三巻特典SS 光也くんコミュ 高尾山登山準備 2025/11/02 投稿
高尾山登山が決まった時に後藤光也が思った事は『体力をつけないと』だった。
運動は一通りできるが、高尾山登山において無様を晒したくはない。
ましてや、その登山を楽しみにしており、一緒に登る桂華院瑠奈の前では絶対に。
かくして、後藤光也の密かなる練習が始まった。
「すいません。この本とこの本。あとこの地図をください」
彼はまずは自分から調べて知識を吸収する。
官僚、それもその最高位である事務次官を目標にしている彼にとって人生は、最短ルートで逆算して行動を決めるようなものだ。
そのイベントが必要なのか?必要ならばどれほどの準備と時間をかけなければならないか?
一番大事なのは、そのイベントに時間を消費する事で、人生の最終目標である事務次官に影響が出ないかどうか?
そういう判断を知識を元に下してゆく。
「光也。体力はあって損はないぞ」
彼の父親はそう言って、運動を勧める。
軽めのジョギングから始めたが、父親も一緒に走り出したのは体調がらみで母親に何か言われたからだろう。
最初は2キロぐらいから始めて、体を慣らしてから徐々に距離を伸ばしてゆく。
「東京って街は、電車をはじめとした公共交通機関が整備されているからな。
結構歩くんだよ」
そんな事を言う父親は地下鉄通勤でエスカレーターを使わずに階段を利用しているらしい。
地下から仕事場である財務省ビルまで歩いている為か、父親の足は思ったよりしっかりしていた。
「で、お前が珍しくこういう事をしているのは何の為なのかな?」
「登山でリタイヤしたくない。それだけだよ。父さん」
意地の悪い父親の質問に、後藤光也は息を乱さずにぶっきらぼうに返す。
父親はそれ以上問いかけてはこなかった。
「必要なのは、これと、これと、これ……」
登山に必要な道具を確認してリュックサックに背負い、ジョギングの際に背負って重さを確認する。
タオルに着替え、雨の際に着るレインコートに休憩時に座るシート。
思ったより重たかったのが水筒だった。
1リットルの水は1キロな訳で、色々詰めるとリュックサックの中はあっという間に一杯になる。
「光也。今いいか?」
「いいけど、何?父さん?」
仕事で忙しくて午前帰りも多いのに父はジョギングを始めてから、結構絡んでくる。
後藤光也としては、嬉しいと同時にめんどくさいという感情がうかぶが、考えてみれば父とこうして話す事はなかったなと思いなおす。
「大学の後輩に山岳部にいた奴がいてな。
必要なものを教えてくれた。
よかったら使ってくれ」
そう言って、父はいくつかのグッズを後藤光也の前に置く。
救急キット、登山帽、軍手、懐中電灯に、救助笛に日焼け止め。
「ありがとう。父さん。
この笛って何に使うの?」
手に取った笛を持って首をかしげる後藤光也に父も後輩から教えてもらった知識を披露する。
なお、息子の前で偉ぶる代償は、酒の奢りというのを息子は知る訳もなく。
「遭難した時に声を出すより効率的に音が出せるそうだ。
遭難なんてしないなんて顔しているが、万一に備えるのが山ってものなんだぞ」
酒の奢りの場にて父親が息子と同じ顔をした事をもちろん息子は知らない。
そのまま日焼け止めを持って父親は説明を続ける。
「山ってのは思ったより紫外線がつよい。
焼けないように日焼け止めを持ってゆくと女の子に喜ばれるぞ」
相手が桂華院瑠奈だから、間違いなくそのあたりは準備するだろうが、万一という事もある。
そして、山というのはその万一に備えて重たい荷物を持ってゆくものだとは、ただ酒を美味しく頂いた山で日焼けした後輩の言葉である。
「で、こいつは少し早いがプレゼントだ。
使うか使わないかはお前が決めなさい」
そう言って父親は後藤光也前に小箱を置く。
開けると中に入っていたのは腕時計だった。
「登山用の時計で、防水機能つきで方位や高度が分かるようになっている」
「ありがとう。
けど、父さん。少し早いってどういう意味?」
後藤光也の質問に父親は腕から愛用の時計を外して置く。
国産の高級品だった。
「『男の価値は時計を見れば分かる』。少し昔によく言われていた事だ。
つける時計にふさわしい男になれ。
お前が自分の金で自分にふさわしい時計を買って身につける日を楽しみにしているよ」
子供と言うのはいずれ反抗期を経て親離れするものである。
きっと、父親はその前に少しでも何かを教えたかったのだろうと、光也はこの日理解したのだった。
登山当日。
早朝始発に間に合うように準備を整えた後藤光也は家を出る前に母親に呼ばれる。
「おにぎりを作っておいたわ」
リュックサックの中には余裕があるが荷物の重さを計算して訓練したので、おにぎりの分の重さは大した事ないはずなのに後藤光也の頭に余分な重さという考えが浮かんでそれを打ち消す。
そのおにぎりが入ったお弁当箱を手に持って彼は微笑んだ。
「ありがとう。母さん」
そのおにぎりに桂華院瑠奈や帝亜栄一や泉川裕次郎が羨望のまなざしを向ける数時間前の話である。
なお、父と息子はその後も朝のジョギングを時々するようになったという。




