小野田真介の悪戯
山口多聞さん主催の架空戦記創作大会、お題1の「架空の模型」参加作品です。
映画を見た後、模型コーナへと足を運んだ。
模型や解説をつぶさに見ていると人が近づいてきた。この資料館の学芸員らしい。
「どうかされましたか?」
俺が同じ模型と解説の前でしきしり首をかしげているのが目に留まったらしい。
「いえ、どうしたって訳ではないんですが、これ、小野田く・・真介氏の設計ですか?」
俺は目の前にある軽巡の模型と解説に違和感を覚えていたのだ。
「いえ、実はここに展示されている艦艇は殆ど藤本喜久雄氏の設計です。この巡洋艦もそのひとつで、小野田真介氏曰『藤本の遺産』だそうです」
と、まあ、解説にある説明を繰り返すのだが、問題はそこではない。なんせ、俺はこの軽巡の設計者だから分かるが、小野田君がこんな変更をするわけないんだ。
俺の設計は当時としては奇抜だった。対水上戦が優先された時代に対空戦を意識しすぎなほどに意識していた。ここにある軽巡は阿賀野型の一計画案であり、強引に建造計画にねじ込んだガスタービン軽巡のそれなんだ。同じものはゲームの課金艦として売られており、当然買った。そして、こいつ用の機関が青葉に載ってる事までは解説の通り。だが、俺はこんな武装にはしていない。小野田君もこんなことしないのは駿河型戦艦を見ればわかる事だ。
「この模型の資料は小野田真介氏のもので間違いないんですか?」
俺は重ねて聞いた。いや、問い質したって方が良いか。
「はい」
納得できない。武装重量の観点から、長12センチなんか積むわけない。
納得できない俺の事を察したのだろう。
「何か納得行かない点がおありのようですが・・・」
学芸員は困ったように聞いてくる。
俺は当然とばかりに説明した。武装重量の観点、弾幕形成の問題から長8センチ高角砲でなければおかしいことを。
それを聞いて学芸員は何やら得心したように口を開いた。
「そうですね。その様に疑問を持たれる方が居るのは確かですが・・・」
これは生前に小野田君自身がそう指示して完成させたものらしい。
「だとしたら、この模型に40ミリ機関砲が装備されていないのはおかしいですよ?」
実は当時、俺は二つの案を持っていた。ひとつは長8センチと25ミリ機関砲の組合せ。個艦防空ならばこの組合せで十分間に合う。より遠距離を担うのならば主砲から電波信管装備の三式弾を使えばよい。軽巡はその思想で設計していた。駿河型も副砲を遠距離対空火力とする前提だ。
もし、主砲や副砲を遠距離対空火力として使わない場合、長12センチが遠距離対空を担い、短距離対空の25ミリ機関砲との弾幕の谷間は40ミリ機関砲で埋める。長8センチが中近距離対空火力を担うからこそ40ミリ機関砲が必要なくなるのであって、こんな谷間を放置することはしない。
それを聞いた学芸員はなぜか何処かに電話し出したのである。程なく
「失礼しました。お手数ですが館長室までお越し願えませんでしょうか?」
急にそんな事を言い出したのだ。まあ、別に拒否する理由も無いけどね。
なんとも不思議な話で、館長は小野田家の縁者らしい。
「真介氏の悪戯に気が付いたのは貴方が初めてです」
招かれた館長室でそんな事を言われた。
そして、本来の設計は長8センチであったと言うのである。
本来ならば広く知られていても不思議ではないのだが、人の記憶とは曖昧なもので、小野田君が長12センチだったと早くから自説を展開したことで殆どその様に伝わり、今ではそれが常識になっているとか。
「何故、そんな事を彼はしたんですか?」
俺は当然の様にそう聞いた。
「真介氏は藤本喜久雄氏が未来から来た他の人物に取りつかれていたのではないかと、晩年まで言ってましてね。とりついた人間が未来に帰ったのならば、この悪戯に気がつくはずだと」
小野田君が勘づいていた事に驚いたが、それ以上にこんな悪戯をするような人物だった事に呆れた。駿河型や島風型だけでその暴走は十分なのになにやってるんだか・・・
「呆れますよね、こんな与太話。しかし、真介氏は貴方みたいに悪戯を暴く人物が現れるのを待って居たようでしてね、その様な人物が現れたならこれを渡してくれと託されていました」
そういって渡されたのは手紙だった。
呆気に取られる俺はとりあえずそれを受け取った。
「真介氏が悪戯を暴いた人物に宛てたメッセージだそうです。あなたが暴いたことで、この悪戯は終りにするというのも遺言の様なものだったので、近いうちに本来の設計図を公開することになるでしょう」
館長はやれやれと言った具合にそう言った。
