ファム・ファタール
良家の子女ともなると、そこそこ芸術のスキルについては詳しくならざるを得ない。
そこは放置気味の桂華院家と言えども手は抜かず、転生先の悪役令嬢がハイスペックだった事もあって今の所はぼろが出ないようにしている。
そんな訳で、私が気に入ったのはクラシックだった。
「何だ。
瑠奈も来ていたのか?」
「栄一くんも来ていたの?
あー。納得」
チケットを確認すると、帝亜シンフォニーホールで帝亜国際フィルハーモニー管弦楽団の特別演奏会。
帝亜グループのメセナ事業なのだ。これは。
で、当然御曹司のご出馬と相成ったと。
「ん?
招待席じゃないのか?」
私のチケットを見た栄一くんが席番に気づく。
そりゃそうだ。
貴賓席とか招待席で挨拶を受けながらなんて聞くのは堅苦しいからだ。
橘に頼んで上流階級の予約席だが、できるだけ端を取ったのはそんな心遣いだったりする。
ドレスコードはクリアする程度の衣装なのも同じ理由だ。
「そうよ。
趣味だからそっと静かに聞くのが、クラシックの嗜みってものよ」
「ふーん。そうか」
明らかに分かっていない顔で栄一くんは付き人を呼び寄せる。
あ。
これは厄介ごとの予感がする。
「こいつの席を俺の隣にしてくれ。
桂華院家の桂華院瑠奈だ」
向こうの付き人も私の事を知っていたらしい。
何も言わずに一礼して去ってゆく。
「ちょっと。
そっと静かにと言った私の言葉聞こえなかった?」
私の抗議に栄一くんは手を合わせるという珍しい事をしてみせた。
そして、実に嫌々ながらも彼は私に助けを求めたのである。
「頼む。瑠奈。
俺、クラシックが実は退屈で苦手なんだ」
俺様キャラの栄一くんの珍しい弱音にため息を一つ。
「貸し一つだからね。
あと、貴賓室に入れるドレスを用意して」
「お嬢様。
実は既に用意しておりますので、お着替えを」
橘。
あんた、こうなる事を察していたな?
栄一くんの為に用意された貴賓席はホール中央のボックス席だった。
今日の公演はビゼーの『カルメン』『アルルの女』組曲である。
公演時間も一時間程度で、オペラが元になった事もあって派手なのから静かなのまで飽きさせない。
ただ聞くだけではつまらない栄一くんに曲の間に少しずつ解説を入れてゆく。
「オペラなんだ。これ?」
「ええ。正確には、『カルメン』と『アルルの女』という二つのオペラね。
それを組曲としてまとめ直したのよ」
なお、オペラとしては両方とも救いのない物語だったりする。
『カルメン』は、カルメンに惚れたドン・ホセの転落の物語で、最後はドン・ホセがカルメンを刺し殺すというやりきれなさ。
『アルルの女』は、アルルの女に惚れたフレデリの狂気と破滅の物語である。
何が救いがないかと言うと、そんな破滅系物語なのに、南欧風の明るさと爽やかさが全体を覆っているのだ。
だから、最初音楽にハマってオペラを見てドン引きしたことが。
「ファム・ファタールか」
「……そうね。
そのとおりよ」
何という皮肉だ。
気付いてしまった。
この生が乙女ゲームの設定の生ならば、私はファム・ファタールという主人公によって破滅させられるのだから。
どうりでこの曲が気に入ったわけだ。
「これは聞いたことあるな」
「『闘牛士』でしょ?
よく流れているわね」
「たしかに聞いてて飽きないな」
「時代背景を知るともっと楽しくなるわよ。
闘牛士ってのはこの時期の花形スターで……」
「何でドン・ホセはカルメンに惚れたんだ?」
「オペラだと改変されているけど、バスクの民族問題が絡んでいるのよね。
女性の社会進出やジプシー達も含めて今の欧州でも解決していない闇……」
音楽はただ聞くだけでも楽しいが、その背景を知ると更に楽しくなる。
気付いてみたら、栄一くんも自然と体がリズムを取っていた。
「これも聞いたことあるな」
「『メヌエット』でしょう?
朝に流している所とかあるわね」
曲が終わり、拍手がホールに轟く。
そこから観客も帰るのだが、今出ると確実に巻き込まれるから、時間の有る上流階級は遅れて出てゆく。
「悪くないな」
「でしょう♪」
栄一くんはどうやら満足してくれたらしい。
なお、こいつ高校時代の趣味にちゃんとクラシックが入っていたりする。
「何かお気に入りの曲はあった?」
「やっぱり『闘牛士』かな。
あと最後の曲は派手で好きだった」
「『アルルの女』第2組曲の『ファランドール』ね。
始めと終わりが派手だから好きなのよ。この曲は」
「瑠奈は何か気に入った曲はあったのか?」
栄一くんの質問に少し首をかしげて答える。
本当にどれも好きだから、選ぶとしたらこれかなと思った。
「『カルメン』第2組曲の夜想曲かな。
これは歌詞を覚えるぐらい好きなのよ」
「あれ歌が付いているのか?」
「ええ。
こんな感じの歌よ」
ありがとう悪役令嬢のチートボディ。
ありがとう悪役令嬢のチートスペック。
そこから出た歌はコンサートホールという事を忘れて、かなり高らかに響いた。
「~♪」
失敗だったのは、己の声がかなり響いた事と、私が何を歌っているか察した連中が居た事。
伴奏が付いた事で後に引けなくなる。
そりゃそうだ。
今演奏していた曲なのだから。
そして、観客もまだ帰りきっていなかったことから、サプライズアンコールと捉えられてしまっていた。
こうなるともう引けない。
全身全霊全力で歌いきる。
夜想曲を。いや、ミカエラのアリアを。
およそ七分ほどの長い長い時間が終わった。
割れんばかりの拍手が歌い終わった後に轟いたが、私はその余韻に浸る余裕はなかった。
汗びっしょり。
吐く息も荒くなったが、栄一くんは万雷の拍手ではなくただ目を輝かせて私のために手を叩いてくれた。
少しだけ鼓動が早くなったのは、歌いきったせいだろうと私はごまかした。
この展開、実はF.S.S.10巻のオマージュ。
『カルメン』『アルルの女』
私が最初に聞いたクラシックで、バーンスタインのカルメンもカラヤンのカルメンもどちらも好き。
参考にさせてもらったリンクはこちら。
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200608190165.html
えー……(ドン引き)
バスク
スペインとフランスの間にある地域で今でも独立問題が燻っている。
と思ったらカタルーニャが……
ジプシー
外名で現在ではロマと呼ばれる移動型民族。
その迫害の歴史は欧州の闇の一端でもある。
ミカエラのアリア
ドン・ホセの婚約者で、カルメンからホセを取り戻すために決意を歌う。
考えてみれば、私のビッチ好きはカルメンから影響を受けたのかも知れない。




