踏み出すその先
セアラが説明を助けると言ってくれたけれど、シンシアはこれ以上頼るつもりはなかった。
ひとりでケルター邸に戻る。
もしかしたらとは思っていたが、やはり玄関ホールで執事のイニッツ、家政婦長のエイリ、そして侍女のキリカが、シンシアを待ち構えていた。
「シンシア様、旦那様が、すぐに書斎へいらっしゃるようにと仰せです。書斎には、ディーン様もいらっしゃいます。」
平静を装いながら、イニッツはいつになく落ち着きがない。父は相当怒っているのだろう。
「シンシア様。」
キリカが側に来てそっと耳打ちしてくれる。
「お二人ともとても厳しい顔をされていました。奥様に助けを求めてきましょうか。」
シンシアは、キリカの顔を少しばかり見詰めた。
父と対決することばかりを考えていたが、良い知らせもあるのだ。
「何か?」
不安混じりに聞いてきたキリカに。シンシアは笑顔を見せた。
「そうね。お願い。お知らせしたいことがあるのよ。きっと喜んで頂けるわ。」
家政婦長に向き直る。
「エイリ、お母さまをお呼びして。今すぐよ。私はそれまでここで待っています。」
イニッツが一歩前に出てくる。
「旦那様は、ご帰宅されたらすぐにとおおせでした。」
板挟みの彼には悪いが、シンシアは父と衝突することを承知で帰ってきている。
イニッツには微笑むだけにして、シンシアは、玄関ホールに置かれた椅子に腰掛けた。
動かないという意志を見せると、エイリがメイドを母の下に行かせた。
足早に去って行くメイドを見てから、シンシアはキリカに微笑みかける。
キリカが警戒するセアラがよくする笑みに似ているかもしれない。キリカが不安そうにしながらも、わずかに首をかしげている。
「ねぇ、キリカ。庶民の間では『喧嘩上等』という決め台詞があるのですってね。」
「シンシア様!」
これにはイニッツも咎めるような声を上げた。
「セアラ様ですね。」
キリカの不安は吹き飛んだようだ。いつも通りに怒ってくれる。
「なんて言葉を覚えて来られるんですか。二度とお使いにならないでください。」
「まさか。」イニッツが顔を強張らせている。「旦那様相手にそのようにお考えなのではありませんよね。」
否定をしないでいると、静かになった。
膝には、薄紫の布に包まれた封書がある。
これは、お母さまに解いてもらうのがいいかもしれない。何もかもを問答無用で有耶無耶にしてもらえそうだ。
確認しなければいけないことがあった。執事を見上げる。
「ねぇイニッツ、シアーズのオレンジ、三日前に届いた分、今いくつ残っている?」
急なことに少しつまって、けれどすぐにイニッツから答えが返って来る。
「七十個ほどかと。」
「六十七個です。」
エイリが正確な数を上げた。管理は家政婦長がしていたらしい。
このオレンジの味を知っているのは、ごくわずかだ。
シンシア、セアラ、アルティア、オーガス侯爵夫妻、オレンジの世話をしているシアーズ別邸の使用人、領地と王都の執事と家政婦長、そしてキリカ。それから監査部のふたり。
「お父様たちに召し上がっていただくわ。すぐに準備して。」
「書斎にお持ちしてよろしいのですか?」
「急いで。お母さまが来られるのに遅れないで。」
きっと母は身だしなみを整えているだろう。来るまでに用意して欲しい。
「かしこまりました。」
すぐにエイリが指示を出しに行った。
そのエイリが帰って来るのを待って、シンシアは三人に伝えた。
「明日、今あるうちの五十個を出荷します。余った分はここの使用人たちで分け合って食べて。まだ持ち出しは禁止よ。」
三人とも黙ったままシンシアを見つめている。
とうとう、あの最高級のガザ・オレンジに並ぶオレンジを出荷する。
どこの誰に売るのか、気になるだろう。
申し訳ないが、知るのはもう少し待ってもらう。
シンシアは、深呼吸をしながら目を閉じた。
先手必勝。
心の中で思う。単純だけど難しい。
馬車の中で、いろんな場面を想像していた。だがそこに母の姿はなかった。
殺伐とした場所から、自然と遠ざけてしまっていた。キリカに言われるまで気付かなかった。
勘当を覚悟して挑むつもりになっていた。気付かないうちに自分で自分を追い込んでいたようだ。
ゆっくりとした呼吸を繰り返す。
ケルター家は山を越えられるのだ。
シンシアのことを『悲運を背負った子』と言った父。
すでにバラカ男爵が理路整然と否定してくれた。ディーンも父に同調していなかった。
父と話にならなくても、兄が納得してくれたらいい。
領地は兄が管理する。シンシアは、自分が行ったささやかだけど守りたいものを兄に託したい。
「シンシア様、オレンジの準備は整いました。いつでもお声掛けください。」
エイリが控え目な声で報告してくれた。
静かに目を開き、エイリを見る。
