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俺は彼女を監禁する / 白銀の剣閃  作者: 清水
叛逆 〜 The Silver Ring and Swirling Black Doubts.
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LVNH//O//2038/04/15/10/18//TE-01/2021/05/22/FCE

「上が警戒しろって『例外』(インダルジェンス)に記載した要注意魔術師ってのは、コイツのことなのね。優梨も気を付けて、相手は一応、世界レベルの魔術師よ」

「世界レベルっていうか、公に認定された魔術師の中では世界最強、という肩書きを背負っているんだけどね、僕は。それでも、流石に港元市の魔術師と本気で殺り合うってのは、これが初めてだ。だから、幾ばく限りの焦りと恐れを感じているのは事実なんだが」


 港元市の誇る超戦力、氷雪の魔女の支配する冷気に満ちた魔術空間『氷霜凍獄界』(ニヴルヘイム)は、汞の洪水によって一掃された。公に認定された世界最高の魔術権威、フィリップ大総統の軌道させた対空間魔術だ。

 その豪雨の威力は凄まじかった。僅か三歩先に魔力の塊が降り注ぐ空間があったのだ、触れずとも全身が高密度の魔力の余波によってビリビリと叩かれた気がする。目の前を大型トラックが通り過ぎるような、そんな感覚だ。

 そして、その全身をビリビリと叩く感覚は今尚続いている。フィリップさんの頼もしげな背中から凄まじい覇気のようなものを感じるのだ。勿論、その覇気のようなものとは、ただの精神論云々の塊ではなく、魔力の塊だ。少なくともこの場は彼に任せてしまおう。俺が怠惰で腑抜けという事も勿論あるが、ここは我ながら優れた戦術的考えに至ったと思う。ルナも元よりその腹で時間稼ぎをしていたんだし。


「じゃあ、アンタが噂通り、国際連合主要機関『統一協会』(ユナイト)の大総統、フィリップ・エルヴェシウスということで良いのね。私は全然親切だから言っておくけど、四月十三日以後という制限が付いているし、そもそもの優先順位が低いにせよ、今回、私たちに下された『例外』(インダルジェンス)にはアンタの殺害命令が記載されているわ。だから、殺すわよ」

「全く、玲華ちゃんの転校のゴタゴタさえ済めば、僕は港元にとって用済みらしいじゃないか。にしても、殺害命令の優先順位が低いとは僕も舐められたものだ。これには僕も憤らざるを得ないな」

「全然そうでも無いわよ。寧ろ、アンタは港元の超上位の秘匿コードで匿われている私たち『公式軍』(オフィシャル)によって殺害命令が出されているのよ。アンタみたいに公に認められている、いわゆるアンダーグラウンドに属さない人間にとってはこんな厚遇、全然感謝してもお釣りがいくらでも帰ってくるレベルの奇跡よ。ほら、感謝したら?」

「裏でコソコソするのはもう止めたんだよ、僕は。まあ、今、裏でコソコソ港元の小間使いなんてやらされて、結局用済み認定されて、挙げ句の果てに秘密裏に殺されようとしているけど、さ」


 だが、フィリップ大総統の世界最強説が通用するのはあくまでも公の場だけだ。公の場所以外、つまり『統一協会』(ユナイト)の管轄外、矢吹の言葉を借りるならアンダーグラウンドに属する魔術師などはその範疇に入らない。

 いやいや、そんなアニメや漫画の中にしか存在しないであろうアンダーグラウンドの話なんて聞くのも恥ずかしいトウセキ並みの厨二妄想かもしれないが、その言葉を吐いた矢吹という魔術師自身がそういう存在だ。というより、港元市自体がアンダーグラウンドの塊だ。

 つまり、フィリップさん世界最強説はアンダーグラウンドの塊である港元市出身の氷雪の魔女や魔眼の魔女の前では通用しないということだ。この勝負、安直にどちらかが勝つとは断定出来ない。


「衛紀くんには言ったけれども、さっきの『氷霜凍獄界』(ニヴルヘイム)は末端の末端の出力よ。本来であれば空間に侵入した時点で全然氷漬け確定なんだけどね。でも、相手が『統一協会』(ユナイト)の長とも分かれば久々に全力の魔術戦が出来るわ。全然、後悔しないことね」

「ほうほう、好きにすると良い。因みに僕の先の魔術、『天の水門』(テンペスト)もその本来の出力を抑えに抑えている。本来であれば四十日と四十夜降り注ぐ雨を、たかだか二十秒程度で抑えているんだから。でも、お望みとあらば正しい使い方をしてやっても良いのだよ」


 さて、そんな似たようなセリフで互いを攻撃し始めた二人の魔術師だが、生きる世界の全く違う最強の魔術師同士の激突となりやがったものだ。見ているこちらがヒヤヒヤしてくる。彼らの軽口は、全て真実味を持っている。冗談と唾棄することが出来ない。しかも、矢吹については前回の刀剣の魔女との激突と違って、異常な程の殺意を冷気に変えて吹き出している。

 それもそのはずだ。矢吹は以前の戦闘に於いて刀剣の魔女を殺害しようとしてはいなかったが、今回は明らかに違うのだ。矢吹が言う通り、彼女らに下された『例外』(インダルジェンス)には港元市の捕虜として戦蓮社村に派遣され、その結果用済みとなった哀れなるフィリップさんに対する正式な殺害命令が出ているのだ。命令というか許可というか、そんなのが出ている以上、矢吹が手を抜く必要はない。とりわけ相手は公に世界最強の認定をされた魔術師だ。尚更、全力を尽くすだろう。

