LVNH//O//2038/04/15/09/43//TE-01/2021/05/22/FCE
水没したスマホを蘇生させた俺とルナ、それから頭が狂った厨二病患者のトウセキ(コイツは勝手に着いて来ただけだ)はひとまず場所を移すことにし、近くにある小田原城址公園へ向かった。駅から徒歩十分圏内だからな、充分歩いて行ける距離だ。
この公園は観光客こそ多いものの、彼らは皆、今か今かと全ての花弁を散らそうとする桜を始めとした美しい自然の景色や、十五世紀頃に建設されたという歴史深い北条家の居城に夢中だ。ブレザーに和服、ゴスロリとかいう多少ヘンテコな格好した集団がいても、彼らは一秒もこちらに気を向けないだろう。
加えて、今はもう四月中旬、しかも平日だ。もはや観光シーズンですらないのだ。公園内には余程の城マニアか散歩の爺さん婆さんくらいしかいない。ここならディスカウントストアの目の前よりは人の目から避けられるだろう。
「な、何が暗黒微笑だ。ふざけないでくれ……!」
手が無意識に震え、口腔内は砂漠のように乾いてパサパサしてくる。心臓の鼓動が耳の真横で響いているかのような音を上げ、目を突き抜けた先にある脳の奥がジーンと熱くなる。
身体の異常な反応を感じて漸く、俺は目の前の薄っぺらい画面に映る現実を理解した。いや、現実への直視は出来ても、現実への理解には到底追い付きそうも無い。無理だ。意味不明だ。
だから、今、理解の及ばない現実への不安を抑えるように、無様にも震える声で疑問を世に放つ。
「これ、どういうことだよ。アイツは、藤原衛世は、俺の父さんは、まだ、生きているというのか?」
「……ッ。その、ようですね。私は瀕死状態の衛世様の頼みを聞き、最期を看取ってからご主人様の元へ参上しました。彼は確かにご逝去なさったはずなのですが……」
「衛世の野郎のスマホが家のどこにも無いと思っていたが、まさか本人が持っていたなんて、想像出来ないだろう。普通。っつうか、あの状況で衛世が生きているとさえ思わないぜ、畜生」
俺の有能で聡明なメイドのルナにとってもこれは予期し得無い事態であったらしい。俺の震える手に握られたスマホの画面を覗き込んだルナは一瞬、昨日の魔術師との戦闘の時でさえ見たことも無いような焦り顔になった。
少々言い方は悪いが、彼女はまるでこの世界で死んだはずの藤原衛世が生きていてはならない、藤原衛世が生きているのはオカシイ、そんな強迫観念のような物に従っているかのような深刻な顔をしたのだ。それも当然だろうな、鏡が無いから自分では分からないが、俺もきっとそんな顔をしているのだろう。
だが、それは一瞬の話で、何かこのメールの真意を汲み取ったようなルナは頷き、落ち着いた面持ちを取り戻した。そして、エメラルドの瞳で電子の羅列を浚い、重要な問題点を突いた。
「しかし、このメールを澄鈴様が、つまり、セキエイシステムが受け取った時刻が昨晩ですから、現在の時刻において衛世様の安否は不明です。彼はこのメールにおいて、危機的状況にあると書いていますし……」
この突拍子もないメールに面食らっていたルナだが、もう通常運転に切り替わっていた。何度見ても器用な奴だな。俺の隣で思案に耽る彼女は、昨日も見た有能で聡明な彼女だ。
ルナの言う重要な点、それは、メールの受信時間だ。俺でも気付いたという悔し紛れの一言を添えておきたいが、これは案外重要な点だ。
「昨晩、つまり、メール受信時は生きていたとしても、現時点においては生死不明、ということか。このメールでは『アイツが狙っている』って言うしな」
俺は自身の壊れた携帯に直接父からのメールが無いかを確認したが、父から送られたと思われるメールはセキエイシステムに送られた先の一通のみだ。それ以外の未受信メールは全部燎弥からのものだ。
衛世という男はルナ同様、妙に見透かしたような奴だからな、俺がスマホを水没させ、仕方なく自分の自作パソコンを使うということを全部分かった上で、澄鈴、もといセキエイシステムにメールを飛ばしたのだろう。
そもそも、セキエイシステムは父の形見である銀の指輪の使用が大前提となるものだ。父はそれさえも最初から見越してこの形見も寄越したのだろう。
「はい。この文面における『アイツ』というのが、果処無連続斬殺事件の犯人、斬殺魔の事であれば、犯人は昼夜を問わず果処無や斬殺事件に関わった者を殺害すると想定されます。衛世様は斬殺魔に追われているのでしょう。辻褄は合います」
「果処無連続斬殺事件と、斬殺魔、か……」
一応、そう、なるな。父は最期の最期まであの斬殺魔と戦っていた。
そして、俺とフィリップさんの見立てが狂っていなければ、斬殺魔は彼の本来のターゲットである果処無村の村人たち、それから自身の犯行現場を知った者たちを殺害対象とする。
斬殺魔と交戦していた父親は残念ながら、後者に属するということになる。であれば、父が斬殺魔に追われている可能性は高い。
更に、この説はもう一つの現象への裏付けにもなる。それは、俺やルナが驚く程、斬殺魔に襲われていないということだ。
