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秘密はない


 父は荒々しい仕草で書き物机から離れると、部屋のすべてに背を向けて、窓辺に立った。

 外は夕闇に包まれ始めている。景色が目に入っているかどうかはわからない。

 書斎の中は、使用人たちによって、灯りが増やされた。

 父の不機嫌さに全く動じなかったのは、母だけだったかもしれない。

「おいしいわ。お茶会でこのオレンジを出したいわ。ガザ・オレンジを出されて随分自慢されたことがあるのよ。セルディス公爵の夜会のビュッフェでは、オレンジはガザのものしか出されないでしょう。そこに一緒に出されたら嬉しいわよね。」

 母はシアーズのオレンジを味わうと、きらめかせた目でそうすべきだと訴えかけてくる。

 シンシアは、まず謝る。

「ごめんなさい。お母さま。今手元に六十七個しかないの。明日、内宮に五十個を届けるわ。今、召し上がっていただくために準備した残りは、使用人たちに下げ渡しました。」

「下げ渡した?!」

 母が驚きのあまりか体ごと迫って来て、シンシアは反射的に引く。

「こんなにおいしいものがケルターにあるのだということを、屋敷で働く彼らに知ってもらって、誇りに思って欲しかったのです。」

 使用人には使用人の情報網がある。どこのお屋敷で何があったか、使用人から漏れることは多い。

 これから、ケルター子爵家は社交界で噂話を提供することになるだろう。

 すでに、シンシアの社交界デヴューでの事件は、加害者であるカティス家のロークの処分はいつまでも決まらないため、現在進行中の話として人々の口に上っている。

 彼らが他家の使用人たちから探りを入れられた時、少しでも忠実であって欲しい。王家の人たちと同じオレンジを食べるということは、ケルター家に仕える事を誇りに思える拠り所として分かりやすいものだろう。

 使用人たちを労いたいという気持ちのほかに、そんな思いもシンシアにはあった。

 どこか呆然としたような顔をしている母に、少し上目遣いのお願い口調でシンシアは言い訳をする。

「次のオレンジは明後日に届きますから、少し待ってください。シアーズから六日ごとに食べ頃のものを持って来てもらうので、数はわからないんです。明後日届いたら、まずおじい様にお届けします。母さまのお茶会用もすぐに取り分けます。」

 母の実家では祖父が健在だ。他にも届けなければと思う先は多い。

 シンシアは胸元で両手を組み、少し父を気にしつつ、ディーンへ向かっておねだりと告白を開始する。

「私も今まで、セアラとオーガス侯爵夫妻以外にはお届けしていないんです。アルティアは遊びに来てくれた時におだししたけど、私の友人に贈る分も貰っていいでしょう? ケルターの手工芸品を一手に引き受けてくれた商人や、王立学院入学の為の後見人になって下さったフィリーゼ大伯母さまにも。」

 ディーンが目を閉じ、眉間に寄ったしわを寄せて、額に手を当てた。

「セアラ殿はわかった。オーガス侯爵夫人と親しそうなのは、春の夜会の事件で知ったが、侯爵とも親しいのか。」

 ひとつずつ確認されるのかしらと思いつつ、隠す必要がなくなったシンシアは正直に話す。

「セアラがオーガス侯爵夫妻と親しかったの。オーガス侯爵領もオレンジを作っているでしょう。でもシアーズが最適だって主張されて、オーガス侯爵から苗木を貰って、植えたの。」

「セアラ殿がだな。」

「そう、セアラが。元々シアーズに果樹園があったでしょう? セアラの言う通りに世話をしたら他のオレンジも美味しくなってきたのだけど、セアラが貰って来た苗は特別だったみたい。」

「セアラ殿なんだな。」

 少しだけ表現が変わったディーンの言葉にシンシアは頷いた。

「そう。オーガス領内でもいろいろと試したみたい。好きって気持ちはすごいわよね。オーガス侯爵は呆れていらしたわ。今シアーズではセアラの指示通り接ぎ木をして樹を増やしているところ。」