 バサバサと公園内の鳩の群れが騒がしくなり、揃いに揃ってこの場から飛び立つ。矢吹の凍えるような殺気から逃れるためであろう。そんな鳩の異常行動を見て目が覚めたのか、鳩の群れと同様に殺気を感じ取ったのか、ベンチで寝っ転がっていたオッサンも慌てて逃げ出した。もはや城址公園の駐車場付近には俺とフィリップさん、港元市の魔女の三人しかいない。

 にしてもあのオッサン、俺と矢吹の衝突(直接戦火を交えてはいないが、殺意自体は溢れんばかりに湧き上がっていた)があった時は寝ていたのか。一体全体、何という神経をしているんだ。鳩よりも先に逃げ出した厨二病患者トウセキとは正反対だ。鈍感にも程があるだろう。


「る、ルナさん……このまま俺たちも逃げて、宜しくて?」


 と、俺はフィリップさんとの合流の作戦を企てた張本人に意見を請おうと声を掛け、振り返ろうとする。そうだ、このまま昨日のレストランでの魔術戦のように強力な魔術師同士をぶつけ、その隙に乗じて雑魚魔術師の俺は逃げれば良いのだ。俺もあの鈍感なオッサンに続いて逃げ出したいのだ。

 俺が作戦の立案者の指示を仰ごうとするのは何も、俺が彼女の指示無しで逃げることさえも出来ないという、チキンとしての汚名さえも剥奪されるチキンな奴ということではない。これは彼女の策なのだから、分からないことがあれば立案者に聞くのが妥当な判断であろう。俺もここ数日の非日常を通して状況判断能力が身に付いたものだ。俺は言う程のチキンじゃないのさ。


「いけません、ご主人様! 動いてはいけません!」

「え、どうし……って、マジかよッ」


 バンッッッッッッッッ!!

 バシッッッッッッッッ!!


 狙撃だ。

 畜生、何が、状況判断能力が身に付いた、だ。早速、この有様か。

 再び視認不可能な赤銅色の金属片が遠方より高速で飛来し、足元の砂利を巻き上げて突き刺さる。今度は二発だ。錯乱状態にあった霧谷が態勢を立て直し、再び不用意に動いた俺を狙撃したのだ。矢吹もフィリップさんの強襲に際し、霧谷に注意を喚起させていたじゃないか。既に復帰していると考えるべきだった。

 俺が舌打ちをして自身の軽率さに後悔している最中、衝撃で巻き上がり、火花を上げて飛び散る砂利の破片の中心点に何か、歪な物体を見出した。中心点というのは言うまでもなく、クレーター、銃弾の着弾点だ。今は手前側の銃弾一発分のクレーターしか見えないが、恐らく、もう一発分のクレーターの中心点にも何かがあるのだろう。俺の発見した歪な物体は、確かに空気の摩擦やらその辺の力で赤銅色に変色した金属片なのだが、決定的に何かが違った。


 二発ともアンチマテリアル弾じゃない。

 これは全く別の金属片だ。通常の銃弾ですらない。


 着弾の衝撃によって小さい金属片は本来ある姿からやや変形し、摩擦による熱で所々が赤銅色に薄く輝いている。だが、それでも、俺はその変形した金属片の本来ある姿、その正体が分かった。分かってしまったのだ。

 俺は昨日のレストランのテーブル席、斜向かいに座るオッドアイを特徴とする魔術師、霧谷優梨の姿を思い浮かべた。彼女のルビーのように赤色の右目に琥珀のような金色の左目。そして、真っ直ぐに揃った銀の前髪と……斬新過ぎて、謎の髪飾り。

 

 突き刺さっている小さな金属片は、ただの、業務用クリップだ。

 そして、違和感の正体に対して唖然とした時にはもう、遅かった。


『…………遥、傘と鏡の用意を。座標は画面の通りに』

「……ッ、ぐ、な、何なんだ、これはッ!」


 もはや銃弾の着弾点とさえ呼べない、業務用クリップが生じさせたクレーターから突如として赤い光の筋が瞬き、赤色の筋はそのまま色を無くし、強烈な風を顕す。突風は渦を巻いて発生し、それは一つの竜巻となる。竜巻をモロに食らった俺は竜巻による上昇気流に飲み込まれ、数メートル程空中に投げ飛ばされ、数秒の内に砂利に勢いよく叩き付けられる。

 砂利に叩き付けられ、ボールのように地面をバウンドしている俺の視界に、瞬く第二の光を捉えた。今度はもう一つの着弾点で輝いているのだろう。第二の着弾点からは黒い光の筋が輝き、黒色の筋は何条もの無色透明な液体となって視界に顕れる。同時に条とも数えられた液体の形は最初に発生した竜巻によって形を崩し、やがて竜巻そのものを形とする。これは、水の竜巻だ。


『風』(ヴェントゥス)を意味する記号としての赤の色彩に、『水』(アクア)を意味する記号としての黒の色彩。っつうことは、これはエンペドクレス式の四大元素魔術か……!」


 黒の光から生じた無色透明の液体、それから竜巻と一体化した液体によってずぶ濡れになったフィリップさんは顔を拭い、忌々しげに呟く。彼は俺とは違って水の竜巻の直撃は水銀の盾で防いだらしい。だが、攻撃性を持った水の竜巻自体は周囲に水を撒き散らすと同時に即座に消滅し、ただ空気中に舞う異常な量の水分によってずぶ濡れになってしまったようだ。視界は良いものの、まるで重い霧の中にいるような感覚だ。

 彼の呟いたエンペドクレス式四大元素魔術は魔術世界の中ではポピュラー中のポミュラーな魔術だ。俺もフィリップさんに出会った(強襲された)晩にエンペドクレス式四大元素魔術の一つである『火』(イグニス)を用いた松明の魔術を使用していたくらいだ。ちょっと、五大要素で加工してあったけれども。

