雨の体温
パラパラと雨が降り出した商店街を、俺たちは速足で歩いた。
「足、大丈夫ですか?」
美桜ちゃんが俺の裸足を見て心配そうに言う。
「商店街歴長いけど、裸足で走り回ったのは初めてかも」
俺はスカートの裾を持っておどけた。足の裏を確認したけど、ガラスのようなものは踏んでいないようだ。
美桜ちゃんはファ……と白い息を吐いて俺の方を見て
「助かりました、本当に」
と目を細めてゆっくりとまばたきした。長いまつ毛が雨で少し濡れている。
美桜ちゃんは可愛い、可愛いんだけど……俺の心の奥にはさっき美桜ちゃんが言った言葉が刺さったままだった。
「……転校するんだね」
俺はうつ向いて言った。美桜ちゃんは、あ、そうなんです……と歩く速度を速めて俺の横に来た。
「今は実は男子校に通ってて。あ! 全然大丈夫なんですよ、もう転校しますから」
もう転校しますから。
普通に吐き出された言葉が心臓をえぐる。
分かってたけど、実際に聞くと痛い。春からつばさが学校に居ないことは確定なんだ。
淋しくなる、本当に、どうしようもなく。
美桜ちゃんはヒョイと水たまりを避けてジャンプして
「性転換病になる前……男だった時は、やりたい事なんて全然なくて。家から通える良さげな学校を選んだだけなんです。でも夢も出来たし、ちゃんとしたほうが良いかなーって」
美桜ちゃんは、こっちのほうが濡れてませんよ、と俺をナビしながら歩いていたが、ふと立ち止まって見上げた。
そこはつばさと俺と江崎で、文化祭用の布を買いに来た店付近だった。
お正月でまだ店は開いていないしシャッターが下りているが、店奥の細い路地から着物を着た人たちが出てくる。
布屋の奥に着付けをする小さな店があるのだ。
文化祭、楽しかったな。つばさは布屋に来たのは初めてだったようで、色んな布をこっそり触っていた。
舞台用のアイテムも多くて、キラキラしたリボンを珍しそうに見ていたのを今も覚えている。
俺も美桜ちゃんも、布屋を見て黙り込む。
「……いつまでも、同じ場所には、居られないんです」
美桜ちゃんは自分を納得させるように、ちいさく呟いた。
長いまつ毛に雨が落ちて、美桜ちゃんは唇を噛んだ。
その通りだ。
ちゃんと普通の高校に行くのが正しい。
ざああ……と雨音が俺たちを包む。
古いアーケードの隙間から、ポチャン……ポチャン……と定期的に雨だれの音が響く。
ふらりと重心を失うように、美桜ちゃんは歩き出した。
やがて真っ白な煙と、香ばしい匂いがしてきた。
その先にあるのは凛ねえと亜稀ちゃん小清水先生と会ったラーメン屋だ。
この店は正月も通しで営業をしているので、俺は外から小さく手を振った。
「お、ういーす」
ねじり鉢巻きをしたお店の人も俺たちに手を振ってくれた。
中にいるお客さんも顔見知りだった。ビールジョッキ片手に「おつかれ~」と声をかけてくれる。
裸足にメイド服状態で入る勇気はないけど、今一番食べたいのはラーメンかもしれない。
雨に濡れてめっちゃ寒い。何も言わずに前を歩く美桜ちゃんの後ろを付いて行きながら考える。
そういえば、つばさとこのラーメン屋に入れてないなあ。4月までまだ時間があるから、一緒に来たい。
このラーメン屋は美味しいけどニンニクが凄いから、デートで来るのはちょっと違う。つばさと二人で制服でガーッと食べたいなあ。
なるべくアーケードを選んで、ランスへ向かうが……
「あ、ちょっと待って」
俺は美桜ちゃんに声をかけて、コロッケ屋の裏に走った。
この辺りにヒールを投げ捨てたんだ。ヒールは俺とつばさがよく話しているベンチの下に転がっていた。
俺はベンチの下を覗き込んでヒールを拾った。
傷は……ない。良かった。傷つけたら凛ねえに激怒されそうだ。
俺のヒールは28cmで某ショップに特注したもので、高いらしいから。