あの晩から数日経つが、あれ以降俺を襲ってきたのはあの女か港元市の魔術師くらいであって、斬殺魔は俺たちの前に姿を現していない。良いか、父親と同じく先の斬殺魔の殺害対象、その後者に属する俺(ルナも後者に属するかもしれない。父の最期に立ち会ったというのだから)だが、斬殺魔から直接的であれ、間接的であれ、攻撃を受けていないのだ。
何が驚きかって、これは、村の入り口に設置された鳥居の付近で殺害された新聞記者や県警という例を踏まえると実におかしい現象なのだ。彼らは果処無の村人でも何でも無い、職務上あの村にいる必要があっただけの人間だ。斬殺魔が彼らを殺す動機は、斬殺魔による証拠隠滅、そう俺とフィリップさんは考えているのだ。新たな真実やら謎やらが無い限り、な。
さて、ここで藤原衛世存命説の登場だ。つまり、斬殺魔が複数存在しない限り、あの晩、俺がこの目に焼き付けたあの斬殺魔は生き残った我が父親の殺害に集中し、俺への攻撃に割く時間が無い、ということになるのだ。これならば俺たちが斬殺魔による攻撃を受けていない事への説明が出来る。とは言え、あの晩以降の斬殺魔の殺害ターゲットは俺の父親ではなく、フィリップ大総統に絞られていたという可能性も捨てきれないという点もあるのだが。
以上の説や理由なんかを考えると、藤原衛世存命説は有り得なくもない、そんな結論へ辿り着く。まあ、父が生きていて欲しいという俺の当たり前過ぎる希望が半分、いや、九割以上混じっている説なんだけどね。
「私はご主人様や衛世様の言う『斬殺魔』という者を見てはいないのですが、斬殺魔はどのような力をお持ちなのでしょうか? 思い出せる範囲で良いので、教えて下さるとありがたいです」
「あれ、てっきりルナは父の最期に立ち合ったというから知っていると思ったよ。ええと、まず、アイツのトレードマークとも言える日本刀による斬撃だ。それから、魔的な力と言えば目に見えない何かを操っていた。質量のある何かだ。こう、上から思いっ切りプレスされたりしたんだ。思いっ切り、な」
「そうでしたか……現時点では何とも言えませんが、目に見えない攻撃とは対処が困難ですね。確か、あの晩、玲華様も目に見えない攻撃を扱っていたようですが、何か関係あるのでしょうか……?」
「そんなのどうでも良い。とにかく、斬殺魔は強力な魔術師で、恐ろしい剣術使いだ。港元市の魔女共同様に、警戒対象に入れるべき敵だ」
但し、仮にも藤原衛世存命説が正しいのなら、俺は港元市の氷雪の魔女、魔眼の魔女の両名を斬殺魔よりも警戒レベルとしては上に据え置く必要があるのだ。父が生きているというのなら、斬殺魔は俺ではなく、父の抹殺に尽力しているはずだからな。
いやはや、斬殺魔の警戒レベルを格下げするというのも何だか、元々はあの斬殺魔による果処無斬殺事件から始まった一連の事件だと言う割には実に本末転倒チックな展開ではあるな。
だが、それもやむを得無い。この事件は果処無斬殺事件を発端に始まり、闇に包まれた謎の儀式の存在、フィリップ大総統やルナの闖入、問題の中の最も大きな問題である港元市の権謀術数及び暴力によってこの事件は「この一連の事件」と形容せざるを得ない程の大規模な事件の域に達しつつある。
このように臨機応変に対応しないと爆乳の魔術師やオッドアイの魔術師、それと、あの女にうっかり殺されかねない。殺されることは体質上有り得ないのだが、とりわけ、あの女に関しては俺を殺さずに殺せる技、麻痺毒の存在を知っている。アレは、危険だ。絶対に使わせてはならない。
と、あれこれ言わせて貰ったが、事件の進展が何であれ、俺はこの事件をルナと共に止めてやるつもりだ。それは、ルナと出逢ったあの運命の夜明けから決めていたことだ。ルナを、ご主人様である俺が守るのだ。
しかも、あの晩、死の間際にあった父にそう頼まれたからな。
「驚異的な剣術に、質量のある見えない何かを扱う斬殺魔……。現時点でこちらを確実に狙っている訳ではありませんが、一筋縄では行かないようですね。そして、一筋縄で行かない敵が衛世様と連続的ではないにせよ、断続的に戦っているというのなら……」
「今度こそ、殺されてしまうかもしれない。いや、このメールを受け取ってから少なくとも五時間以上は経っているから……ッ」
タラリと冷や汗がこめかみから頬の辺りをなぞると、俺はスイッチが入ったかのように身震いし、弄っていたガムテープだらけのスマホを素早くメーラーの画面へ切り替える。切り替えた後は、簡単だ。俺はひたすら文字を打ち込んだ。
そこから先は、我ながら本当に驚く程の神業だったように思う。俺は父へのメールを数分で完成させた。俺の必死さに隣で背伸びして城を眺めていたトウセキは若干引いていたかもしれないが、今は、一秒たりとも無駄には出来なかった。
俺が九頭龍湖で目覚めたこと、そこで俺がルナに出会ったこと、フィリップ大総統も無事であったということ、港元市の魔女たちがこの一連の事件に噛んでおり、俺とルナは彼女たちと戦火を交えたということ、衛世が完成させた電脳間脳少女と知り合ったということ、そして、俺はこの事件を追っていること。