 であれば、未だに空気中を浮遊している異常な量の水分は魔術で生み出された現象ではあるが、H2O、いわゆる、ただの水だ。温度も冷たいし、粘度も限りなく少ない。皮膚も焼けていないし、溶けてもいない。というか、硫酸や王水なんかだったら今頃ここには阿鼻叫喚な光景が広がっていたのだろう。そういう点ではまだありがたいと言わざるを得ない訳だ。幽星体(アストラル)のルナは元より全く濡れていないが。


 だが、この場にはもう一人、殆ど水の竜巻を浴びていない人物がいる。

 港元市の魔女、矢吹遥だ。彼女は氷の傘を片手にクリスタルの瞳を細める。


「そういうことよ、流石は魔術権威と言われるだけあるわね。優梨お手製のクリップ弾には術式が刻まれているわ。つまり、それは一種の魔弾なのよ。だけど、今は全然それだけじゃないわ。さて、と、鏡の座標地点を挿入っと」


 矢吹が目を細めた視線の先、恐らく彼女は空中に映し出されているホログラムに表示された何らかの座標を確認したのだろう。霧谷が『風』(ヴェントゥス)『水』(アクア)を起動する直前で座標について何か指示を出していたからな。矢吹は氷の傘を風に流しながら、一回、トンと爪先で地面を小突く。

 そして、矢吹がホログラムで確認した座標地点と思われるこの公園内、その数カ所で、何かがバキリと鋭い音を立て続けに響かせながら姿を顕す。俺の目が確かなら、それは氷雪の魔女が生み出した氷、氷の柱だ。

 地面から突き立つ氷の柱の形状は丁度、この城址公園に入る時に見かけた何とか門跡の記念碑(要は石板だ。薄くて、横に面が広いものだ)を縦にしたようなもので、その統一された形状には数センチの狂いも無いように見える。芸術品のようにも見える程、滑らかで美しい。

 更に氷の柱は公園の駐車場付近一帯に乱立し、それぞれ別々の方向に平面を向けている。俺にはその氷の平面を向ける方向の意味が分からないが、きっとそれら一つ一つには何かしらの意味があるのだろう。さながら、光を特定のコースで反射させるために設置された「鏡」の向きのように。


「ええと、『これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々限りなく、わたしが立てる契約のしるしである。』だったかしら。というわけで、お次は聖書の問題よ。世界を滅ぼした大洪水の後に、神が人類との契約の徴とした物とは何でしょうか?」

「なッ、水の竜巻の目的は、そういうことかだったか……。だが、そうはさせるかッ! 大地を拭い去れ、『天の水門』(テンペスト)よッ、大地を洗い流せ、『破砕の淵』(コラプス)よッ!」

「うふふ、今更本気を出したところで、全然遅いわよ」


 セリフの内容だけは明るく、一方で酷く冷めきったセリフを吐いた矢吹はこちらに怪しい微笑みを向ける。俺は聖書の知識なんてものを持ち合わせぬ無宗教人なのだが、キリスト教圏に住まう西洋人のフィリップさんにはその答えが分かったらしい。しかも、その答えはどうやら絶望的な答えらしい。

 再び、しかし先とは明らかに魔力の密度が違う白い冷気が周囲を満たし始めると、フィリップさんが舌打ちをして魔術の起動を試みる。彼は昨晩も見た水銀の手袋を天に掲げ、同時に大地へ片足を思い切り振り下ろす。青白く広大な魔法陣が天と地に穿たれる。

 きっと、矢吹は冷気に満ちた空間そのものを支配する『氷霜凍獄界』(ニヴルヘイム)を、フィリップさんはそのような空間を豪雨によって丸ごと浄化する『天の水門』(テンペスト)(と、もう一つの魔術。俺にはそれが何の魔術か分からないが、『天の水門』(テンペスト)と似たような効果を持つ対空間魔術なのだろう)を引き起こすつもりだ。が、白い冷気は立ち込めようとも、先のような汞の豪雨は訪れない。豪雨の代わりに顕れたのは……。


「これは、虹、か……?」


 大量の水分が浮遊するこの空間に七色の明かりが一瞬だけぼんやりと現れると、乱立した氷の鏡が一斉に七色の明かりを拾い上げる。氷の柱はその平面を以ってして太陽光を特定の方向に反射すると同時に、刹那的な存在である虹をこの空間に固定化する。そう、決められた方向を向いている鏡の存在によって。

 始めに霧谷がクリップ弾とかいう余りにもふざけた魔弾(魔銃と同じように魔具の一種だ。普通は銃弾に術式が刻み込まれているんだが)を打ち込み、『風』(ヴェントゥス)『水』(アクア)の魔術を組み合わせた水の竜巻を発生させた。水の竜巻はこの城址公園内に於けるスプリンクラーとしての役目を持ち、水を撒き散らし、虹を意図的に発生出来る空間にしたのだ。

 後は簡単だ。霧谷の指示した座標地点に矢吹の設置した氷の柱が鏡のように太陽光を特定の方向に反射し、虹を生み出し、この場に固定したのだ。

 どうやら、霧谷の眼は虹という大気光学現象を引き起こすために必要な水の量や向き、光の量の向きだとかも視ることが出来るらしい。凡ゆる外界現象を計測、演算する事の出来る『人工的外界現(カリキュレ)象計測演算眼』(イトアイズ)の名に相応しい所業だ。


「あれ、馬鹿な衛紀くんが答えてしまったわ。でも、全然正解よ。『すなわち、わたしは雲の中に、虹を置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。』ってね。だから、答えは虹よ。それでは続きまして第二問、その契約内容とは何でしょうか?」