「走る時に手に持ってるのが変で、ここに投げ込んだんだ」
手に持って顔を上げると、目の前にマスカラをドロドロに溶かして泣いている美桜ちゃんが居た。
「ええええ?!」
俺は思わず叫んでしまった。正直パンダを超えて、某ロックバンドの人みたいになってる。
ポケットを探ったが、ハンカチなんて気が利いたものは持ってない。俺は袖の黒い部分を持ち上げて、美桜ちゃんの顔を拭いた。
拭いても拭いても美桜ちゃんの目から涙こぼれてくる。
「どうしたの? どこか痛い?」
もしくは親父さんのことがやっぱりショックなんだろうか。俺はいつも座っているベンチに美桜ちゃんを座らせた。
ぎりぎり雨は凌げるが、わりと降りこんでくる。俺はなんとなく背中を傘にするように美桜ちゃんを守った。
美桜ちゃんは真っすぐ前をみたまま、涙を流していたが、ついにマスカラも全部とれたのか、顔がキレイになってきた。
泣きすぎ効果……? そしてハア……と白い息を吐き出して
「私、男なんて、つばさで居ることに、もう未練がないと思ってたんです」
とぼんやり前を見たまま、つぶやくように言った。そして続ける。
「スッキリ消えるつもりだったのに、この町は、思い出が多すぎる」
そう言って目から大粒の涙をぼろぼろと決壊させるように流した。
「私、お父さんに嘘ついた。安心してほしくて嘘ついた。つばさに未練がないなんて嘘。つばさで居たい、このままでいたい、私は美桜でつばさで、どっちも私……でも誰の責任でもないの……」
うっ……と小さく声を吐き出して、子供のように声をあげて泣き始めた。
このままで居たい。でももう無理なんだ。
そんなの……俺もずっと同じ気持ちだったよ。
俺は美桜ちゃんの頬に向かって指を伸ばした。
触れても触れても零れ落ちてくる涙を、指ですくう。
美桜ちゃんが俺の指を握る。いつも以上に冷たくて、細くて、つばさで美桜ちゃんの指が俺の太い指に絡みつく。
俺はベンチに座っている美桜ちゃんに上から被さるように抱き着いた。
俺の胸元で美桜ちゃんは一瞬戸惑ったようだけど、俺の背中にゆっくりと手を回してきた。
細い指先が俺の背中を撫でるように、上から下へ、何度も往復してそのままきつく服を握る。
まだ泣いているのか気になって顔を覗き込むと、目を細めて目じりをさげてほほ笑んだ。
それは美桜ちゃんというより、つばさそのもので。
俺はその小さな頭を強く抱きしめた。
小さくて、でも温かくて、ここにあり続けるもの。
「つばさは、消えない。ここにいる、俺の胸元にいるのは、つばさだ。ちゃんと全部俺が覚えてる」
胸元でモゾリと美桜ちゃんが動いた。そして「?」という顔をした。
俺は気が付いたんだ。
つばさが自らの意志で消えるなら、もう残されるのは『俺の中にいるつばさ』だけなんだ。
俺は美桜ちゃんから離れて、頭に乗せていた玲子のウイッグに触れた。そしてそれを引っ張る。
「?!」
美桜ちゃんがぴくんと跳ねるように顔を上げた。
ウイッグは取れないように、大量のピンでとめてあるので無理矢理取ると髪の毛が引っ張られて痛いしブチブチと髪の毛が千切れる。
でも気にしない。
ベンチに座っている美桜ちゃんの表情がみるみる青ざめていく。
ぐっ……ぐっ……と力を入れて、ウィッグを完全に取ってベンチに投げた。
ベチョンと髪の毛の塊が生き物のように転がった。
「?!」
美桜ちゃんはその音にビクリと身体を動かした。
地毛を抑え込んでいる網のような物も取って、ピンも全部取った。
そして軽くなった頭を振ったら、地肌に直接雨が触れて、頬を伝って降りてくる。
美桜ちゃんは茫然と俺の顔を見ている。
「え……嘘でしょ……春馬?……え……いつ入れ替わったの……?」
ぽかんと口だけ動かして言った。入れ替わった……なるほど。どこかのタイミングで俺が玲子になった的な?