俺は衛世があの光の剣を世界へ突き立てた後に起こった出来事の全てをメールに打ち込んだ。俺の知っていることも、俺の考えていることも、今後の予定も、何もかも、全てをそこに打ち込んだ。
衛世の無事を確認したいという欲求と同時に、俺は今まで経験してきた非日常を一刻も早く父へ伝えたかった。俺は父に褒められたかったのだろうか。心配されたかったのだろうか。厄介事を父に押し付けたかったのだろうか。答えは分からないが、結果は同じことだ。俺は一心不乱に文字を打ち込み、気付けば送信ボタンを押していた。
「指が、痙攣しちまったが、これで衛世にこちら側の報告は遅れたはずだ。後は衛世からの返信を待つだけだ。それまでスマホの寿命が持つか、だな」
「お、おい、小僧。さっきから何の話をしているのだ。余に分かるように説明しろ。良いか、これは真紅桜闇の化身と言われたフリュギア王国のゴルディアス王……つまり、我が父の、娘たる余からの勅命である。逆らうことは人の身にある汝には許されている行いではない。直ちに説明せよ」
「黙れ、厨二病患者。このメールには書いてあるんだ。誰にも知らせるな、ってな。まあ、大切な彼女には教えて良いって書いてあるけど、少なくとも、絶対にお前じゃないから教えてやんねー」
父からのメールの条件(衛世が言うにはスポンジ並みに柔らかい約束)に記された「彼」ってのは多分、父の大親友である「フィリップ大総統」のことだろうな。「彼女」っていうのはどう考えてもルナだ。俺にとって最も大切な彼女とはルナに決まっているからな。
あ、いや、ここ最近で「彼女」と呼ぶべき人物には多く遭遇したが、港元市の魔女共は論外として、澄鈴が大切じゃないってことじゃないぞ。かの電脳間脳少女は俺やルナよりも先にこのメールを受け取っているから除外しただけだ。勘違いしないでくれ。それに、ルナはもうこのメールの内容見ちゃってるしな。
「相変わらず、身分を弁えぬ小僧だな。真紅桜闇の化身であるゴルディアス王の娘である余から予言させてもらおうか。汝はそう遠くない未来に魂を喰われるぞ。良いか、これは絶対だ」
「そんな安っぽい脅し文句になんか乗るか。何が、魂を喰われる、だ。予言しているお前自身が喰いに来るってことだろ、喰魂姫め。そういうのは予言って言わない。予定だ。しかも俺は死なない。これも、予言じゃなくて予定だ。っつうか、邪魔だ。どけ」
「余に魂を喰われて死なぬ人間などおらぬ。余の権能はそういうものだからな……って、押すなし、押すなし! んひゅうううう!」
俺はたかだかメールの返信をしただけで息を切らしていたが、一度終わってしまうと、その果たしたぞ、という感覚が全身を異常に気怠くさせた。俺はこの身に残る力のほぼ全てを尽くしてベンチに座っていたトウセキを母なる大地に叩き落とし、ぐでんと横になった。これで回復マス獲得だ。
足元でうつ伏せになったダスターコートに包まれた芋虫系彼女は頭を打ったのか演技なのかは知らんが厨二病患者宜しく頭を片手で押さえ、起き上がると同時に今度は片目を漆黒のシルクの手袋で押さえた。そして、片目を押さえたままで一流の役者でも出来ないであろうとんでもないシリアス顔をして俺を睨み付けた。これぞ厨二病。
だが、厨二病の綻びが多い彼女の割りにはその演技力はやけに本物の気がした。ちっとも怖くないけどね。ロリの睨みつけなんて。
まあ、多少の評価はしてやらんこともないぞ。俺、マジで一瞬だけ見えた彼女の鋭く怪しい眼光には身を竦ませてしまったり、竦ませてなかったりだからな(ロリにメンチ切られてビビってしまった、なんて恐れ多くも俺の口からは言えないのだ)。
「地に伏せ、喰魂鬼のトウセキ。厨二病患者如きが人間に勝てると思うなよ」
「ん、んひゅう……頭、痛いんだし。ビビビッって来たんだし……。じゃ、じゃなくて、小僧、よくも余を見下してくれたな! 余はッ、人間が如き下位な存在にッ、見下されるのがッ、大嫌いなんだッ!」
横向きになった視界には、こちとら生死を分ける戦いをしているというのを嘲笑うかのようなありきたりな日常が広がっていた。太陽はのほほんと東の空から現れ、その朝日が真白に塗り上げた城へと賑やかな老人の御一行が向かって行く。斜向かいのベンチでは俺と同じ姿勢をしているオッサンがパン屑を撒き散らし、鳩の群れは我先にとパン屑を啄んだ。
そして、視界の真下(横になっているから、右端か)には俺をベンチから引き摺り下ろそうとする錆びた金髪を特徴とする幼女がいた。さっきのシリアス顔はどうしたんだ。あと、頼むから砂塗れの汚いシルクの手袋(彼女にシルクなんて高級な代物、勿体無い!)で俺のブレザーを触らないでくれ。
「お疲れ様です、ご主人様。ご主人様はこちらで暫くお休みくださいませ。澄鈴様が転送なされたデータに関しては私が調べます。その、昨晩のように酷い内容ですと、ご主人様は更にお疲れになってしまいますので……」
「うっ、いや、大丈夫だぞ。父さんからの返信は一秒でも早く読みたいし、俺のスマホにはいくらメイドのお前にも見せられない秘蔵の燎弥セレクションが……って、画像データは綺麗に吹き飛んでいるのか。最悪過ぎる」