 魔女に突き付けられた二つ目の問い。矢吹が聖書の一節を諳んじたのを察するに、大洪水の後に神が人類、及び地上に生ける全ての生き物との間に交わした契約のことだろう。先とは違い、聖書を解さない俺でも、矢吹の出した第二問目の答えは分かった。何と言っても、フィリップさんの様子を見れば答えなど明白だった。

 フィリップさんが厳しい目付きで氷の柱や虹を睨み付ける。空間そのものを圧倒的な豪雨によって洗い流す『天の水門』(テンペスト)も、彼のもう一つの魔術『破砕の淵』(コラプス)も碌に起動しない。豪雨は愚か、雨という物も、水の一滴さえも降らないのだ。公園内にはただ白く冷たい霧が立ち込め、その中を縫うように虹が奔るだけで、それ以上の事は何一つとして起こらない。


「ああ、分かっているとも。答えは、神は二度と人類や他の生き物を滅ぼす洪水を起こさない、っていう契約だろう。ノア契約だ。神はその契約の徴として天に虹を置いたんだ。洪水伝説を原典とする『天の水門』(テンペスト)『破砕の淵』(コラプス)も虹によって封じられてしまった、ってことか」

「大正解。これは対空間魔術に対する一種の抑止魔術『誓約の虹霓』(コヴェナント)よ。『わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう』という一文が聖書にはあるわ。ジウスドラやウトナピシュティム、デウカリオンを始めとする大洪水伝説を原典とする対空間魔術はこれで封じたわ。無論、旧約聖書のノアの洪水についてもね」


 彼女のセリフの後に、フィリップさんの打ち込んだ天空と大地を揺蕩う神秘的で広大な青白い魔法陣が、七色の光学現象によってガラスのように砕け散った。その光景を見たフィリップさんは先と同様の手順で術式を打ち込もうとするが、その全てが無為に終わった。天や地に術式が顕れると、即座に虹の光が術式に侵食し、術式が粉々に破壊されるのだ。これでは魔術は起動出来ないぞ。

 昨日の俺と矢吹の魔術戦(と呼んで良いのかは甚だ不明なレベルではあったが)でも言及したが、魔術という現象は魔力も勿論必要だが、術式無しにはどうしようもない代物だ。術式とは言わば、魔術を軌道させるための設計図であり、取扱説明書であり、同時にリモコンでもある。そんな重要な役目を負う術式が破壊された以上、魔術はその末端の力さえも振るうことは(原理上可能だが、もはや魔術師の言うことも聞かない暴走状態の魔術だ。故に、現代の術式には術式が破壊されると同時に魔術を停止させる機能がある、って、昨日も言ったな)出来ない。


「いやあ、流石は港元帝国の学生さんだ。聖書、しかも旧約聖書の魔術にも秀でているとは、恐れ入った。仮にも大日本帝国を継承する国だ、第Ⅱ種魔術群(レリギオン)に関しては神道一辺倒かと思っていたよ」

「他国を圧倒せよ。これ、帝国の方針ね。帝国民ならば誰でも全然知っているスローガンよ。小学生の頃から骨の髄に叩き込まれたわ。他国を圧倒するにはまず、国という小さな枠から飛び出さなければね」


 他者を凌駕せよ。他国を圧倒せよ。

 あの市から逃げてきた俺でも忘れられないフレーズだった。

 魔術権威に上から講釈を垂れた矢吹は丁度一仕事終えたように首を振り、それに伴って栗毛色のポニーテールを左右に揺らす。そうして右足の爪先をトントンと叩きながら、特徴的な八重歯を覗かせて嘲笑う。

 彼女が一仕事終えたように振舞うのも無理もない。恐らくだが、既にここ一帯の空間は彼女の腕で満ちている。彼女の都合でほぼ無制限に肥大させ、増加させ、どこへでも現出させることの出来る腕、だ。このまま矢吹が気の向くままに手を払うなり、握るなりすれば、先の魔銃のように一捻りにされ、氷の中に閉じ込められてしまうぞ……。


「おいおい、フィリップさん、どうしたんだ。たかだか虹如きで魔術を封じられるなんて、世界最高の魔術権威の名が泣くぞ。さっさと冷気も虹も、全部洗い流しちゃってくれよ……!」

「そうは言ってもだね、衛紀くん。悔しいけれども、港元の魔術師はこの状況下における最善の手段を打ったんだよ。旧約聖書のエピソードの中には、豪雨で契約の虹を破るエピソードは記されていないからね」


 俺は不勉強な魔術師だから細かい魔術の原理は釈然としないが、フィリップさんの大洪水伝説を原典とする『天の水門』(テンペスト)『破砕の淵』(コラプス)は、矢吹と霧谷による同じく大洪水伝説を原典とする『誓約の虹霓』(コヴェナント)によって封じられてしまったらしい。聖書のエピソード通りに従って、だ。要は聖書のエピソードを、聖書のエピソードで返されたのだ。


「お膳立ては終わり。さて、じゃあ、殺害対象フィリップ・エルヴェシウスについては全然興味無いから殺しちゃうわ。衛紀くんは殺さずに氷漬けの刑だから、さっきの式神の依り代を持ってちょっと待っていてね。すぐ終わらせるわ」

「それは残念だよ、可愛いくて胸の大きい素敵な魔女さん。まあ、僕はさっき公園の外ですれ違った貧乳ロリの方が好きなんだけどね」


 妙にキザな口調で残念過ぎるセクハラ発言を吐いたフィリップさんは水銀に包まれた右腕を半開きにして真横に振るい、水銀のグローブから水銀の炎を灯す。熱量どころか、それが炎なのか、果てはそれが水銀なのかさえ判別が付かない。だが、その効果が絶大であることは昨日のロケットのような炎や、今さっきの豪雨で分かっている。フィリップさんの本気とは、この水銀の魔術を用いたものだ。