「増やせるのか?」

「樹がまだ若いから実は少ないのだけど、この調子ならだいじょうぶだろうと思う。それで他のオレンジなんだけど」

 ディーンが目を眇めた。シンシアは早口で白状する。

「近隣領で売って、その利益でシアーズの館を修復して、残りは果樹園の拡張資金にしました。」

 売ったのはシアーズのものだけではない。

「ケルター子爵邸近くの果樹園も世話をして近隣領で売ったわ。こちらは、利益は、領内の子どもたちに読み書きを教えるために使った。」

 細かいことを言い始めたらきりがないので、大まかに知らせる。

「それから、婦人用雑貨を作ったり、木工細工職人を育てたり、作ったものを売ったり。」

 とても会計士とは思えない説明ぶりだと、シンシアは自分でも思った。

「とにかく大きなことはしていないから、大きな損は出してない。というか、利益がまだ出ていないものもあるけど、全体では、損はしていないわ。」

 そしてこれだけははっきり言える。

「今年から王都でオレンジの販売を始めたの。こちらは好調。とくに調理用のカースが。」

「調理用?」

 ディーンの眉の間のしわが消えた。

「そう、ケルターや近隣領ではどこにでもある木だから、誰もその果実を買ったりしないけど、北に行くほどこの種の木は減っていくわ。王都だと商品になるの。驚いたわ。近隣領はすでに王都で売っていたようよ。」

「知らなかったのは、我が家だけか。」

 またディーンの眉間にしわが出来る。シンシアは静かに答える。

「売りに出る数が増えて値が下がることを心配したのだけど、仲介している商人が、王都より北方の街で売り込みをしたの。うまくいったそうよ。国外でも売りたいとか言い始めたのだけど、それはお兄さまが聞いて。」

「私が?」

 驚かれた。

「そうよ。だってさっき言ってらしたでしょう。領地管理はお兄さまがするって。先方もいつ嫁いでケルター領を出て行くかわからない私より、お兄さまと相談したいと思うわ。予定を開けて下さいます?」

 仕事の話を持ち出されて、兄は一瞬だけ戸惑った顔をしたが、すぐに立ち直った。

「シンシアがどういうことをしたのかを聞いてからだ。」

「わかりました。」

 シンシアが返事をした時だった。

 ガツンと床を蹴る音がした。

 父だった。

 何も言わずにおおきな靴音だけをたて、書斎を出て行った。

 父の侍従がその後を追う。

 誰も引きとめなかった。何を言っていいのか、わからなかったからかもしれない。

 父の気配が消えてしまってから、シンシアのドレスの袖が小さく引かれた。気付いて振り向くと、華やかな空気が消え、疲れたような顔をした母がいた。

「ごめんなさいね。シンシア。お父さまを許してあげて。」

 言われて初めて気がついた。『悲運を背負った子』という言葉を、父は母に対しても言っていたのではないだろうか。シンシアは、人の心の機微に敏い親友のセアラを思った。彼女ならどう考えただろう。

