには来ぬであろう、というのが作事頭の所見であった。
移動の際が最も危うい。衛士をいったん集めるべきだと言上したのが、確か亥四郎であった。
「それでは日暮れまでに間に合わぬ。四名で四方を守れば、それでよかろう」
作事頭はむべもなかった。後から思えば、本当に襲われるとことがあるとは、ついぞ考えていなかった節があった。当時より岡根派は武断で知られてはいたが、平穏な年月は長すぎた。
その言葉どおりに、前方に二名、後方に二名の守りをつけて、一団は移動をはじめる。後方の二名は、亥四郎と喜多蔵がつけられた。
「どう思う」
すぐに、亥四郎が問いかけてきた。同じ徒士組とはいえ、喜多蔵と亥四郎の交わりはこれまでにほとんどない。今回は方々からそれなりに腕の立つものが集められた、と聞いている。ならば亥四郎も相当に使うのであろう、と。それだけはわかっていた。
街道の北側を見上げた。銀鼠に色を変えた森の木々が長く奥に茂っている。組頭から、岡根が無頼の徒を雇い入れたらしい、という報を受けていた。伏せているなら、まず森の中であろう。
「この先の細道が最も危ういように思われる。あそこで前後から攻め寄せられては、逃げられぬ」
「それよな。作事頭殿はこれまで、普請やこういった造作ばかりを手掛けてこられたらしい。荒事には、あまり関心がないようだ」
「軍学の初歩であろうが」
「長く争いがないというのは、そういうことでもあろうよ。そして、そのような方ほど出世する」
喜多蔵は答えなかった。そういった論議をここでするつもりはない。雪を剥がれた道は歩くに快い。喜多蔵たちにとっては、久方ぶりの雪のない峠道だった。
だがやがて、まだ厚く降り積もった道に戻り、踏み出すたびに足もとがきし、きしりと音を立てる。
ほどなくして、危惧は危機に変わった。
鬨の声。刀や長刀、竹槍を握った者どもが、一団めがけて駆け寄せてくる。
すぐさま抜き払い、叫びをあげた。
前方へと駆け出す。人足を傷つけられてはならない。そういう思いがあった。
人足たちは知らぬが、喜多蔵たち士分のものたちは、この作事がどのような経緯で行われたか知っている。寄せ来る者たちは皆ぼろを着込み、わずかな防具しか身に着けてはいない。だがこれらがただの野盗や浪人者であるわけはなかった。
知らぬものを巻き込んではならぬ。その思いは、亥四郎も同様のようであった。
「棒を持ち、小さくまとまれ」
亥四郎の声を背に、喜多蔵は立ち塞がる。突出する前方の一人を、すれ違いざまに胴薙ぎにした。
喜多蔵の心中は煮えくり返っている。物事を決める者たちの中に一人。ただ一人、現状の解決より権力争いを優先するものがいるだけで。このような大事になり、多くの人と、多くの時が費やされることになる。上の者たちは、ただ命を下すだけだ。だが、現地に駆り出され、命を張ることになる喜多蔵たちにとっては、まったく笑い事ではない。
怒りに任せて、押し寄せる浪人どもを、次々と叩き斬った。
背に熱を感じた。気付けば、乱戦になっている。誰かから、背に斬りつけられたのだとわかった。
膝から力が抜け、しゃがみ込む。眼の先に、血を流して倒れ伏す人足が見えた。
喜多蔵の意識はそこで途切れている。どうして生き残ることができたのかはわからぬ。聞いた話では、あれからすぐ衛士が駆け付け、賊どもを追い散らしたのだということであった。
ともかくも、喜多蔵は命を取り留めた。七日七晩高熱を発し、だがそれでも命を長らえた。
そして怪我が癒えたのち、不調を理由に木包の家を弟へと譲り渡す手続きを済ませ、ただひとり、山へと姿を消したのであった。
その亥四郎が、今や作事を差配する地位に就いているのは、喜多蔵にとって驚きであった。かの一件は、お咎めこそなかったが護衛たちの不手際であったことは疑いなく、死なずに生き残った二十五名は皆、上役からそれなりの譴責をそれぞれに受けたはずである。少なくとも、出世につながるとは思えない。