 しかし、水銀の炎を灯すだけならばあの晩でも見た光景だが、フィリップさんはその炎を更に長く長く延長させ、銀の揺らめきを完全に停止させた。その結果、水銀の手袋からは同じく水銀色の飾り気の無い素朴な、しかし、大層美しい円柱が顕れた。彼はそれを同色のグローブで握り込み、横一文字に構えた。

 構えられた細長い水銀の棒は、持ち主の身長よりやや高く、素朴な表面の余りの滑らかさから、さながらこの世のものではない印象を受ける。材質や滑らかさは全く違うものの、その威圧感はどこか、ルナが風呂場で用意したクレイモアと共通する何かがある気がした。


『…………遥、先の豪雨の魔術でも検出されたが、現在、殺害対象から莫大な量のコード99の放出を確認した。私の眼によれば、彼の顕した棒が放出を確認したコード99の本体。コード99は経験上、魔術でも物理攻撃でも絶対に破壊出来ない謎の構造物。気を付けて』

「はいはい、全然任せて頂戴、優梨。数年前の『ローマ事変』の時もコード99と思われる材質の所有者を生け捕りにしたじゃないの。優梨も見ていたはずだわ。だから、私なら全ッ然ッ、大丈夫よッ」


 矢吹が調子良く一人で頷き、組んだままの手で指をパチンと鳴らした。

 それが開戦の合図だった。その合図だけで、景色は歪む。さながら雨で濡れたガラス越しの景色を眺めているようだった。直後、ガラスの割れた音を大音量にしたような爆発音が轟き、彼女の支配下にある公園内には目視可能な鋭い氷の破片が飛び散る。周囲に植えられた樹木は氷の破片によってズタズタに引き裂かれ、駐車場にあった車は氷の爆発音の数秒後に音とも成らぬ音を上げて炎上し、砂利は爆心地を中心に大きく捲り上がり裸の大地を晒す。

 これは氷で出来た、いわゆるキャニスター弾だ。霧谷の打ち込んだアンチマテリアル弾や先のクリップ弾とは比較出来ない威力だった。

 氷の爆風の迫る視界を前に、俺は身体の損壊を覚悟した。が、目の前には大きな銀色の壁が矢庭に立ちはだかり、俺は氷の破片を食らわずに済んだ。守られたのは俺だけではない。俺の後ろに控えていたルナ、そして、汞の盾の術者本人のフィリップ大総統もだ。彼は正面に構えた汞の棒とグローブの接した位置、丁度、刀剣類で言う鍔の位置から盾、というより膜のような物を放射状に張ったのだった。

 膜、と表現するからにはその盾の薄さは紙切れ程度の薄さしかない。だが、その硬度は非常に高く、氷の爆発の衝撃が一切こちらには届かない程だ。薄っぺらいくせに、とんでもない堅固さだな。この公園内にある城壁なんかよりは確実に頑丈なはずだ。本当に色んな形にでも変形するよな、その汞。流石は『汞』(メルクリウス)、水銀の名を冠する魔術だ。


「まさかいきなり爆発系の攻撃が来るとは思わなかったもんだから、障壁の展開が遅れちまった。不死身の君にこんな質問は愚問かもしれないが、一応は衛世の息子だ、丁重に扱おう。怪我はないか、衛紀くん?」

「ありがとう、フィリップさん。俺は大丈夫だ。でもお前がいなきゃ、血に塗れた氷と肉塊の斬新で愉快なオブジェになっていたと思う。本当にありがとう」

「何、無事ならお礼なんて必要無いさ。それに、これはちゃんと時間稼ぎしてくれた君への感謝みたいなものだ。君は大船に乗ったつもりで待っていてくれ」


 彼はそう余裕そうに言うが、公園はたった一回の爆発によって戦場と成り果てていた。もはや砂利の敷き詰められた足場は一つの大きなクレーターと化し、そこには氷の破片が無限に突き刺さっていた。爆発の衝撃を受けて尚、変わらない物と言えば、汞の盾で扇状に守られた俺たちの足場と、鏡の役割を負った氷の柱と契約の虹くらいだ。全く、白い霧と虹とバカデカいクレーター、何ともファンタジックな戦場となったものだ。おぞましい。

 だが、忘れてはいけない。矢吹の『氷霜凍獄界』(ニヴルヘイム)は冷気に満ちた空間そのものを支配する空間魔術だ。たかだか二次元の域を出ない汞の盾など、通用するはずもない。即ち、汞の盾の内側、についてだ。


「くっ……やっぱりそう来たかッ! 障壁の反対側は、障壁そのもので相手の視覚には入らないから、行けると思ったんだけど、な!」


 汞の盾は先の氷の爆発を防いだが、それは汞の盾の向こう側で起こった爆発だからだ。盾は盾の向こう側の攻撃を防ぐが、盾のこちら側、つまり、盾の持ち主の背後からの攻撃は防ぎようもない。そもそも、盾とはそのように作られていない。三百六十度、亀の甲羅のように盾を展開しない限り、矢吹からの攻撃は防げないのだ。そうだ、矢吹は支配下にある空間のどの位置からも攻撃出来るのだから。

 フィリップさんは背後から顕れたであろう目に見えない冷気にぶん殴られ、前のめりに倒れ込む。彼も彼で優秀な魔術師だ、何とか冷気の直撃自体は花びらのように即時展開された汞の膜で防いだ。が、衝撃までは殺せなかったようだ。冷気の殴打の衝撃で彼はふらつき、動きが鈍る。

