249:陰る月光
血の色に染まった月が、俺を見下ろしていた。
宮廷筆頭魔導師にして帝国侵攻軍最高司令官、平民から最高位にまで上り詰めたこのヘルベルト・カイエンホルト伯爵をだ。
「クソが」
ソルベシアなどという蛮族の巣窟に留まり続けるしかない己が不幸を呪う。
市井の虫ケラどもは俺を“魔王”などと称しているようだが、それは“魔族”と蔑まれたソルベシアの劣等民族に君臨する間抜けを嘲笑うようにしか思えん。
帝都の連中は、俺の功績を認めようともしない。何百何千何万もの蛮族を滅ぼし、街を焼き国を奪い続けても、所詮は高貴な血に連なることのない平民上がりだと侮っているのだ。
「……クソどもが」
宵も深まってきたというのに、眠りは微塵も訪れない。俺は酒杯をぶち撒けて、寝所に転がる。酒には飽いた。砂の国で手に入るものは、酸っぱくなった葡萄酒か出処も不明な酷い味の火酒だけ。酔いが回るより前に吐き気がするような代物だ。
おまけに、触れるものすべてにこの国特有の細かく薄茶色の砂が混じり合って軋み、神経を逆撫でする。酒杯にも食い物にも、寝所の床にも、女にもだ。
擦り寄ってくる女を押し退け、蹴り飛ばす。汗の匂いと湿った肌の滑りが不快だった。
「失せろ、雌豚めが」
剣を片手に怒鳴りつけると、婢女は悲鳴を上げて裸のまま寝所から転がり出て行った。
「クソッ、クソクソクソッ……どいつもこいつも……」
よろめき出た玉座の間は、不気味に静まり返っている。不寝番の兵は壁際で身動きひとつしないが、気配を消すほどの手練れではない。賊が侵入してきたときには俺の盾になるのがせいぜいの捨て駒だ。
「カイエンホルト卿」
玉座の間に立つ俺の元に、老魔導師が近付いてくる。
「た、大変でござりまする」
白髪で白髭、白い僧衣を纏っている。名前は忘れた。ケイパーだったか、エイファーだったか。どうでもいい。元はソルベシア王国の筆頭魔導師だったというが、帝国の占領を受けてすぐ寝返ったクズだ。恭順どころか城の機能掌握も宝物庫の魔導障壁解除も反帝国派の洗い出しも積極的に協力した最大の協力者。それは帝国にとっては功労者だが、王国にとっては最大の売国奴だ。こんなやつらが、寄ってたかって王国を腐らせたのだろう。興味もない俺は手を振って下がらせようとするが、厚顔無恥の老いぼれは取り縋るように平伏した。
「か、神の御子が、この地に降り立つとの啓示が現れておりまする!」
「……こんな夜更けに何の冗談だ」
この人格破綻の害虫めが、ついに頭もおかしくなったか。魔族と呼ばれた原住民の魔法を統べた輩が神の名を騙るとは馬鹿ばかしいにも程がある。
鼻で笑った俺を平伏したまま見上げて、憤りに満ちた表情を浮かべる。
憤り? 民を売り国を売り王族まで売り払って我が身を守った最悪の愚物が、何を憤るというのだ?
「笑いごとではござりませぬ。これは七人の巫女、三人の司祭が受けた明白な神示でござります故に」
「“魔王”と呼ばれ怖れられた俺が、この期に及んで神の祝福でも受けるというのか。笑わせるな」
「ソルベシアの滅びを知ったのも、この神示でござりまするぞ」
「それは単なる必然だろうが。まともな世継ぎもない愚王に、道理も説けぬ奸臣、痩せこけた愚民がわずかな枯れた土塊を耕すしかない国に、どんな結末があったというのだ?」
「……“恵みの通貨”をもってすれば」
「恵みの種も食い潰した無能がよくいう。それを成す王族にも、貴様らは逃げられたではないか」
ソルベシアにも忠臣はいたのだろう、王族を落ち延びさせるために戦士と魔導師が四十ほど帝国軍に向かってきた。半刻も経たずに皆殺しにされ、首は市中に晒されたが。
「帝国軍の指示で、海を越えて運ばれた奴隷のなかに王子がいたとの噂が出回っておりまするが」
「だったら行って取り戻してこい」
老いぼれは目を逸らし、なにやら言い訳じみた言葉を並べ始める。
王族は売り払った。帝国軍ではなく、俺がだ。玉座の間を制御できる魔導師がソルベシアの地に残っているなど、むざむざ叛乱の芽を見逃すようなものだ。
文句があるなら、勝手に捜しに行けばいいのだ。無駄足になることはわかっている。数日前、北方に渡った拘禁枷の魔導接続がすべて絶えたからだ。
最後の拘禁対象が死んだのだろう。これで売られたソルベシアの王族は全滅。一気に十三ともなれば、一緒に売られた者たちとともに、どこぞで贄にされたと思われる。
