お嬢様の修学旅行 中等部 四日目 その2
あの騎士見習いが去って誰が戻ってくるのかと思ったら栗森志津香さんと待宵早苗さんの二人だった。
「桂華院さん。一人なんて珍しいわね。
ご一緒していいかしら?」
「どうぞどうぞ。
そっちこそ、クラスメイトほおっておいていいの?」
「そこはまぁ、いろいろあってね」
早苗さんに返事をして椅子を指さすと二人は座り、苦笑する志津香さんに護衛陣の苦労を察する私。
多分あの騎士見習いと話をする為に離したはいいが、その時間で観光でもと離れて戻れなくなったあたりか。
ラテン系はこのあたり時間にルーズというか、人生をのんびり生きているというか、旅行のトラブルあるあるである。
「まぁ、みんなが戻るまで付き合って頂戴な。
それにしても素敵よね。ここ」
のんびりとサンマルコ広場を眺める。
あまりに有名なこの広場を警備の為に独占なんてできる訳もなく、それとなく配置はしているのだろうが、それ以上に大量の観光客がこの広場でヴェネツィアの歴史を感じ取っていた。
「『世界で一番美しい広場』。
かの有名なナポレオンがこの広場に贈った言葉だそうよ」
そのナポレオンは覇業の第一歩であるイタリア遠征によってヴェネツィア共和国を滅ぼす事になる。
この美しき広場を称えた彼の言葉はヴェネツィア共和国への手向けでもあったのだ。
歴史を知るとそんな言葉の重みと深さを味わうのだが、私はふと読んだマンガの一コマを思い出す。
「で、そんな言葉を受けた一人の女の子がそれについてこんな事を言ったそうよ」
志津香さんと早苗さんも黙って聞いている。
私はこの言葉を現地で言う事で本当にその意味を噛みしめる。
「『じゃあ、こうして今、この広場にいられる私たちは……世界で一番幸せ者ですね』って」
まるでマンガと同じように鐘の音が鳴る。
その音色と景色に何かがあふれてくる。
ああ。こんなにも世界は幸せであふれていたのか。
それに私はどうして気づかなかったのだろう?
「どうなさいました?桂華院さん」
「うん。なんでもないんだけど……凄く、この一瞬が美しくて、感動しているのにそれを言い表せなくて……」
「そんなことでしたら、簡単な方法がありますわよ」
感動する私に志津香さんが私の手を握るが、私の返事を聞いた早苗さんがとてもあっさりとその言葉を口にした。
「歌えばいいじゃないですか」
と。ああ。ここが多分私のオペラ歌手への分岐点なのだろう。
人の迷惑とか後々大事になったりとか頭の中をよぎったが、それ以上にこの感動を伝えたいと思ってしまったのだ。
自然と何を歌うのか決まった。
「~♪」
いつの間にか私の持ち歌になってしまった『ミカエラのアリア』。
最初の声で周囲の人が、いつの間にかサン・マルコ広場全員が私たちを見ていた。
この美しき広場に敬意を。
この美しき物語に敬意を。
この素晴らしき瞬間に感謝を。
たった七分ちょっとのアカペラコンサートは終わると割れんばかりの大歓声に包まれた。
幻視する。オペラ歌手の私が、私に手を叩いて賞賛してくれた。
私はこんな事を忘れようとしていたのか。
「志津香さん。早苗さん。ありがとう。
私、歌うのが好きだったのよ」
そんな私の感謝に、早苗さんは拍手をしながら笑顔でこう言ってのけたのである。
「知ってましたよ。
だって私は、桂華院さんの歌のファンなんですから」
「桂華院さん。みんなまだ見ているみたいよ」
志津香さんにせかされて、私は優雅に一礼してみせる。
こうやって歌うのも悪くないなと思ったら、橘由香が駆けてきた。
やっぱり大事になったらしい。見るとテレビカメラの姿もあった。
「お、お嬢様!そのような事は……」
「ごめんなさい。でも歌いたくなったのよ♪」
寄ってくる観光客を護衛が必死に押しとどめようとしているあたり迷惑をかけたなーとはっきりわかるのだが、それでもこの気持ちを、感情を押し殺すことはできなかったのだ。
ここに来てから剣士の道はあきらめた。
公爵令嬢の道は選ばされたが、このオペラ歌手の、歌う事はあきらめたくなかったのである。
たとえ、多くの人に迷惑をかけたとしても、この道だけは。
だからこそ、覚悟を口にする。
「腹はくくったわ。
ここで何かあっても私はそれを受け止め……きゃんっ!!」
私の声を途切れさせたのは栄一くんだった。
かなり本気のげんこつを食らわしてくれた彼の顔は怒るより心配の方が大きい。
「そういう事は言うんじゃない。
逃げるぞ」
手を掴まれて私たちは用意された水上バスへ。
「けど、お前の歌、すごく綺麗だった」
そんな声をぼそっと言う栄一くんに心臓が少し違う動きをした。
きっと、この時の私は世界で一番幸せ者になったのだろう。
『ARIA』(天野こずえ マックガーデン)五巻 影追いより
本当にこの話が好きでね……これを書きたくてこの地に来させたのである。