 そして、当然ながら、港元市の魔術師がそんな好機を逃すはずがない。フィリップさんは蹌踉めく足取りのままだが、その足元にキラキラと輝く動きを察知し、展開されていた汞の膜を一気に手元の棒に戻す。すると、汞の膜で覆われていた視界が開け、俺たちと対峙する氷雪の魔女が見えた。

 加えて、もっと好ましく無いモノも見てしまった。それは彼女の手に握られた無色透明の細長い西洋剣、即ち、氷製のレイピア。彼女は昨日の戦闘でも使用していた氷製のレイピアを横薙ぎに振るっていた。

 彼女の動きでフィリップさんは次に来る攻撃を完全に理解したようだ。彼は汞の棒を先の衝撃で禿げた大地に突き立て、蹌踉たままで棒高跳びの要領で空中へ飛び上がり、不安定な体勢を整える。汞の棒にはそういう使い方もあったのだ。

 すると、直様、彼女のレイピアの動きと連動した冷気の刃がフィリップさんの脚のあった位置を通り抜け、今度は空中へ飛び上がった彼の喉笛を掻っ切るように冷気の刃が振るわれる。フィリップさんは跳躍に使用した汞の棒を大地から引き抜く動作と共に身を縮めて空中で一回転し、振るわれた冷気の刃を躱す。続いて空中で逆さとなった彼の顔面を切断する第三の刃が彼を襲うが、彼は逆さの姿勢のまま、地面から引き抜いた汞の棒で横一文字に刃を打ち払う。

 しかし、冷気の刃による追撃、つまり、刃の動きと連動している矢吹のレイピアを振るう動作は止まる事を知らない。フィリップさんを立ち所に襲う冷気の刃の正体は、矢吹の振るうレイピアの斬撃だ。今までの冷気の動きは彼女の拳の動きに連動していたが、まさか彼女の武器の動きにまで連動するとは想像さえしなかった。

 彼女が休む間も無く振るった第四の冷気の刃は彼の後頭部向けて水平に振るわれ、ほぼ同時に第五の刃は大地から真上に吹き上がる。続けて第六の刃は丁度、逆さになったフィリップさんの脚の方向、つまり、上方から斜めにかけて放たれる。そして、最後の第七の刃は彼の身体の中央を貫穿するレイピアによる刺突そのものだった。

 つまり、現在、全てが致命傷に至る計四回の攻撃があらゆる方向からフィリップさんに襲いかかったのだ。加えて第七の刃、冷気の刺突を除いた三回の斬撃はいずれも彼の視界の外側からの攻撃だ。恐らく、彼の視界に入る冷気の刺突は最初三回の斬撃に対する陽動的な攻撃だろう。

 このまま行けば、まず、フィリップさんはフェイクである冷気の刺突に対処しようとし、その隙に頭を水平に寸断、それとほぼ同時に身体の芯に沿って真っ直ぐ切断、その次に身体が斜めに両断、トドメにフェイクである刺突によって串刺しにされるだろう。これは正に、空間そのものという三次元を支配する『氷霜凍獄界』(ニヴルヘイム)の特性を遺憾無く発揮した攻撃だ。これにはフィリップさんでも対応しきれまい、そう思わざるを得なかった。だが、


「僕が魔術権威であることを、忘れて貰っては困るよ」


 フィリップさんがそうぶっきら棒に嘯くと、汞の棒に異変が生じた。

 ズゾゾゾゾ、と、汞の何かが出芽したのだ。出芽、と表現するからには、汞の何かは汞の棒から生えているということになる。出芽した汞は細長く、棒の全長は愚か、フィリップ大総統の背丈より長い。しかも、その細長い何かの数は数え切れ無い程だ。百は無いにせよ、五十は軽く超えている。

 ここまでを考えると、フィリップさんの携える汞の棒から出芽した物体は触手か何かかとも思うが、それは違う。細長い汞の先端、その形は飛翔を目的とした形、翼だ。フィリップさんは五十枚以上の汞の翼を顕したのだ。

 だが、数多の翼、その全てが更なる異変を生み出す。


 それは、無数の眼だ。


 眼、眼、眼、眼、眼、眼、とにかく、眼球だらけだ。

 五十以上展開した細長い汞の翼、その翼の凡ゆる場所に無数の真っ直ぐな亀裂が生じたかと思うと、それはぐにゃりと歪み、線が裂け、ボコボコと泡立つように膨らむ。それが、汞の無数の眼玉だ。無数、そう、先の翼全てに沢山の眼玉が浮き出たのだ、その数はもはや先の翼の数、百や千どころではない。どんなに見積もっても一万以上はある。白目も黒目も無く、ただ汞一色の眼玉が。


「視界の外からの攻撃ならば、そんなものは無理矢理にでも視界に入れれば良いのさ。そのための、無数の翼と、無限の眼球だ。全て、悉くを打ち払えッ!」


 フィリップ大総統はそう鋭く叫び、体勢をぐるりと完全に一回転させ、元の姿勢に戻る。その短い過程の内で、無数の翼が完全に展開し、翼に浮き出ている無数の眼玉はギョロギョロと蠢き、矢吹の冷気の刃を全て視認する。そして、冷気の刃が汞の眼にロックオンされるや否や、冷気の攻撃は汞の翼本体や翼の羽ばたきによる突風で徹底的にぶった切られる。あれだけ絶望的と思われた冷気の攻撃は、それこそ翼が生じさせる風で吹き飛ぶ埃のようであった。

 なるほど、無数の汞の眼は全て、術式的意味を持った記号、或いはデザインや飾りなのではなく、本当に眼球なのだ。敢えて言い換えるのであれば、あの無数の汞の眼球は一つ一つの全てが視野を広げるためのフィリップさんの肉体の一部、彼の眼球そのものなのだ。