 けれど、今、シンシアは当惑した顔をすることしかできない。父が何を言い、どう行動するかなど全くわからない。

「怒られるのは承知でやったことですから。厳しい罰を受けるかもと思ってました。あ、まだ、受けないと決まったわけではありませんね。」

 シンシアは笑顔を作り、それから素直に謝った。

「勝手に王立学院に入ってしまったことお許しください。きっと反対されるだろうと思ったのです。お父さまは、女に余計な教育は不要だという考えをお持ちだから。」

 ため息をついて、母はソファの背に身を預けた。

「私が娘に信頼されていなかったことが、よくわかったわ。」

 そういう言われ方をされると、シンシアには返事のしようがない。

「フィリーゼ大伯母さまですって? 一体いつの間に連絡をとったの。」

「アルティアの家の園遊会で。初めてセアラがカース家の招きに応じた時よ。」

 母が目を見開いた。

「それって五年以上も前のことでしょう。そんな頃から王立学院でお勉強をしたいと思っていたの?」

「はい。」

「私は勉強嫌いだったわ。」

 これもシンシアには返事が出来ない。

「まぁいいわ。」

 何を思ったか、気を取り直したらしい母が、背を伸ばしてきちんとソファに座りなおしている。

「女性が高等教育を受けることは敬遠されるけれど、中途半端に投げ出さずに卒業できるなら一目置かれるわ。始めたからには、きちんと卒業しなさい。」

 誤解されている。

 ディーンが、貴族しか入学できない王国学園をまだ卒業していないのだから、無理もない。

 シンシアはなんとなく肩身の狭い気分になる。

「卒業しました。」

「え?」

 母に凝視される。

 この書斎に入ってからのシンシアは、ずっと早口だ。

「二年前に卒業しました。法律と会計の資格を取りました。十四才から法的に成人しています。」

 シンシアは母に向かって頭を低く下げた。

「黙っていて、ごめんなさい!」

 少しの沈黙の後、母が呆然としてつぶやいた。

「私が産んだ子とは思えないわ。」

「俺の妹とも思えない。」

 ディーンの憮然とした声が降って来る。

「信じられない。妹が自分より格上の学院をすでに卒業していて、自分がちょっと無理だなと思っていた法律士の資格を取っていて、しかも会計までモノにして、法的に成人していた? 領地で果樹園拓いて、近隣領や王都で稼いでる? 王太后さまにお会いして、オレンジを売り込んだ?」

 最後の王太后さまのくだりは大きく違う。父はいなくなってしまったが、誤解は解くべきだろう。ディーンにとっては心痛む話だとしても。

「王太后さまとオレンジの売り買いの話をしたわけではないの。」

 下げていた頭を上げて、シンシアはディーンの投げやりに見える顔を見つめた。ひとつ小さく息を着いて、話し始めようとして、止めた。

 部屋の中には子爵家以外の者がいる。

「イニッツ、後はいいわ。ご苦労でした。」

 そう告げると、イニッツは会釈してから他の使用人たちと共に部屋の外に出た。最後までシンシアを見ていたキリカには、笑みを見せておく。

 それから改めて、シンシアは母と兄に向き直った。

「王太后さまは、春の夜会での私の怪我を心配して下さり、不届き者は必ず罰があたえられると仰いました。」

 シンシアは、少し視線を落とす。

「先の戦の話もされました。そして、『カティスはもっと頭を下げるべきでしょう。』と。」

 その場を沈黙が支配する。

 ディーンは、監査部からカティス家に損賠賠償請求をするよう要求されている。そして恋人はカティスの娘だ。

 王家からも良い印象を持たれていないことも伝えてしまった。

 シンシアは、ただ、ディーンの心配をすることしかできない。

「今夜は、もう休む。」

 ディーンが酷く疲れたように言い捨て、書斎を出て行った。

 ドアが閉じてしまってから、シンシアは母にもう一度頭を下げた。

「いい話があるなどと言って、こんな酷い気持ちにさせてしまって、ごめんなさい。」

 母が、シンシアの左腕をそっと引いて抱き寄せてくれた。

「いいのよ、シンシア。王家のご意向に私たちは従うのみよ。あなたに怪我をさせた、春の夜会の不届き者を罰して下さるなら、私はそれで満足できるわ。」

 シンシアから話せないことは、まだたくさんある。

 けれどもう今までのように何年も胸に抱き続けることはない。兄か父から話されるだろう。

「男たちは放っておいて、お食事をしましょうよ。」

 母に言われて、シンシアは頷いた。

 もう、シンシアの手の中だけにしかない秘密はない。

 シンシア自身の縁談についての不安は残るが、ディーンの乗り越えるものに比べたら小さなことに思えた。


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