この世には神も仏もいないらしい。道理で壁紙が真っ黒なワケだ。
本来ならば十年代に隆盛を極めたブラウザゲーに登場する俺の愛して止まない金髪碧眼に眩しい笑顔、肩が凝ってしまう程の巨乳、加えて黒ストで包まれた巨尻を持つ帝国海軍の重巡洋艦が壁紙に映し出されているはずなのだ。毎晩のおかずである燎弥セレクションは勿論だが、俺が個人的に集めてきた嫁の画像をも再びこの手で集める必要があるらしい。厄介なこった。
俺が嫁を取り返すための新たなる戦いに思いを馳せていると、何となく、我が愛しき二次嫁の持つ特徴が、我がメイドのルナにそっくりな気がしてきてしまった。明朗快活な笑顔、けしからんおっぱい、そして、このお尻が……。い、いかん。忘れろ。別のことを考えろ。
「父さんこそ、昨晩の内にスマホ壊してないだろうな。まず、スマホなんかより父さんが無事であることが前提条件なんだけどさ。どう思うよ、ルナ」
「何事も無いと良いのですが……こればかりは、私でも判断しかねます。手元に何の証拠もありませんからね。衛世様が無事であるという過度な期待は出来ませんが、衛世様ならば何とかなるでしょう」
ルナは少し歯切れの悪い返事をし、僅かに目を伏せた。ルナは聡明で、丁寧な人間だ。彼女の発言で俺を勝手に期待させぬよう、気を配っているのだろう。ルナはもし、これで本当に衛世の身に何かあれば、俺が今よりも、あの晩よりも悲嘆に暮れると分かっているから。
だけど、それでも、どうしても俺は父の生存を望んでしまうのだった。だって、仕方ないだろう。それが、残された息子としては自然で、当然な感情であるはずだ。惨過ぎる最期だったのだ。もう少しマシな最期でも良いはずだ。
あんな、得体の知れない斬殺魔。その手に握られた黒金の刀身に、白銀の剣閃。血に濡れた一振りの日本刀は、彼の殺意そのものだった。父は、俺みたいな不出来な息子を守るために日本刀の、斬殺魔の殺意の餌食となった。
「でも、俺、何であの時、都合良く意識が落ちて、滝なんか遡って行っちゃったんだろうな。ええと、あの時ってのは、父が魔術で生み出した光の剣が地上に突き刺さった、あの瞬間だ」
「突然どうなされたのですか、ご主人様? 衛世様からはご主人様は大役を任され、普段はお使いにならない程の魔力を行使したと聞いております。ご主人様がお気を失われたのは、魔力の急激な活動によるお身体への負担かと……」
「んー……。いや、それもあると思うんだが、何か、違和感があの晩以降あるんだよな。フィリップさんの魔術で九頭龍川が遡ったってのも、良く考えると相当シュールなワケでして」
ダメだな。何を言いたいのか、ルナに伝えられない。
魔力の急激な活動だとか、川の氾濫だとか。そうじゃないんだ。
そもそも、俺自身も漠然と何を言いたいか、何を考えているか理解出来ていないのだから当然だろう。コミュニケーション能力が無いというのは勿論、事態を把握する理解力も死滅しているらしい。
これから言うのは正直、ルナに言うのも恥ずかしいことなのだが、俺は衛世存命説がそれなりに信頼出来ると考えているのだ。だがそれは、俺のそうであって欲しいという願望によるものだと皆口を揃えて言うだろう。それも仕方ない。実際、そういう面も大いにある。
だけどな、俺は今、気付いてしまったのだ。凄く当然で、在り来り過ぎることだ。寧ろ、それどころか、自分がどうして藤原衛世存命説に辿り着くことなく、勝手に彼を死亡扱いしてしまったかが分からなくなる。俺が馬鹿で、阿呆過ぎるせいだけだろうか。
それは、つまり、衛世存命説への裏付け、というよりは、その逆。
衛世死亡説への反例、というよりは、その根底を覆すことだ。
俺は、自身の父である藤原衛世の死体さえも確認していないのだ。
何故かって、言うまでもない。それは、俺が都合良くあのタイミングで意識を落とし、都合良く俺は水流を操作する魔術を維持出来なくなり、都合良くフィリップさんの魔術が暴走し、都合良く俺は逆流した九頭龍川に飲み込まれ、都合良く九頭龍湖に打ち上げられた。
都合良く、なんて、それこそ考えてしまえば考えるだけ収拾の尽きそうにないことだが、この都合の良さの連続は異常な気がしてしまうのだ。だって、これじゃあまるで、
》》 The Authority : type “DELETE” from The Levenah Librarian 《《
》》 type “DELETE” : Subject to Deletion “FROM” 《《
都合良く、俺が藤原衛世の死体を確認出来ないように、確認する隙を与えないように、俺たち藤原親子を分断したみたいじゃないか。
あんまり考えたくないが、そう考えるのが、妥当じゃないだろうか。いや、そう考えるのが妥当だ。まるで、藤原衛世が死亡しなくてはならない、藤原衛世が死亡している運命にならなくてはならないという、陰謀めいた何かについてを。
》》 type “DELETE” : Subject to Deletion “TO” 《《
バツッッッッッッッッン!!!!