ならば、亥四郎は別の件で手柄でも立てたのであろうか。
いや、と首を振る。喜多蔵が思い当たったのは、別のことである。
喜多蔵はひとつこころを決め、雪上に潜んだ。思い当たったからには、確かめてみねばならぬ。目の前をよぎったのは、倒れ伏す人足の姿だった。
山に溶け込む。それはこの四年で喜多蔵が身に着けた技である。未熟な技で、同じ山のものたち相手には用をなさぬ。だが、今はその技でも十分であろうと思われた。
亥四郎がひとりになるときを待った。
日が落ちかかる刻限が近づいていた。森に差す横日は上方にあるときより一層強いが、それは暖かさをもたらさない。ただ光があるのみである。
片付けがはじまったのか、かなり離れた場所から多くの声が漏れ聞こえる。亥四郎についていたものたちが、そちらへ向かってゆくのを認めた。
喜多蔵は素早く雪道を下ってゆく。亥四郎の斜め後ろ、三間ほどのところまで近づいた。亥四郎は気付かない。
「宜田亥四郎」
頭から蓑を跳ね除けながら、声をかけた。
驚いた様子で亥四郎が振り向く。右手が柄に掛かっているのはさすがであった。
その目がさらなる驚きで見開かれるのを、喜多蔵は認めた。
「まさか……お主、木包喜多蔵か」
「然り」
驚愕が引いた後の亥四郎の顔に浮かんだのは、喜びでも困惑でもない。喜多蔵が見取ったそれは、恐れだ。
「亥四郎。お主、岡根大介の犬であったな」
背中を斬られた。そのことは、傷とともに屈辱として喜多蔵の中に残っている。喜多蔵とて剣士である。己の腕に、自負を持っている。
だがあのとき、乱戦であったとはいえ、背中を斬りつけられた。それを成したのは誰であるか、と。病床で考え続けていたのだ。
ひとつの思案。だが、それを認めたくはなかった。
「あのとき某を斬ったのはお主か、亥四郎」
「おうよ」
亥四郎がゆっくりと刀を抜く。岡根派は武断の派閥。もっと早くに気付いてもよかった。
喜多蔵も蓑を外し、刀の鞘を払う。この日があるとわかっていたわけではない。だが蓑の下は、白一色の狩り装束だった。
「はじめからか」
「いや、どちらでもよかった。だが、あの作事頭では、差配を誤ると思った。泥舟に乗るつもりはない。だから、岡根様の舟に乗ったのだ」
その見返りとしての出世。そういうことなのだろう。喜多蔵にとってはどうでもよいことだ。
ただ、亥四郎を斬る。己のためだった。
一歩前へ出た。両脚を、雪深くに埋め、腰を落とす。
これ以上、汚させぬ。剣を構え、気合を叩きつけた。
雪を踏み分け、寄ってきた亥四郎と、腰と腕の動きだけで斬り結んだ。この四年が、喜多蔵に雪山での戦い方を教えてくれている。ならばここで亥四郎を斬るのは、喜多蔵の使命であろう。
亥四郎が距離を測る。無様に足を動かしている。
横日が山裾に隠れ、帳が下ろされつつある。辺りは一面の白である。この刻限、人の目にどのような変化が起こるか。喜多蔵は知っている。
亥四郎の目が泳ぐ。眼前にいるはずの喜多蔵を見失っている。
そうだ。お主は見失ったのだ、亥四郎。
深く、遠くへ一歩を踏み出した。届けとばかりに刀を振りぬく。
白の中に朱が混じった。
あが、と亥四郎が何かを言いかけたが、言葉にはならなかった。
ざくりと雪を散らして亥四郎が倒れる。喜多蔵は刀を納めると、あとも振り返らず雪山を登りはじめる。
遠くから声がする。おそらく徒士組であろうと思われる者たちが、雪を掻き分け寄ってくるのが見て取れた。
喜多蔵は蓑を被った。見える景色が、白く塗りつぶされてゆくのを感じた。
眼の端に、鮮やかな色が留まった。雪の間から、蕾が僅かに頭を出していた。
笑みが零れた。腰を下ろし、半ば雪に埋もれるようにして、身体を倒した。
雪解けは、もうすぐそばに迫っている。
(完)