「ありがとう。」
エイリが応えて頭を下げた時、華やかな気配が近づいてきた。
母が侍女を連れてやってきた。
「シンシア。怪我がすこし良くなったからと言って、長い時間出歩かないで。心配するわ。」
シンシアはすぐに立ち上がって、笑顔を向ける。母の姿を見れば、演技など必要なかった。
本当にうれしい事を伝えられるのだ。
「お母さま!」
子どものように抱きつくと、母は軽やかな声を上げた。
「まぁ、どうしたの? いつものおすましさんらしくないわね。」
確かにそうだ。でも何を言われても、嬉しい時に嬉しいと表現できるのは気分がいい。
「素敵なものを頂いたの。」
シンシアは、薄紫の包みを胸に抱いた。
「お父さま、お兄さまと一緒に見て。」
母の腕を取って、書斎へ向かう。母の気持ちがどちらに向いても構わない。父の想定外の場面を作る。それが、シンシアが思いついた『先手』だ。
「エイリ、お願いね。」
声をかけると、会釈したエイリがすぐに身を翻す。
書斎のノックは、執事のイニッツがした。
「シンシア様がお戻りになられました。」
中から掛けられた声の後に、ドアが開かれる。
父は奥の大きな書き物机の向こうに座り、ディーンはその手前、少し離れた場所に置かれた椅子に座っていた。
母と腕を組んでいるシンシアに、父とディーンは驚いたようだった。
「只今帰りました。お父さま。お呼びと聞きましたが、まずこれをご覧いただきたいのです。」
シンシアは一気に言って、胸に抱えていた包みを両手で捧げるように持ち直した。
そして母に差し出す。
「開けてください。お母さま。」
「後にしなさい。」
父の厳しい声が制してきた。
母は驚いているが、恐れてはいない。シンシアも同じように何を怒っているのだろうという顔を作る。
うまく出来ている自信はないが、先に進むことが大事だ。
「そんなに時間はかかりませんわ、お父さま。さぁどうぞ、お母さま。」
「言うことが聞けないのか、シンシア。」
一層厳しい父の声に、母が眉を下げた。
「シンシア、何をそんなに怒られるようなことをしたの?」
言いながらも、手はシンシアから包みを受け取り、解いている。贈り物はいつだって早く見たいものだ。
出てきたのは朱塗りの薄い箱だ。けれどその中央には、内宮の方を示す紋章が描かれている。
母の手が薄紫の布を持ったまま宙で止まり、それに見入っていた。
父が怪訝そうに眉をひそめる。
ディーンは何事かとこちらにやって来た。ほんの数歩でその正体を知る。
「シンシア、それは…」
やっとそれだけ聞いてきた兄に、笑顔がおさえきれない。
「セアラが交渉してくれて、箱に入れて下さったの。次からはありませんよって念を押されたけど。」
演技でなく、楽しく話せる。シンシアは母の手の中の箱をそっと開いた。
「注文書?!」
ディーンが驚きの声を上げる。
「そう。セアラに頼まれて、シアーズでオレンジを作っていたの。絶対おいしく出来るからって。」
シンシアはドアの外に控えていたエイリに中に入るよう声をかけた。
「そうしたら、本当においしくできたのよ。召し上がって見て。」
書斎はそんなに広くない。エイリがワゴンのカバーを外したとたん、オレンジのいい匂いが広がった。
「驚いたわ、シンシア。」
さわやかで食欲をそそる匂いに、母がやっとまともな反応を示した。
「そうでしょう。どうぞ。」
シンシアがそう言った時だった。
「いい加減にしなさい!」
大きな声が響き渡った。父が怒りを面に表して立ち上がった。
その場にいた全員の動きが止まる。
「どういうつもりだ、シンシア。」
低い威嚇するかのような声が、シンシアに向かってくる。
「シアーズのオレンジを売るだと? あの侯爵の息子にか? いずれそのシアーズを持参金に嫁いで来いと、あの小僧に言われたか! それともお前があの男を唆したのか?!」
セアラの推測を聞いていなければ動揺したかもしれない。セアラの先読み能力に感謝する。
「何を仰っているのですか?」
シンシアは、父に問い、ディーンを見た。大きくため息をついている。
「今日、シアーズをシンシア名義にすればどうかと提案されたんだ。」
ディーンは冷静に見える。シンシアは内心でほっとして、抗議の声をあげた。
「一体誰に、どうしてそんな話になったんですか。」
「黙っていろ、ディーン。シンシア、お前は何を企んでいるんだ。」
父に割って入られた。
「企むなんて」
シンシアは、本気で心外そうに言えた。演技は必要ない。
「私は育てただけです。」
手の中の箱の表にある紋章を、父に向ける。
父が信じられないものを見るような顔のまま、動きを止めた。ついさっきまでの母のようだ。
「今日、王太后さまから直々にお声がけ頂きました。」
