シア
目の前の机に両手を投げ出し思いっきり項垂れたい。けれど大きくため息を吐くだけで何とか踏みとどまった。
部屋のドアがノックされた。
セアラが素早く立ち上がり、鍵を開けてドアを大きく開いた。
満面の笑みのバラカ男爵が室内に入ってきた。
「終わりましたよ、お嬢さま方。この後はもう、心配せずに我らにお任せください。」
この自信はどこから来るのだろう。それともそう見せかけようとしているのか。
シンシアは、殿下がお力を貸して下さることを分かっているから大丈夫だと思えるが、彼は知らないはずだ。今日の話し合いはケルター家を頑なにさせた。強引に進めてしまうつもりなのだろうか。
全く笑顔になれない。シンシアは黙っていられなかった。
「私、試算を間違っておりました? それにシアーズの名義変更の話など、全く聞いておりません。」
声に棘が入ってしまうのを押さえられなかった。
「いいえ、シンシア殿は間違っていませんでしたよ。あくまで我々の試算です。ケルターの窮状を救うための策だと思っていただきたい。シアーズを手放せば、ケルターは更に楽になるでしょう。」
そんな小手先の策など意味がない。
シアーズには、王家に献上するかもしれないオレンジがあるのだ。あれこそがケルターの助けになるはずなのに。
「帰ります。」
シンシアは、バラカ男爵の顔を見ることなく告げた。
「良かれと思ってしたことでしたが、シンシア殿を怒らせてしまいましたか。」
困ったように言ってはいるが、子ども相手に話している空気を感じる。
「シンシア。」
カイルの声に、不覚にも肩が跳ねた。腕を吊ったままだったことに気付いて動揺もする。親しい者以外には見せない姿を見せてしまっている。
「もう少し、ここにいて欲しい。父上たちが帰られたばかりだ。誤って顔を合わせたりしないように、もう少しだけ時間を潰してくれ。」
顔を上げる事ができない。
「お茶と菓子を運ばせよう。カイル、ご令嬢方のお相手を頼む。」
上機嫌だったバラカ男爵が、まるで逃げるように出て行った。
その理由はすぐにわかった。
「シアーズをシンシア名義にですって?」
セアラの低く、冷え切った声が部屋に広がった。彼女が怒ると空気まで凍りそうな雰囲気を醸し出す。
シンシアは反射的に一歩離れていた。
「何勝手な事を言っているの?」
「シンシアはあんなに頑張ってきたんだ。褒美があってもいいだろう。」
カイルが対抗するように声を張り上げる。自分の行いに自信があるのだろう。
「『褒美』?」
シンシアの怒りがさらに増す。
「何様のつもり? シンシアのお父さまは、シンシアを、自分の領地を奪う悪人として認識したかもしれないでしょう。」
「何言ってるんだ。自分の娘だろう。」
「さっきまで一体何を聞いていたの? シンシアの事をなんて言っていたか覚えてる? ケルター子爵が、シンシアが自分に求婚してきた侯爵の息子を手玉にとって財産を奪おうとした、そう考えてもおかしくないでしょう。」
「馬鹿な事を。」
セアラの軽く握った手が机に落ちる。出たのは、コンという軽い音だったが、その場を緊張が制した。それに反してセアラの声は冷静なものに戻った。
「私の話を、馬鹿な事だと言い放った人を何人知ってる? その人たち、結局どうなった?」
忠告を無視して痛い目に遭ったひとをシンシアは知っている。
「いつも正しいとは限らない。」
カイルは無表情を装い、引かなかった。
「そうかもね。」
もう興味は失せたというように、セアラは誰からも目をそらした。
「シンシア、シアーズが欲しいかしら?」
「まさか」
反射的に言葉が出た。
「シアーズは今のケルターに一番必要よ。」
「どういうことだ?」
カイルが割って入ってきた。
「キルティ侯爵家は、オーガス侯爵家の領地の中にあるシアーズに、含むところでもあるの? 親族会議でその領地を持参金代わりにするのが条件だと言われた?」
カイルが虚をつかれたように、黙った。
すぐに否定できないのは、セアラの言った通りだということなのだろうか。
「カイル・キルティ卿、がっかりさせないで頂戴。」
セアラはため息交じりに総言うと、帰りますとシンシアをドアへと誘った。
「まだケルター子爵が…」
「彼らは正面玄関から出るでしょう。私たちは東玄関を使います。」
カイルの言葉を切り捨て、セアラはドアに向かう。シンシアももちろんついていく。
先に進もうとするふたりを、カイルが遮った。
「シアーズことでオーガス家と事を構えるつもりなどない。純粋にシシアの将来を考えてのことだ。」
「では、シンシアは諦めるということですね。」
「どうしてそうなる。」
また大きくセアラがため息をつく。
「今の軍閥を考えれば、そんな呑気な事は言えないはずよ。」
カイルは眉をひそめる。シンシアにはわからない分野の話だが、カイルも黙り込んだところをみると、考えがそこまで及んでなったことは確かなようだ。
「よく胸に手を当てて考えることね。失礼するわ。」
セアラが、よけなければ体当たりをしてしまいそうな勢いで歩き出す。淑女らしくという気持ちは吹き飛んでしまっているようだ。シンシアは、速足で付いていく。置いて行かれるわけにはいかない。俯いてカイルの側をすり抜けた時だった。
「シンシア。」
名を呼ばれたら、無視は出来ない。でも顔は上げられなかった。