豊富な魔力量で知られるソルベシアの原住民を五百近く、王族までまとめて売り払ってやったのだ。上手く使えば大概の大魔法でも起動させられるというのに、接続遮断の乱れを見る限り別の場所と状況で、無駄に無益に死んだらしい。
まあ、いい。商人から対価は受け取っている。奴らが商品をどこにどう売ろうと、北方の蛮族が原住民をどうしようと、俺の知ったことではない。
「それで、いつだ」
「は、何の話でござりましょう」
「神の御子だとかいう世迷い言だ。それはいつ起きるのかと聞いている」
「は、夜明け前でござりますれば」
信じてくれたのか、といわんばかりに擦り寄ってくる老いぼれを、俺は渾身の力で叩きのめす。
「夜明けまでに何も起きなければ、お前の首を市中に晒す」
「なッ」
驚愕する魔導師の背後で、異変が起きた。
陽など差さぬはずの玉座の間に眩い光芒が差し込む。光は淡く揺らいで晴天の空のような涼しげな青に変わり、燃え立つ焔に似た朱の色が混じる。
「何事だ!」
固まった兵士たちの視線の先で、五人の人影が玉座の前に現れた。中央に立つのは小柄な男。おかしな白衣を纏った異形の者たちが、周囲に片膝立ちで首を垂れている。
「“奇跡”の顕現、たしかにお見受けいたした」
女の声。まだ若いが、妙な力を感じる。
「王家の聖嫡と友誼を結びし証として、我が魔の力を持って、いまこそ」
「「玉座の間を穢す蛮族どもに、掣肘を与えん」」
そして、立ち上がった異形の四人。奇妙な杖を抱え、顔には髑髏の紋を刻んだ面のようなものを着けている。中心にいる男には、見覚えがあった。こんなところにいるはずがない男だった。そいつには俺がこの手で枷を付け、売り払ったはずのだから。
「……お前、は」
静かな怒りを湛えた男の目が、魔力を帯びて紅く光る。
そうだ。無尽蔵の魔力を誇りながら気象操作の魔法しか使えない無能。王宮に守られていただけの、無力なガキ。死んだはずの、ソルベシア第四王子。
「……ハイダル、だと?」
「生きて、いたのでござりまするか!?」
「ああ、そうだ。死の淵から戻ってきた。やり残した罪を、拭うためにな。我が罪は、王国を食い荒らす害虫を、無辜の民の前に生きて残したことだ」
「貴様……!」
俺はようやく我に返り、固まったままの無能どもに怒鳴りつける。
「何をしている! 先王の血族を騙る賊だぞ、その罪、万死に値する! 殺せ!」
俺の怒声で初めて覚醒したかのように、兵たちが動き始める。手に手に剣や手槍を構え始めたところで、おかしな光と咆哮が弾けた。
「なッ……⁉︎」
バタバタと兵が倒れるのを見て、それが玉座の前に立つ闖入者たちが放った物だと気付く。
無数の輝きとともに、光の帯が飛び交う。剣や甲冑や壁で弾けて、その度に死が撒き散らされる。互いに一歩も動かぬまま、こちらの兵ばかりが一方的に蹂躙されて行く。
「……そんな、馬鹿な」
数瞬の間を置いて、静寂が戻ってきた。もはや動く者もおらず、立っているのは俺の身を守るよう厳命されていた盾持ちの重装歩兵が五名のみだ。
「……なん、だ、これは」
王子たち五名は、円陣を組み盾を構えた俺の護衛に向き合う。無力で無能だったはずの王子が、怖れも怯みも迷いもない、静かな目でこちらを見る。
「カイエンホルト」
王子は、おかしな杖をこちらに向ける。左右に控えた異形の者たちも、揃って同じような杖を向けていた。あれが、死の光を放つのだ。なにがしかの魔道具かとは思うが、そんなものは見たことも聞いたこともない。
「貴様に滅ぼされたソルベシア王家の名に於いて、誅伐を行う。これは正義ではない」
奴らの背後で手槍を手に起き上がった兵の一団が、踏み出す間もなく護衛の放った光に切り裂かれる。
「……私怨だ、偽魔王」
笑みを含んだ声を聞いて、肚の裡に憤怒が湧き上がる。あれほど嫌っていたはずの二つ名だというのに、死に損ないに穢されることが俺は許せないようだ。
「偽魔王、だと? 貴様、は何を……」
護衛のひとりが、一歩踏み出す。声からして女と思われる小柄なそいつは、隣に立った、もうひとりの護衛に手を向ける。
「数奇な縁により、王子に手を貸すことにはなったがの。こちらにおわすお方は、真の魔王、魔王のなかの魔王じゃ。人呼んで、“鏖殺の魔神”。北方魔王領ケースマイアンを統べる、ターキフ・ヨシュア魔王陛下じゃ」
被り物を剥いだ男は、素顔を俺に晒す。どこにでもいる、どうでもいい男だ。ろくな魔力も感じず、気迫も霊力もない。
「お初にお目に掛かる、名ばかりの魔王。……そして、ここでお別れだ」