い、痛…………ッ。
な、何だ、この凄まじい衝撃……いや、凄まじい違和感は。
頭が外側からの電撃、いや、もっと単純な圧力だけで圧搾され、脳そのものが炸裂するような強烈な違和感だ。スタンガンでも浴びた方がマシなくらいな衝撃だ。何なんだ、今の衝撃波を伴う違和感は。
だが、困ったな。これを他者に説明しようにも、良い具体的な例が思い付かない以上、俺の経験した感覚をひたすら芸も無く単調に供述し続ける、という説明方法を取るしか無い。まずは、そうだな、
》》 The Authority : type “EXTRACT” from The Levenah Librarian 《《
》》 type “EXTRACT” : Subject to Extraction “FROM” 《《
》》俺の《《与り知らぬ他所からの精神干渉系の妨害でもあったのだろうか。どうやら、》》思考《《自体が、途中で消滅したような……気がする、とでも言おうか。消滅というより、意図的に消去、削除されたとでも言うのだろうか。人間に》》は絶対に《《逆らえぬ力、例えば、世界の支配者、運命を司る者、或いは神の手によって。
まだ、説明し足りないな。どうにも》》正し《《く言語化出来な》》い。《《そうだな、その逆らえぬ力とやらによって、藤原衛世が死亡するという運命が無理矢理に、絶対的に「そのように」確定されてしまっているようなのだ。そして俺は、》》その運命の確定は《《どうしても、》》絶対に正しい《《、としか感じないのだ》》。今、俺が体験しているこの運命こそが絶対的な正しさを持っており、《《そこへ疑問を抱くことが》》絶対に《《できないのだ。いや、意味が分からないのは俺も重々承知しているからな。
》》俺の父はあの場で《《は》》死んで《《はおらず》》、生きてい《《るのでは》》ない《《だろうか》》。俺の父は《《殺されているなんて、有り得ないだろう。俺の父は未だに》》あの斬殺魔《《と戦いながらも生き残っている》》に《《違いないだろう。俺の父が》》殺され《《ているはずがないんだ。今までの事が嘘だっ》》たのだ。俺《《に》》は、そういう風に考えて、信じて《《、今の運命に対して疑問を投げかける事が出来ない。この運命によって禁止されて》》いる《《のだ》》。《《
やはり、》》この現象《《は何と》》も《《表現し難い。愚鈍でナンセンスな》》俺《《には》》も《《う、運命の支配者やら神だとかいう胡散臭い存在によって運命が》》絶対《《的》》に《《捻り潰され、捻じ曲がり、》》狂って《《、無理矢理歪な方向へ確定させられて》》い《《たとしか表現出来》》ないのだ。《《
》》 type “EXTRACT” : Subject to Extraction “TO” 《《
》》 type ”EXTRACT” : Extraction Results “FROM” 《《
俺の 思考 は絶対に 正し い。その運命の確定は 絶対に正しい 。今、俺が体験しているこの運命こそが絶対的な正しさを持っており、 俺の父はあの場で 死んで 、生きてい ない 。俺の父は あの斬殺魔 に 殺され たのだ。俺 は、そういう風に考えて、信じて いる 。この現象 も 俺 も 絶対 に 狂って い ないのだ。
》》 type ”EXTRACT” : Extraction Results “TO” 《《
「……お、俺は、正しい。運命は正しい。父は、生きて、いない。殺され、た」
「ご、ご主人様、大丈夫ですか? お身体の調子が優れないのでしょうか、お顔が真っ青でございます。昨日の脚の疲労や麻痺毒が残っているのでしょう。もう、本日の活動は中止しましょう……!」
「ふむ、なるほど。枕の下に手を突っ込むという行為こそが、俺の起源、だったと言うのか。そうだったのか。今、漸く心得たぞ」
今は父の生存説については考えないようにしよう。考えても不安になるだけで、事態が良くなることも、悪くなることもない。つまり、時間の無駄なのだ。
だから俺が何てこともない、それこそ午前中の公園内に広がる光景にはお似合いな程どうでも良い思案にくれていると、ルナは顔を覗き込み、必死な声で俺の安否を訊ねる。おお、そうやって身を乗り出すと彼女の白い胸元がじっくりと。
しかし冗談は良いとして、寝不足ってのは実際にあるのだが、ルナにそこまで心配される理由が良く分からなかった。彼女がいつでもご主人様である俺に対して一生懸命なのは分かっているつもりだが、俺、今、そんなに酷い顔をしているのか? それはちょっと、俺自身も気付かぬ病かもしれない。
あ、でも、俺のブレザーを引っ張ってくるトウセキとかいう厨二病患者はちょっと何とかして欲しいかもな。摘み出してやってくれ。その砂だらけのシルクの手袋、それでブレザーを汚くしないでくれ。
「ん? 俺は大丈夫だよ、ルナ。ちょっと、考え事をしていただけだ。何を考えていたかは忘れたが、ほら、ええと、澄鈴が転送してくれたページだ。ほら見ろ、またオカルト板だ。うげえ」
「本当に何も無かったのでしょうか……。どうかご無理だけはなさらないで下さい。先ほど、ご主人様は頭を酷く押さえていましたから、頭痛でもあったのかと」
ルナは余程、俺が心配らしい。彼女はエメラルドの瞳で俺の全身を隈無く名観察し、ご主人様に見られる一ミリ程の異変をも察知してやろうという徹底されたお仕事振りだ。そんなに丁寧に女の子に見られるのは、恥ずかしいな。
俺は何というか、頭痛は勿論、胃痛や腹痛、咳もくしゃみも、ささくれさえも無いのが逆に申し訳なく思った。こんな時には気の利いた一発の鼻血でも出してやれば良かったのだが、残念ながらそういうのは直ぐに治ってしまうのだった。