 魔眼の魔女霧谷優梨は眼球一個に様々な能力を持たせ、通常の人間の視覚以上の情報を視覚で取得するハイブリッドな眼球、要するに魔眼を持つ。他方、フィリップさんの汞の眼は一つ一つは魔眼とは程遠い通常の眼球、若しくはそれ以下の機能しか持たない粗悪な眼球かもしれない。だが、莫大なまでのその数を以って視野を広げるという一種の魔術に頼る眼球とは、広義に於ける魔眼の一種とも言えよう。無数の眼球という眼球群そのものが、一つの魔眼なのだ。

 恐るべき索敵能力を持った無数の汞の眼、凄まじい戦闘力を持った無数の汞の翼、それを生やした汞の棒をフィリップさんは完全に溶かし、今度は彼の身体に這わせた。背中から大量の翼を生やす彼はまるで汞の天使、というよりは、無数のグロテスク極まりない眼玉の群れのせいで悪魔のようにも見えてしまう。

 彼の余りにも異常な魔力の波を感じたのは俺だけではなく、矢吹や、恐らく遠方に控えているであろう霧谷もそうだ。殺気立った矢吹は更に氷製のレイピアを振るい、或いは突き、同時に空いた手の開閉を激しくする。その度に冷気に満ちた空間が唸るような轟音を上げ、フィリップさんはその悉くを滑空、時には飛翔しながら迎撃していく。圧倒的な破壊を齎す無数の汞の翼で。


「優梨ッ、翼の数と眼の数、直ちに計測! そこから天使の特定よッ!」

『両者計測完了。翼の数、三十六対、計七十二枚。眼球の数、計三十六万五千個。天使上級三隊第一階級熾天使(セラフィム)にして、第一のセフィラ王冠(ケテル)の守護天使である玉座に侍る者(メタトロン)の特徴と合致。天使の中では一級の存在、遥、気を付けて』

「上級三隊の階級に属する天使ってだけで全然アレなのに、その中の第一階級の熾天使(セラフィム)って……冗談じゃないわ。ああ、もう、次から次へと突拍子も無いものをッ!」


 港元市の魔女らはPHSを介して魔術権威の繰る魔術を暴く。彼女らの片割れ、魔眼の魔女は三十六万以上もの汞の眼玉を計測した割りには涼しい声で矢吹に警戒をする。どうやら、霧谷の魔眼には高速で動き回る翼、に付着した一万以上の眼球を数え上げる機能もあるらしい。とんでもないな。

 だが、悪魔のような天使(セラフィムとかいう名前を冠するのだ、どんな見た目であれ天使なのだろう)の翼を振るう彼への具体的な撃退方法には至っていないようだ。先の大洪水系魔術に対する虹のように、これを封じる効果的な魔術は無いのだろう。これは、行けるぞ。


「蠅のように小賢しく飛び回る天使の真似事をする羽虫め。一層のこと、地に縫い付けて、二度とその翼で空を飛べぬようにして差し上げるわ」


 矢吹の魔術もまた魔力の質量と密度が高まる。彼女は氷製のレイピアを手元でくるりと回し、勢いよく地に突き立てる。それと同時、天から地までを一直線に貫く冷気の縫針。耳を劈く轟音。身を竦ませる地の揺れ。地に咲く氷の大穴。衝撃破には何か肌をチクリと刺すような熱さがある。世界を引き裂いた冷気の縫針による摩擦だ。だが、汞の天使はそれにも動じない。彼は蝶々のようにひらりと躱す。

 当然、冷気の貫穿もそれに止まらない。魔女は片手で縫針を一本生み出しては地に突き刺し、両手で縫針を二本生み出しては地に突き刺す。その手は止まない。彼女は一心不乱に突き続ける。汞の天使が縫針を躱し、躱す度に世界には冷気の縫針が穿たれる。

 汞の翼は天から雷のように振るわれる縫針を優雅に躱し、時に叩き潰し、時に弾き飛ばし、時に包み折る。翼と冷気は甲高い剣戟の音を奏でる。両者の接点に白と黄色の混じる閃光を幾度も灯す。彼らの扱う魔術は剣のようだ。彼らはそれを互いに斬り結び合っているのだ。


「ふふ、あんまり上に行かれると 『氷霜凍獄界』(ニヴルヘイム)圏内から出ちゃうからね。どんどん、地上に引き摺り堕としてあげるわ」


 魔女が冷たく嗤うと、天使はそれを聞いていたのか聞いていなかったのかはいさ知らず、魔女の言葉通りに飛翔の高度を下げた。縫針の打ち振れる速度は大きい。そのまま上空にいては縫針を回避する隙が無いのだ。

 しかし、フィリップさんは地上に近付いた事を好機と捉えたらしい。彼は隙を見ては烈風を地上に叩き付ける。余りの突風に俺やルナの直立の姿勢が崩される。公園に植わる樹木が圧し折れる。疎らに散らばる砂利が舞う。だが、魔女はその程度では怯まない。ひたすら、縫針を地に穿つ。


「最高だね。ここまで刺激的で爽快な魔術戦も数百年振りだ。まあ、『無限眼の炎翼』(メタトロン)は少し抑制しているんだけど、さ。主に僕の優しさと虹のせいでね」


 圧倒的に優勢であると思われるフィリップさんではあるが、彼も少なからず苦戦しているようだ。彼は自身のトレードマークでもある白いトレンチコートに、数カ所程の赤い染みを作ったのだ。それ以降、彼はいつ如何なる場合も七十二枚の翼の内、数枚だけは必ず自身の身体に纏わせていたのだ。柔らかそうな外見を持つ防御だが、これは魔に満ちている汞製の一種の鎧なのだ。