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これを読んでいると言うことは私の悪戯をあなたは見破ったと言うことでしょう。
本当なら私が直接お会いしたかったのですが、叶いませんでした。
もし、あなたが藤本喜久雄氏や私の研究者ならば、これから読むことは口外しないで頂きたいのです。また、あなたが藤本喜久雄氏の憑依者ならば、お久しぶりです。
私が藤本喜久雄氏の不自然さに気が付いたのは昭和11年でしたか、八木アンテナとマグネトロンの論文探しを依頼されたさい、「これで日本もマトモなレーダーが持てるな」という独り言を聞いたことでした。
それから少し観察をしていてやはりおかしいと思い、対応策を請うために兄慎吾にそうだんしたのです。
それから失礼とは思いながらもあまたの情報を引き出し、我々兄弟はその分析をしたのです。
私自身は藤本氏の話が信じられませんでした。しかし、兄慎吾はなにやら納得しておりました。そして、私に説明したのです。
「その藤本という者の話は面白い。確かにあり得るな。我が国はこれまで清やロシアという大国と戦をしたが、それはごく限られた一正面での戦いでしかなかった。支那戦線をそのままに米国やソ連と戦い勝つほどの国力は我が国は持ち合わせていない。もし、米国と戦をするなら満蒙まで引き、支那とは戦わずに対米戦の蓄えを最優先にすべきだろう。が、現状はそうなっていない。」
と言ったのです。そして、私は更なる疑念がありました。何故、藤本氏は日本が負けるというのに誰かに話して対策を講じようとしないのか。
「お前のような物分かりの良い奴ばかりなら良いが、世の中はその逆。自分の主観や利益を違う意見は排除するだろう。満州国のできる前に誰が真面目にそんな話を聞く?米国との戦もありやという今の時点では尚更だろう。理屈で歯が立たなきゃ刃を向ける危なっかしい奴が多いからな」
というのです。確かに、そう言われればそうなのです。言ってもどうにもならない。慎吾は昭和15年には支那戦線縮小と対米、ソ戦への備えを主張しましたが、受け入れられませんでした。
昭和15年には既に米国との戦争は回避できず、ならば何を守るかが我々のテーマでした。南方、南洋に関東軍から引抜きがあることを考慮すれば満蒙や朝鮮の防衛など叶わず、南洋などは論外。我々は南樺太と千島を守る方策を考えるに至りました。そこで、まず必要になるのが海上戦力。私は敢えてガスタービン機関を使う事を提案し、何とか内地に有力戦力を保持できないかと考え、実行に移したのが藤本氏の残した戦艦と駆逐艦案の実現でした。結果はご存じの通りです。確かに多くの苦労をしましたが、それはここに書くようなことでは無いでしょう。
戦後、私は造船技師の知識を活かして建機製造に乗り出し、成功者と呼ばれましたが、一つだけやり残したことが気になっていたのです。果して、私の接した藤本喜久雄とは何者であったのか。
資料館の開設に当たり、もしかしたらと思い、この悪戯を仕込むことにしのです。ボフォース40ミリ機銃の検討は長8センチ砲の成功で部内検討に留まり、知るものも少ないのです。そして、特14を主砲とする巡洋艦は藤本氏の個人的な私案の段階でしかありませんでした。その私案は長8センチ砲の完成前であったため、十一年式と40、25ミリ機銃装備とされておりました。それが事実です。しかし、もし、後世から藤本氏に乗り移った者がいた場合、資料館を訪れ、私の悪戯にも気が付くのではないかと考えた次第です。何故、藤本氏が敗戦を誰にも告げなかったか、いかなる手段も政治に講じなかったか。私の中では兄とは違う考えがありました。
私自身、もし、楠木正成公に会いに行けたとしても、私がもとの世界に帰れるのであれば彼に将来の正成公の運命を告げないでしょう。歴史を書き換えたのでは自身の帰るべき所がなくなってしまう。映画を見てそう直感したのです。まさか、そんなことは無いと笑って下さい。
この手紙がまだ駿河型戦艦が海に浮いている間に悪戯を発見した者に届いていたら幸いです。
昭和61年5月18日 小野田真介
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小野田君はこのメッセージをしたためた半年後に亡くなったそうだ。
小野田兄弟にまつわる陰謀論があるけれど、その大筋は事実だったようだ。まさか、小野田君が俺から色々聞き出していたとは知らなかったな。それを元に南樺太や千島を守る対策を練り、小野田兄弟がその任に就けるように画策していたようだ。まさか、バレていたとはな・・・