俺は静かに首を振った。
「俺は最初から玲子だったんだ、つばさが一番最初に見たのは、女装した俺」
「うそ……そんな……え……でも……」
美桜ちゃんはペンチから腰を浮かして後ずさりして、そのまま逃げようとする。
雨が完全に土砂降りになってきて、俺たちを濡らし始めたが、構わず続ける。
「つばさ、転校する前にラーメン屋行こう」
俺はさっき思ってたことを言った。その言葉を聞いた瞬間、美桜ちゃんの表情がクシャリと崩れて、いっきにつばさの顔になった。
「あの店ニンニクきついんだ。女同士で行く店じゃない。転校する前に、制服で行こうぜ。江崎も誘って」
「くっ……う……」
つばさの目から、また涙が零れ落ちてくる。俺は続ける。
「実はリボンのパティシエさん、うちの店のコロッケ好きなんだ。今度持って行くよ。つばさはメンチコロッケだろ。パティシエさんは普通のコロッケ、莉々ちゃんの野乃ちゃんはクリームコロッケが好きなんだ」
もうつばさはただ俺のほうを見て泣いているだけだ。
「瀬戸も春の大会に間に合うことになったんだ。みんなで応援に行こう。クソ暑いから日傘あったほうがいい。つばさは色が白いから一日で焼けちまう」
つばさは大きくコクンと頷いた。
俺は一歩前に出て、つばさの手を握る。
つばさも俺の手を握った。
「3月末からランスは商店街のお祭りに出るんだ。そこで俺に会ったんだろ? ごめん、俺は覚えてないんだけど……今年は一緒に屋台やろう、つばさは何したい? ケーキ出しても良いしドーナツとか手軽に食べられるものが……」
そこまで言った瞬間に、下からクン……とつばさが背伸びをして、俺の袖をにぎった。
近い……と思った時には、つばさの冷たい唇が、俺の唇に触れていた。
「?!?!」
俺は驚いて身体を引いた。その瞬間、ふらついて背中を後ろの壁に打ち付けた。
のけぞった所につばさが追ってきて、両手を壁に押し付けて、そのままずるずると地面に座らされた。
雨が降り注ぐ路地裏に俺たちは座り込む。
俺の目の前……10センチくらいの場所につばさの顔がある。濡れたまつ毛、薄い唇。
雨が一滴俺たちの間に落ちた。それを舐めるように、押しつぶすように、つばさはもう一度俺の唇にキスをした。触れるように、確かめるように、薄い唇で舐めるように、キスをした。
体が冷えているのか、もともとつばさは手のように唇も冷たいのか、冷たい唇が俺に何度も触れる。
冷たいのに柔らかくて薄い。
そして体重と共に、つばさの柔らかい身体が俺に圧し掛かってくる。
俺はつばさを支えるように腰に手を回した。
するとつばさは両手で俺の頬を柔らかく包んで、おでこをコツンとぶつけてきた。
はあ……と息を吐いて、顔を上げる。
目は涙でぐちゃぐちゃに濡れていて、まばたきした瞬間にボロリと涙が頬を伝う。
「……春馬、ずっと、俺の近くに居たんだね」
どんどん涙が溢れている。ずっと、ずっと一緒だったの……?
何度も言いながら、涙が次から次に流れ落ちてくる。
俺は目元に触れた。恐ろしく冷たい肌。なじませるように頬を何度も撫でる。雨がペチョンと俺の指を伝う。
吸い寄せられるように頬にキスをして
「これからもいるから」
と言った。
つばさは、俺の胸元に思いっきりしがみついてきた。
俺もそれを強く抱き返す。
雨脚が強まり、完全に土砂降りの中、俺たちはきつく抱き合ったまま立ち上がることが出来ない。
そしてつばさが俺の頬を包んで、キスをする。
俺もつばさの頭を撫でて、キスを返した。
身体が氷のように冷たくなるけど、顔だけは、唇だけは、燃えるように熱くて、気持ちが良かった。




