大西洋上のタンカーにて
太平洋上を航行するスーパータンカー。『The Moon Is a Harsh Mistress』号。
甲板上に作られたヘリポートに星のついたヘリが降り、そこから一人の女性が兵士の出迎えつきで降りてくる。
持ち主は共産中国の月光投資公司という会社のはずなのだが、外交的なあれこれの果てにこの船には星条旗がはためいていた。
「で、抵抗はあったの?」
「ええ。銃撃戦が発生して、相手側三人死亡。七人負傷。こちらの被害は負傷が二人です」
「よかったわ」
こちら側に死者が出なかった事なのか、この船が比較的無事に制圧できた事が良かったのか。だんだん表の名前である桂華金融ホールディングス次期CEOの名前が大きくなって、裏の名前であるCIAのエージェントとして動くことが少なくなりつつあるアンジェラ・サリバンは、多分これがCIA最後の現場であると自覚していた。
「こちらです」
本来は原油が入っているはずのタンクの区画一つを丸々使った空間に鎮座するのは最新鋭のスパコンで、CIAがひそかに追い求めていたものである。
管理していた兵士がアンジェラを見つけて敬礼する。
「これね?コンピューターお嬢様は」
「貴方にとってはその呼び方でいいのでしょうが、我々は彼女を『月の女帝』と呼んでいます」
「『月は無慈悲な夜の女王』。ロバート・A・ハインラインの小説ね。
元の持ち主は彼女の事を何て呼んでいたの?」
「『エカチェリーナ』と」
「……なるほど。間違える訳ね」
これを運用していた連中は、お嬢様こと桂華院瑠奈がロシア皇帝に就く事を想定していたという訳だ。アンジェラの知る彼女はまったくそんな事を考えなかったというのに。
「で、これを運用していた連中は?」
「回線で追える所は追ってますが、間違いなく欧州です。
ついでに言うと、その欧州のお友達は我々とも仲良しという訳で。
この区画以外は貯蔵タンクとして使えるので、偽装も込みでこいつは元のスーパータンカーとして運用する事になるでしょうね。我々の手で」
想定していた返事にアンジェラは眉間に皺を寄せてうめく。
予想通りの政治的圧力は欧州からだけでなく、ワシントン内部からも起こっていたのである。
大統領選挙真っただ中の現在、日本側が穏便にという形で恩を売った結果、この事件は闇に葬られる事になっている。
もちろん、この船とこのスパコンはそのままCIAの物として管理運営されるのだが、誰もが忘れ去るまで大西洋を彷徨い続ける事になるのだろう。
「ここだけの話、欧州の連中何処まで潰せる?」
「厳しいですね。EUの拡大と独自路線とロシアの取り込みの駒として貴方のお嬢様はあまりに便利すぎる。
この騒動の元々のきっかけである南イラク首長国にお嬢様を嫁がせる仕掛け、あれ国務省から漏れましたけど、出所は多分英国ですよ」
「あの三枚舌は……」
一応上級エージェントであり、表ではガラスの壁を破ったエグゼクティブの一人である彼女はここで罵倒を口にすることなく頭の中に留めた。
すでにワシントンでは大統領選挙後に彼女をワシントンにリクルートする動きがあり、財務次官補のオファーが出ていたりする。この事件が闇に葬られる事に対する取引なのだろう。
財務次官補を勤め上げたらウォール街の金融機関のCEO職が手に届くし、そのままワシントンに残るのならば金融畑の要人として使われ、東海岸の地元から下院議員選挙当選ぐらいまで見えるオファーである。当人は丁重にお断りしたが。
「要するに、ロンドンとフランクフルトの争い?」
「ええ。あなたのお嬢様が持っているロマノフの財宝の管理権を巡る」
お嬢様の手にロマノフの財宝がない事はその管理者の一人であるアンジェラは分かっていたが、超大国というものは白を黒と言い張れる強引さと図々しさがある。
国に属していない国が興せる大金なんてものは、それぞ色々な利用価値があるのである。上は野心ある連中から下はマネーロンダリングまで。
彼女が成年に近づけは近づくほど、その動きは生々しく闇から水面下にそのどす黒さをシミみたいに広げてゆく事になる。
「で、そんな陰謀の一つを私は潰したと。結局どうなるのかしら?」
「それこそ、この女帝様に聞いてみればいいんじゃないですか?
こいつを使ってブックメーカーに賭けたりしてますが、リターンは悪くないですよ」
「まっとうな使い方を用意するからやめなさい。それ」
悪い事をしていると映画でも言われるCIAとて予算というものがある。
こういうもので稼げるならば、それぞ裏金の打ち出の小づちとなる訳で、カンパニー内部だけでも醜い奪い合いが発生することが目に見えていたからである。
なお、アンジェラが用意したまっとうな使い方は、バミューダのペーパーカンパニーを利用したデイトレードで大手金融機関に貸し出すというもので、その貸出先が桂華金融ホールディングスニューヨーク支店になっていたのを管理職員は見ない事にした。