「頭痛だと? ああ、確かに、比喩としては頭痛とはまた一番しっくり来る表現だな。これだよ、澄鈴がまたオカルト板を送ってくれたんだ、コトリバコ、ってヤツだ。まったく、本当に頭が……ん、あれ?」
俺が軽く懸念していたスマホの画面上部右端、そこに記されている「46%」という決して頼もしいとは言えない電池残量の数値が、急速に減り始めた。電池残量の衰えは意外に早く、俺が気付いた時には電池残量は二桁から一桁となり、表示されたばかりのオカルト板を表示していた画面からは輝きが失われた。
おかしいな。俺はスマホの裏面、ガムテープだらけの面を叩くが、うんともすんとも言わなくなった。おいおい、またスマホ死んだぞ。何度死んでいるんだよ、死にたがりのお年頃なのかな、メンヘラスマホさんよ。
だがなあ、いくらお前がメンヘラ決めようとするのはお前の勝手かもしれんが、今回ばかりは真面目に困るんだ。このスマホを復活させるためだけにどれだけの時間と労力を掛けたと思っているんだ。このスマホが死んでいるせいでどれだけの時間的損害を被ったと思っているんだ。良い加減にしてくれ。
確かに、充分な電池残量とは言えないが、それでも一瞬で無くなってしまう量ではないだろう。このナントカバコとかいうタイトルを冠するオカルト板には動画や法外な量の広告も無い。トップに一枚だけ貼り付けられた寄木細工(何故、寄木細工なる専門用語をこの間抜けな俺が知っているかと言うと、それはここ箱根地域の特産品なのだ)の画像だけだ。そんなに容量を食う程のサイトではない。
だからと言って、『暁月の環』先生によるスマホの荒療治のせいではないだろう。電池の消費速度は意外に早い、とは言ったが、一瞬にして残量が失われ、ブラックアウトしたというわけではないのだ。電池残量の数値は四十六、四十五、四十四……と、丁寧に、実に綺麗に失われていったのだ。スマホそのものを壊さないように、電池だけを綺麗に抜き取ったような現象だった。
そこで、これは単なる故障ではないと気付いた。
これは、魔的な、何かによる現象だ。
始めに来たのは唐突な身震いだった。
次に来たのは全身を圧壊させるに足る魔力と、殺気だ。
視界の端々には肉眼でも見えてしまう程の透明な六方晶系の結晶。
場全体の熱という概念そのものを凍らせる驚異的で局所的な寒波。
靡く栗毛色のポニーテールと、氷柱のように刺々しい水色の虹彩。
そして、上品で、可憐で、氷霜のような声と、吹雪のような吐息。
「頭が……全然、冷えたかしら?」
文字通り、頭は冷えた。
頭だけではない。身体の芯も、骨の髄も、きっと、魂までもが冷えた。
いやいや、冷えるなんて生易しいもんじゃ無い。凍て付く、とでも言おうか。
俺の視線の先、二メートル程先、駐車場に敷き詰められている細かな砂利の上では、現在、斬殺魔以上に警戒レベルを引き上げる必要があると正に考えていた港元市の魔女、その片割れが仁王立ちをしているのだ。
彼女は魔女共の中でも直接戦闘専門、というか戦闘脳で戦闘狂、超高位魔術師が屯する『術位序列階層』というサロンの中でも第四位の座にある氷雪の魔女、矢吹遥だ。具体的な我的魔術を理解している訳ではないが、氷専門の魔術、そんなところを得意とする魔術師だ。
彼女の目覚しい巨乳で張っている地獄そのものを体現する帝立学園の紺色の制服と栗毛色のポニーテール、それらが風で揺れる様はまるで彼女を包む闇そのものが蠢くようだ。しかし、彼女の身を包むのは真っ黒い闇ではなく、真っ白いを通り越した透明な氷の結晶の群れだ。透明な結晶は鋭い棘を規則的に生やす自然の武器、それらが無数に中空を彷徨っている。とは言え、そのサイズは肉眼で見えるのだ、どう考えても自然現象によるものではない。魔的な要素によって生成された物体、彼女の魔術そのものだ。
「最悪だ。このタイミングでお前らか。今、お前たち港元市の魔女なんかと戯れている余裕なんて無いんだ。今すぐスマホの電池を返して退場しろ、氷雪の魔女、矢吹遥」
「うふふ、スマホの画面なんかより、私を見なさい。チキンと泥棒と女泣かせの魔術師、藤原衛紀くん。そして、初めまして……藤原衛紀くんの、護法さん、かな?」
そう、俺の魂までもが凍て付いたと感じるのは、そういう事だ。
俺の隣に居座っている護法、というのは陰陽術における陰陽術師(魔女共は未だに俺を陰陽術師だと勘違いしているらしい。日本に住まう本物の陰陽術師である土御門さんはお怒りになるだろう)が使役する式神のタイプの一つであり、ソイツとは何ら関係無いが、矢吹が言わんとする事は正しい。護法、つまり、式神とは使役する術師を守り、時には術師の戦闘を支援し、常に術師の側に侍る存在だからな。
もう分かるだろう、港元市の魔術師矢吹遥の言ったところの俺を守り、支援し、常に側に侍る護法とは……俺のメイドの、ルナのことだ。
戦蓮社村のショッピングモールでコイツら魔女と遭遇した時には認識不可能だったルナは原理も理屈も意味不明な魔術である(俺の不勉強のせいかもしれない)幽星体の殻を被っていたが、今は被っていない。彼女はたかだか、切符を正しく買い、何も知らない馬鹿な厨二病患者の目の前で消えるのも悪い(彼女に消えられると、俺がトウセキの相手をしなくてはならない。つまり、ご主人様である俺を気遣った結果なのだろう)というつまらない理由でこの世に顕現し、俺以外の第三者からも認識されているのだ。主にトウセキのせいだな、クソッタレ。
父が俺に預けた『暁月の環』に次ぐ、それどころか、同等でもある最終手段のルナ。それ程の彼女の持つ一番の特徴であり、一番の武器であった幽星体という秘匿性が、寄りにも寄って、今の俺にとって斬殺魔以上の敵に露見してしまったのだ……!