最初から何を考えているのか良くわからなかった。怪我の心配をしてもらって、手紙を交わして、少し親しくなった気でいた。まさかシアーズを持参金にしろと言われるとは思わなかった。
「私はあなたを大事にします。」
力強い声を嬉しいと思うべきなのだろうが、やはりシアーズの件がシンシアの心に影を落とす。あれは多くのケルターの民が命を落とすことになった最初のきっかけなのだ。
セアラは、先に行ってしまうことなく待ってくれている。
「失礼します。キルティ卿。」
シンシアは淑女らしくお辞儀をして、その場を辞した。
廊下に出ると、来た時とは別の方向へセアラに導かれる。迷うことなく進むセアラは、この建物内に詳しいのだろう。
東玄関なのだろう場所にも受け付けはある。
シンシアは、そこにいる人たちの目に入る前に腕を吊っていた布を外した。
退出のサインをして外にでる。
風に吹かれながら、セアラと歩いた。
どこへ行くのかは聞いていないが、セアラなら信頼できる。
けれど今のカイルには、前もって行き先を知らされても一人ではついていくのは怖い。
「ごめんなさい。」
セアラの言葉に、深い自責が含まれていた。
「私が調子に乗って、監査部を利用したりなんかしたから、大きな誤解が生まれてしまった。」
シアーズの件を父がどう考えたかを心配してくれているのだとわかる。
「自分でしようとしなかった私の責任よ。」
シンシアはそう返した。ケルター家の問題を知った時に、父に問い質すことの出来なかったのは自分だ。
「怖がっていた私のせい。」
気持ちが落ち込むと、体も重く感じる。
美しく整えられた庭を見る余裕もなかった。
「シンシア。」
声は大きくない。けれど決然とした口調で名を呼び、セアラが立ち止まった。
「これから、侍従長の所へ行って、オレンジの注文書をもぎ取って来るわ。一緒に行ってくれる?」
何より欲しい。
王太后さまの言葉が冗談でないなら、シアーズのオレンジは『王室御用達』だ。ケルター領でできるすべてのオレンジの価値が上がるかもしれない。
「行くわ。」
セアラの言葉に、シンシアは落ち込んでいる場合ではないと思い知る。
彼女はすぐに次の手に向かっているのに、シンシアが後れをとってはいけない。自分からセアラに頼むべきだったことだ。
「すぐに会えるの?」
セアラはいつもの少し悪い笑顔を見せた。
「執務室に押しかければいいのよ。」
「会って頂けるまで待つわ。」
自分も同じようにちょっと危険な笑顔になっている気がする。
それが少し嬉しかった。
自分の殻を破ってやる。
それくらいの勢いでやって来たのに、突然の訪問に、特に嫌みを言われることもなく、内宮へ入れてしまった。
内宮侍女のセアラと一緒だったからかもしれない。
侍従長にも待つことなく会えてしまう。
「オレンジの契約と注文書ですね。」
セアラがシンシアを紹介すると、年配の侍従長は目を細めてシンシアを見た。
「お若いのに感心いたしましたよ。」
それから、侍従長はわざとらしくため息をつく。
「セアラにも、ケルター嬢のように地に足をつけた行いをして欲しいものです。」
シンシアはちらりとセアラを見たが、全く気にしてはいないようだ。彼女は内宮で何をしているのだろう。
侍従長は、シンシアに対してはにこやかに対応してくれる。
「書類の準備は出来ていますよ。ただオレンジの名をお聞かせいただきたい。隣国の最高級『ガザ・オレンジ』に引けを取らないオレンジですから、こちらも負けない名を付けましょう。」
意気込まれて、少し迷った。
シンシアは『シアーズ・オレンジ』とするつもりだったのだが、安直すぎるだろうか。
王太后さまに見出して頂いたのだから、かの方のお名前を連想できるものを考えた方がいいかもしれない。
「シア・オレンジ。」
セアラだった。
「私はそう呼んでいます。産地シアーズと育ててくれたシンシアの名前から貰っています。私が知る限り、そういう名のオレンジはまだありません。」
彼女がシンシアに向かって微笑んでる。
公の席では丁寧に話すセアラの目が、そうしちゃいなさいよと催促している。
「覚えやすいですね。『ガザ』に対しても、優しくたおやかな印象を受けます。そうしましょう。」
シンシアが返事をする前に書き記された。
それでいいのだろうか、思わず縋るような目をセアラに向けたが、彼女は微笑んだままだ。
「ではお願いいたします。」
シンシアは、侍従長に差し出された注文書を両手で押し頂く。
「謹んでお受けいたします。」
四隅に飾り絵が入っている、王家に関わることだけに使われる紙だ。
王家から来る夜会の招待状以外では、見ることはないだろうと思っていた。しかも宛名は自分の名だ。
めまいがしそうなほどくらくらする。胸が詰まる。
食べるものに関することなのに、注文者が料理長でなく侍従長であることは、内宮の方の直々の思し召しとわかる。
そして、ふいに手の中の違和感に気付いた。
三枚ある。
落ち着いてと自分に言い聞かせ、最後の一枚を見た。
瞬間、目に湧き上がってきた波を必死で堪える。小さなリグルを思いだした、そして彼のために村の秘伝を明かそうとした人たちのことを。
もう一枚は依頼書だった。
『カレイド・ジャムのレシピを内宮料理人に明かすように』
ケルター領の小さな村の名は、きっと世界中に広がる。
「ご期待に添えますよう、急ぎ手配をいたします。」
従長に深く頭を下げた。
胸に勇気が宿る。これこそが褒美だとシンシアは思った。