黙り込む父から、シンシアは、話す相手をディーンに変えた。
「注文主は侍従長だけど、お話をくださったのは王太后さまだったから、御紋入りの朱塗りの御箱に入れて下さったの。全部セアラのおかげよ。セアラのために作ったオレンジだったのだけど、セアラが受け取ったオレンジをどうしていたかは知らなかったんですもの。」
シンシアは一気に話す。
「領地のケルター家の果樹園も手入れし直したのよ。セアラが教えてくれた育て方を試したの。シアーズのオレンジには及ばないけど、おいしくなったわ。実は、近隣の領地ではすでに売っていたのだけど、量も充分採れるようになったから、今年、王都で売り始めたの。順調に売れているのよ。でも、勝手にしたことだから怒られると思って言えなかったの。ごめんなさい。お兄さま。」
最後は本気でディーンの機嫌をうかがうような調子になってしまった。
ディーンが目を閉じ、大きくため息をつく。
父が声を張り上げた。
「売っただと、私の果樹園のものを勝手に売っただと!」
気持ちを表しているかのように声の調子は揺れている。
父との間には書き物机があるものの、シンシアは、王太后の紋章が描かれた箱のふたを持つ手に力を入れてしまった。心のどこかでこれを盾にしていれば無体はできないはずと考えていた。
母は、不安気に成り行きを見ている。
緊張感が高まった中、行動したのはディーンだった。
ドア近くのワゴンまで足を運び、置かれた皿を手に取った。オレンジが食べやすく、美しく盛られている。きれいな仕草でフォークを使い、ディーンはそれを口にした。
「おいしい。」
食べながら、ディーンが笑っていた。自嘲しているような、何かを投げ捨てたような笑みに見えた。それが声にも表れる。
「こんなおいしいオレンジ、食べたことがないよ。ガザ・オレンジにだって勝てるんじゃないか?」
皿の上のオレンジを平らげてしまう。
それからディーンは、シンシアに強い眼差しを向けて来た。嘘は許さない。そう言われているようにシンシアは感じた。
「セアラ・ディパンド伯爵令嬢か。カイル・キルティ卿じゃないんだな。」
「セアラよ。」
シンシアも同じようにディーンを見た。
「キルティ卿はこの春知り合ったばかりの人よ。素敵な人だし、春の夜会では助けてもらったし、お見舞いのお花を貰って、お手紙のやり取りもして、嬉しかった。でも、シアーズが目当てだったのなら、もう手紙の返事は出さない。どこで会っても距離を保つわ。」
言葉にしてみたら、気持ちがはっきりしたような気がした。
心の中にふわふわとすみついていたカイル・キルティ。
カイルが本気でシアーズを欲しがっていたのかどうか、はっきりとは聞いていない。けれどセアラから『軍閥』などという言葉を聞いてしまったら、もう迂闊に近づけない。
そう一線を引いてしまえた。痛みがないわけじゃない。けれどどこか安心している自分がいた。身分違いに立ち向かわずに済む。
「親を騙すような娘の言うことが信じられるか。」
父がまた声を震わせる。
けれどディーンが一蹴してしまった。
「父上、領地のことは私にお任せ下さるのでしょう。」
驚いた。目を見開いてディーンを見た。兄はシンシアの話を聞いてくれるかもしれない。
ディーンは面白くないという顔で、シンシアを見降ろしてくる。
「俺は心の底から腹を立ててる。」
考えが甘かったかと、シンシアの箱のふたを持つ手にまた力が入る。ディーンが自分のことを『俺』と言う時は、そうとう機嫌が悪い時だともう知っている。
「お前にも。自分にも。父上にも。」
それからすっと視線をそらして、ワゴンの皿をもう一枚取った。それを母に差し出し、注文書の入った箱を受け取る。
「母上も味わってください。これから王室の方々が召し上がってくださるオレンジですよ。いや、違うか。」
ディーンがシンシアを見た。
無駄な力が抜けた、いつもの優しい兄の笑顔だ。
「すでにディパンド伯爵令嬢が、献上していてご存じの味か。」
シンシアはほっとして大きく頷いた。
「なんだかわくわくして来たわ。」
兄のいつも通りの顔に安心したのか、母も言葉通りに笑顔になる。
「エイリ、お茶を入れて頂戴。シンシア、座ってゆっくり話を聞かせて。王太后さまにお会いするなんて、ひとことも言っていなかったじゃない。」
オレンジが乗ったお皿を持っていない方の手で、母がシンシアの腕を取り、ソファへと向かう。
逆らうことなく流れに乗ったシンシアは、父を見る事が出来なかった。
父と兄、両方からもっと厳しい追及を受けると覚悟していた。
シア・オレンジと母の明るい気性のおかげで、ディーンには話を聞いてもらえそうだ。
けれど、シンシアのことを『悲運を背負った子』などと言った父が、自分と向き合ってくれるかどうかは全くわからなかった。