「流麗な金髪に、翠玉のような瞳。桜を描いた金の刺繍、下地の紅基調の和服、ね。式神で西洋人というのは珍しいけれども、衛紀くんの割には随分と粋なデザインね。下手に黒髪の日本人風の式神なんかよりは全然良いわ。女の子と芸術好きな私としては、本当に手に掛けたくない一品ね。出来れば依り代だけさっさと渡して欲しいわ」
「コイツは俺の所有するメイドだがな、それでも人間だ。モノみたいに、式神だとか依り代だとか、デザインだとか、一品だとか言わないでくれ、レズ魔女。それと、ルナもルナでさっさと殻を被ってこの場から離れてくれよ!」
氷雪の魔女である矢吹遥が果たしてどういう魔術を扱ったのかは知る由もないが、俺は再びだんまりを決め込んだスマホをポケットに突っ込み、ベンチから立ち上がったルナの前に立つ。腕を伸ばし、ちっぽけな手を広げ、ルナを庇う。運命の夜明けで誓ったからな、彼女を守るって。チキンの魔術師とは言われたが、少し格好付けさせてくれ。
ところがルナは、俺の高尚なる決意を斟酌しただろうにも拘らずその場に踏み留まり、幽星体の殻を身に纏うこともしなかった。実際には俺は彼女が幽星体状態になったことを確認する方法は無いのだが、ルナは御意という言葉も、了解という言葉も、何も発さなかった。
そんな事で済むどころか、彼女は彼女を庇う盾となった俺の身体の真横に並び立ち、俺たちの敵、仁王立ちする港元市の魔女に一礼をした。実に丁寧に、だ。
「何のつもりだ、ルナ。さっさと澄鈴が転送してくれたデータが入っているスマホと一緒に逃げて欲しいんだ。昨日はお前が俺を逃がしてくれたが、今度は俺がお前を逃す番だ。ここは俺が何とかするから」
「いえ、その必要は御座いません。ご主人様はご安心下さい。それに、私には私の個人的理由が有って、現在、貴女と相対しています。矢吹遥様」
個人的な理由だと? ルナは何を言っているんだ?
敵の中の敵に礼儀正しく一礼をし、顔を上げたルナはいつもの笑顔を浮かべた。彼女は何の魔術の行使も、何の武器も用意せずに矢吹遥に挨拶をしたのだ、驚かないのも無理はないだろう。相手は港元市の魔女、それだけではなく、市内第四位、ほぼ世界第四位と言っても差し支えない魔術師だ。丸腰で挑むには愚かしいにも程がある。俺でもそこまでの愚行はしないつもりだ。
だが、ルナは今までの経験上、必ず何らかの行動を取る際にはそれなりの策や理由、原因があった。彼女は聡い。俺と違って、愚かではない。恐らく、今回も策があるはずなのだが……愚か者日本代表の俺には検討も付かない。
実に業腹だが、ここは我がメイドに頼る、と言うと俺のご主人様としての立場が泣いてしまうな。そう、今は我がメイドに賭けるしかない。事実、馬鹿で阿呆で愚か者のご主人様には何の打開策も思い付かない。別に俺が何か策を立てる事が出来なくても『暁月の環』を使えば何とかなる(かもしれない)が、銀の指輪を使用せずにこの危機を切り抜けられるなら是非ともそうしたい。
今は、聡い彼女の邪魔とならないように極力沈黙を貫こう。それが今の俺に出来る最大限の戦い方だ。少しは喋るかもしれんが、ルナの言動には一々口を出さないように努めようではないか。
「あらあら、私に私用があると言うのね、ルナさん。全然良いわ、話くらいは聞くわよ。……っと、衛紀くんは逃がしちゃダメよ。せっかく、悔しいけど強力なあの貧乳神話武器オタ魔女から離れて蜘蛛の巣にひっかかってくれたんだから、ね」
ルナが俺を優しく、しかし強く後ろに押して俺が二、三歩蹌踉めく。すると、その僅かな動きさえも制するかのように、バシィィィィッ、と甲高い爆発音が俺の爪先の数センチ先で鳴り響き、爆心地である砂利が火花を上げて円形に捲り上がる。
目の前の矢吹は仁王立ちの姿勢のままでにやりと笑うだけで、彼女から魔術の起動は感じられない。そしてこの凄まじい威力と速度を誇る攻撃、何よりもこの精密性。何が、誰が俺たちを襲ったのかはすぐに分かった。砂利に生じたクレーターの奥には赤熱した金属片が突き刺さっていた。
「も、申し訳御座いませんでした、ご主人様。私めの判断が軽率でした。お許し下さい、後でお仕置きは受けます。しかしその前に、ご主人様、お怪我は御座いませんか……?」
「俺は、大丈夫だが……やっぱり来やがったな、アンチマテリアル弾。お仕置きはともかく、ただ足を使うだけじゃここからは逃げられそうにないぞ」
これは厄介だな。オッドアイとクリップの魔術師兼狙撃手のお連れ様もどこかにいるらしいな。これでは一ミリも動けない。彼女はその一ミリ一ミリの挙動さえも視認出来るはずだ。無口無表情の美少女、霧谷優梨の赤い魔眼が超ハイブリッドな代物であり、狙撃銃との組み合わせが最悪な程にマッチングしているというのは身を持って知っているからな。
直接戦闘担当はこの場に出向いた矢吹遥。矢吹遥から逃げれば直様、遠方に控え、この場全体を俯瞰しているであろう霧谷優梨による狙撃の餌食となってしまう。今のアンチマテリアル弾はそういう合図だ。次は、逃げられないぞ、と。
「おい、矢吹。お前、今、蜘蛛の巣と言ったな。戦蓮社村の山地一帯にかかっていた異常に濃くて冷たい白い霧。アレはお前の張った結界、罠だったのか」
「今更気付いたのかしら。チキン魔術師の衛紀くんですもの、この一連の事件から本当に逃げ出さないか心配だったからあの村全体に結界、霧を掛けていたのよ。でも、衛紀くんは逃げ出すつもりじゃなくて、何かしらの目的が有ったようね。衛紀くんの事、勘違いしていたわ。全然、失礼したわ」