 七十二枚の翼の展開域及び三十六万五千個の眼による視界域が上手に機能するならば、フィリップさんは数に物を言わせた戦いが出来る。広範囲に渡る敵の攻撃を凌ぎ、攻撃の届く範囲の全てを支配出来る。

 だが、いくら無限眼の視界の内側ではあったとしても、翼の展開域にはどうしても隙が生じる。それは、展開域の懐、内側だ。外側に向けて汞の翼を振るう事は出来ても、翼の展開域の内側から生じた冷気の攻撃は翼では容易には払い除けられないのだ。そんなことをすれば、最後、長大な翼は天使本体の身体までをもミンチにしてしまう。

 『氷霜凍獄界』(ニヴルヘイム)の女王である矢吹遥はそこを突いたのだ。何度も言うが、『氷霜凍獄界』(ニヴルヘイム)は冷気に満ちた空間という空間そのものを支配出来る魔術だ。空間内ならば、彼女はどこへでも攻撃の発射点を作る事が出来る。その特性を活かして、彼女はフィリップさんの操る『無限眼の炎翼』(メタトロン)の展開域の懐に小さな刃を設置しているのだ。フィリップさんは今や懐に潜む小さな刃の対処に神経を割かれつつある。

 それを一瞥した矢吹はにやっと嘲笑い、レイピアを振り下ろす腕の動きを止めた。その代わりに彼女は栗毛色のポニーテールをふわりと手で靡かせ、その流麗な動作の中に一本のレイピアを生み出した。そして、先とは何か違う、勝利を確信したようなクリスタルの瞳がフィリップさんを睨み付ける。


「そもそも、始めからこの空間は全然私のモノなんだから、アンタは私の手の内で抵抗している羽の付いた小さな虫に過ぎないのよ。さあ、意外な所から来る最後の詰めよ。自分の過ちを悔いなさい、フィリップ・エルヴェシウス」

「……ッ、し、しまったッ!」


 氷雪の魔女はレイピアを突如、真横に振るう。

 汞の天使の動きが、確実に鈍った。


 彼は急に、目を抑えたのだ。汞の眼ではなく、魔術製でも何でもない、彼自身の顔面にある眼球だ。何か、彼の眼球への攻撃があったのだろう。

 俺は始め、翼の展開域の懐から飛び出た冷気のナイフ、或いは矢吹の横薙ぎの一閃が彼の眼球を抉ったのかと思ったが、そうではなかった。元より、彼は翼の展開域の懐に気を配っていた。それこそ汞の鎧に身を包み、全神経を割く勢いだ。世界最大の魔術権威が細心に注意を払う以上、そんな関門を突破することは普通出来ないだろう。

 そして、だからこそ、彼はその攻撃を受けたのだろう。


 またしても、彼の行動を封じたのは虹だ。

 正確には、七色の光そのものだ。


 突然、虹をこの空間に留めていた氷の柱の一本、その一部が斜めに崩れ落ちたのだ。すると、崩壊した部位は新しい氷の面となり、当然ながらその新しい氷の面も鏡面としての機能を持つ。その結果、新しい鏡面は七色の光を拾い上げ、先とは違う方向へ反射する。その新たに反射された七色の光の行き先というのが、フィリップさんの眼球だったのだ。

 いや、反射されたと言うよりは、照射したと言うべきか。この氷の柱の崩壊から始まる一連の現象は単なる偶然による現象ではなく、緻密な計算に基づいた人為的な現象、もっと言い換えれば、これは氷雪の魔女矢吹遥による攻撃なのだから。矢吹はレイピアを横薙ぎに振るったのは、氷の柱を切断するためだったのだ。光の量や角度を計測したのは霧谷かもしれないが。

 つまり、彼の眼球への攻撃の正体、それは冷気のナイフどころか、何の攻撃性も持たない光の反射、ただの目眩ましだったのだ。あの晩、父が生み出した視覚を破壊するような莫大な光量も無く、先のように大洪水系魔術を封じる、と言った魔術的意味も含有されていない。本当に、ただの光だ。


「地に堕ちなさい、天使の真似事をした羽虫。いくら立派な翼で着飾って、私たち帝国民の上空を悠々と飛ぼうとも、所詮、帝国民以外の魔術師なんて全然害虫レベルなのよ。その不敬罪、まずは地に縫い付けて屈服のポーズで償ってもらおうかしら」


 一瞬の隙でも逃さぬ氷雪の魔女は上空で動きを止めた天使の翼を無理矢理に冷気の腕で掴み取り、一気に地上へ引き摺り下ろし、そのまま大質量の冷気の塊で押し潰す。低い位置には滞空していた彼だが、それでも空中にいたことには変わりはない。受け身も取れずに宙から転落させられた彼は真っ白いトレンチコートを真っ赤に染め上げる。汞の鎧は既に冷気によって剥がされていた。

 全身全霊を込めた汞のグローブで包まれた腕で起き上がろうとする彼だが、無駄だ。彼の身体の輪郭を模るように白い煙が吹き出し、その部位からカテドラル水晶のような氷の群れが生え始めたのだ。氷の群れは彼の身体を蝕み、地に縫い付ける。抵抗する彼の腕さえも氷に侵されている。あんな状態では動く物も動かせまい。矢吹の言った地に縫い付けるとは、こういうことだったのだ。

 よくよく考えればフィリップさんとの戦闘開始から一歩も動いていなかった矢吹は漸くその脚を軽やかに運び、氷製のレイピアを地に縫い付けられたフィリップ大総統の眉間に突き付ける。


「うふふ、その無様な姿、害虫にはお似合いよ。全然情けないわ、本当にね」

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