第二十章 思いやる心
病院を退院する時に書いてもらった診断書を城に提出し、レオナルドはあと十日程屋敷で休む事になった。
いくら怪我をしたとはいえ、どちらかというと体より心というか精神面、いや、脳? 目に見えない不具合なのによくそんなに休みを貰えたものだと妻だけではなく夫も思った。
しかし、彼は隣国から帰国してからというもの、殆ど休みを取らずに働いていたので、その未消化分の休みも含まれているらしい。
そこはパークスや親しい同僚が上手くやってくれたようだ。
「旦那様はアノ方のいる屋敷に出来るだけいたくなかったのでしょう。
それにしても腹立たしいですよ。
これまで旦那様がご自分の為に取った休みは、結婚式のための一日だけで、その他はアノ王子に命じられて取ったものだったんですからね」
執務室でこうため息を漏らしたパークスの言葉に、当主もうんざりしたように頷いた。
そう、アノ二人が逢瀬を楽しむ為には、第二王子がこの侯爵家の当主と話をしに来たという名目が必要だったからである。
「これは私の憶測ですが、契約の事をお話しにならなかったのは、大旦那様に禁じられたせいだけではなく、奥様にそんな屈辱的な思いをさせたくなかったからではないでしょうか?」
パークスの推測はきっと当たっているのだろう。侯爵家がまるで娼館のように使われているなんて、こんな侮辱的な事はないのだから。
しかし夫に愛されている娼館の女主と、契約結婚でただのお飾りの侯爵夫人ではどちらが屈辱的なのかしら? どちらが惨めなのかしら? 愛人の子供を自分の子として育てろとまで言われて・・・
黙り込んで思いに耽った妻を、夫は切ない目で見つめた。彼も妻と同じ事を考えていた。
今の彼にはその答えは出ないが、半年前の自分は彼女の気持ちを勝手に一人で判断してしまったのだろう。
「ごめんね。君の気持ちは君でしかわからないのに、僕は君の気持ちを勝手に推し量ってしまった。今の僕に謝られても許せないとは思うけど」
こう謝罪された妻は、パッと顔を上げて夫を見た。
「ああ… 旦那様は私の気持ちを考えて、慮って下さったのですね?」
「その時の事を覚えている訳ではないが、それは間違いない。
ずっと以前から僕は、会えない時でもいつも君を思い、君がどうしたら喜んでくれるのか、嬉しいのかを考えていたんだから。結局それは自分本意で勝手な思い込みだったけれど……」
「いいえ、そんな事はありません。
婚約中に頂いた贈り物も、お手紙も私の事を考えて下さっていたのですね……嬉しいです。
それに結婚してからも、高価なアクセサリーや立派なお花をたくさん頂きましたが、あれは私への後ろめたさで仕方なく、適当な物を選んでいたんだと思っていたのです。
でもそうではなかったかも知れないんですよね?」
「君に適当な物を贈る筈は断じてないよ。記憶がなくてもこれだけはそう言い切れるよ」
レオナルドの真摯な言葉に、ミラージュジュは滂沱の涙を流した。そして突然泣き出した妻に動揺している夫に、やがて彼女はこう言った。
「私の両親と兄は私の気持ちを一度として慮ってくれた事はありませんでした。私の気持ちを知ろうとしたり、考えようとしてくれた事もありません。彼らにとって私の存在は無いものと同じだったからです。
だから、私がどんなに悲しくても苦しくても寂しくても、泣いても、笑っても関係なかったんです。
親類や使用人達もみんなそうでした。
子供の頃、そんな私の存在に気付いてくれたのは、アンジェラ先生以外には親友のレナとノアだけでした。でも、そんな二人とも突然会えなくなってしまったんです……
どうして?
私は毎日泣き続けてある日気付いたんです。きっとあの子達に私の姿が見えなくなってしまったんだわって。
ああそうか。きっと私は空気になってしまったんだ。だから私はちゃんと存在していても、人からは見えないんだ。それなら人からわかってもらえなくも仕方がないなと気付いて、私はようやく納得したんです」
「ジュジュ! 僕はいつだって君を思っていたよ。僕の中から君の存在が消えた事は一度たりとなかったよ」
レオナルドは思い切りミラージュジュを抱き締めた。すると、彼女からも強く抱き締め返された。
「ありがとうございます。さっき言って頂いた言葉、嬉しくてたまりません。
旦那様は私の心を探ろうとして下さった…
私の思いを知ろうとして下さった…
私に寄り添おうとして下さった…
私の存在に気付いて下さった…
私は、旦那様と結婚出来て本当に幸せです」
「自分勝手に気持ちを忖度して君を苦しめてしまったのに?」
「大切なのは相手の気持ちを正確に読み取る事ではないと思います。だってそんな事不可能ですもの。
自分なりに相手の事を思い、どうすれば良いかを考える、その気持ちが重要なのではないですか?
ただ、これからは二人の事は二人で相談して決めて頂けると、もっと嬉しいのですが」
「ああ、もちろんだよ。約束する。そうだ、今僕が誓った事は書類にしておこう。
もし、また僕の記憶に齟齬が生じても、今度は自分の言った言葉に責任が持てるように」
「もう、旦那様の記憶が戻っても戻らなくても、旦那様が私を大切に思って下さっていた事を信じます。だからもう気にしないで下さい」
ミラージュジュは結婚して初めて、本当の笑顔を見せながらそう言った。
しかしニコニコ顔のパークスの姿が目に入り、ようやくこの場に居るのは二人だけではなかった事を思い出し、夫から身を離したのだった。
その後、頭が沸騰してボーッとしていたレオナルドがようやく冷静さを取り戻すと、今度は妻と執事から、彼が無くしてしまった二年間の記憶を、二人から出来るだけレクチャーされたのだった。
まぁそれが完璧でなくても、記憶にありませんと言えばいくらでも誤魔化しはきくだろう。
しかし、さすがに重要なポイントくらいは頭に入れて置かなければ、仕事に差し支えが出て皆に迷惑がかかる。
それ故に、王宮や王城の人間関係や勢力図、国の方向性、法律の改正された内容、現在の国政の問題、外交における懸念などは知っておかなければまずいだろう。
「それにしてもパークス、君の情報量は凄いね。まるで城勤めをしているようじゃないか」
「普段からお城で働いている方々とは仲良くさせて頂いていましたよ。特に旦那様の同僚の皆様とは」
「君の仕事ぶりは凄いね。君がいたからこそ、あの父親でも王城での仕事を全う出来たんだろうね」
「どういう事ですか?」
「私の父親は、君の父親とお仲間で、考え方が偏屈で偏っている。だから俯瞰的に物事が見られないんだ。それでもなんとか定年まで城で仕事がこなせたのは、パークスのおかげだということさ。
パークスは君と同じで、自然に情報収集するのが上手いんだ。二人とも下心がないから相手も無意識に本音を漏らしてしまうのだろう」
「奥様はそうかも知れませんが、私はそこそこ悪辣な事も考えていますけれどね」
パークスは笑ったが、目は笑ってはいなかった。さすがは一流の執事だわ、とミラージュジュは感心した。
頭が良くて冷静沈着で何事にも卒なくこなせると思っていた夫だが、育った環境を考えると、案外人間関係が得意ではないのかも知れない。
それを執事であるパークスが隠れてフォローしていたのだろう。
これからは妻として、自分も少しでも手伝う事が出来ればいいなと彼女は思った。
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