レストランの時と同様に矢吹は全く反省する素振りを見せずに謝罪し、俺はログハウスのような戦蓮社駅までの険しい坂道を思い出していた。あの時、指先を凍らせる程の冷たく白い霧は、彼女らの『例外』を知った俺たちを監視するための矢吹の魔術だと言うのだ。
俄かには信じ難かった。レストランなどの部屋や個室、或いは神殿や教会、神社などそれらに準ずる聖域など、特定の範囲として区切られた狭い空間ならともかく、戦蓮社村、という漠然とした大きな空間を一つの結界で閉じるなど日本の魔術技術では到底成し得ない現象だ。国家魔術師第一級所持者の連中でも出来るか怪しいぞ。
一方で、矢吹遥という魔術師は別に結界専門の魔術師という訳では無い、寧ろ、彼女が専門にするのは氷雪、つまり、冷たい霧の方だ。大変認めたくは無いが、流石は港元市製の魔術師という訳だ。レベルが違い過ぎる。
「お前が現れてから霧谷の眼による監視に怯えていたが、クソッタレ、実は初っ端から監視されていたとはな……酷くついてないらしいな」
「全然そうでもないわよ。私の張った霧の結界は、結界内部からの特殊移動、例えば飛翔やテレポートなんかも察知し、対象の移動先まで特定出来る設定を打ち込んで起動していたんだけど、まさか馬鹿正直に物理的に移動するなんて信じられなくて手間取ったわよ。まあ、衛紀くんたちが小田原駅構内で五、六分グダグダしていたから全然助かったんだけどね。感謝しなくちゃ」
駅構内での五、六分のロスタイム。
誤差の範囲内というヤツだ、俺自身がそう判断し、口にした言葉だ。
甘かった。完全に甘かった。何が誤差の範囲内だ。全力でアウトの領域じゃないか。このロスタイムのせいで、俺たちはコイツら魔女に発見され、跡を付けられていたということなのだ。
つまり、あの時、どうでも良いと一蹴した五分程度の無駄な時間が、巡り巡って俺を潰しに掛かったのだ。俺は自身の軽率な判断を悔やんだ。予定時刻から遅れたならば、素直にもう少し予定を切り詰め、時間短縮に努める事も出来たはずだ。
しかも、ロスタイム自体を引き起こした張本人は俺やルナではない。これは頭の狂った厨二病患者のロリガキの引き起こしたものだ。自分のミスならともかく、あの幼女のせいともなれば腸が煮えくり返ると言っても過言ではない。アイツさえいなければ港元市の魔女との遭遇は少なくとも、数時間程遅らせたはずだった。それが本当に一時間やその程度だとしても、澄鈴の転送してくれた『例外』については閲覧出来たはずだ。場合によれば父からの返信が来たかもしれない。
かく言う張本人であるフリュギア王国の第一王女、喰魂姫のトウセキ様は何と蒸発したかのように逃げ果せていた。影も形も無かった。矢吹の発する圧倒的なまでの魔力と殺意をいち早く察知して自分だけは逃げたのだろう。どこまでも癪に障る幼女だ。っていうか、マジで逃げたのか、あの女。次会った時はタダじゃすまねえぞ。次があるかは知らんが。
「ああ、いけない。お喋りし過ぎちゃったみたいだわ。優梨も待っているし、とっととお仕事しないとね。どうやってお持ち帰りしようかしら。どんなに傷付けても、甚振っても死なないって言うし、身体丸ごと氷漬けにしてお持ち帰りしちゃうのが全然楽よね……うふふ」
非常に物騒な事を宣い、嘲笑う矢吹は仁王立ちの姿勢のまま、周囲に蠢く結晶の群れを操作し、それらを二等分し、二等分された結晶を再び二等分し……と、氷の結晶は細胞分裂のように細かく分解され、肉眼では見えないサイズへと変更される。
同時に、透明の結晶はその数を二、四、八、十六……と、全体の数を増殖させている。今や目に見えないだけで矢吹の周囲には五百、或いは千個体以上の氷の結晶が冷気として彼女の統率の元で規則的に浮遊しているはずだ。
傷付けても、甚振っても俺が死なないのは昨日の爆走自転車の際にバレている。彼女が肉眼で見える結晶を細かく分解し、増殖させたのは結晶という棘の生えた物体で俺を攻撃するというよりは、冷気そのもので俺の身体を包み込み、文字通り氷漬けにするためであろう。
麻痺という状態を苦手とする俺だが、氷漬けも同様に困る状態だ。いくら不死性を帯びた身体でも氷漬けにされてしまえば、俺が凍死、または窒息死によって命を落とすことが無くても、行動そのものが氷によって封じられてしまうからな。
いよいよ、港元市の魔女との衝突が始まってしまうのか。彼女の凍てつくような殺気が先より一回り大きくなった。けれども、『暁月の環』がある限り、こちらの勝算がゼロということは無い。そのためにスマホの復活に用いる魔力消費をケチケチとしてきたのだから。俺が苦い表情のまま制服の胸ポケットに入れてある銀の指輪を取り出そうとすると、ルナがその手を抑えた。
「お待ち下さい、矢吹様。これで、この場は引いていただけませんか。貴女方は港元帝国内の特殊な秘匿コードで守られた存在のはずですが、こちらの道具の方については貴女方よりも高度な秘匿コードで守られているはずですから」
ルナが鋭い声で和服の裾から丁寧に引き抜いたのは彼女が港元市の魔女から簒奪したUSBメモリ、だ。USBメモリの内部にはゴスロリ殺人実況、とりわけ、そのスレッド内に添付された港元市と果処無市を繋ぐ重要な情報が内封されている。対港元市用の凾の製造法についてだ。矢吹がその小さな金属板を見るとクリスタルのような瞳をより一層険しくさせ、犬歯を剥き出しにする。
そんな一触即発の状況下で、ルナは特殊な秘匿コードだとか意味の分からないことを宣ったが、敢えて質問はしない。これが彼女の策なのだ、ご主人様の愚問によって進んで彼女を邪魔しようとは思わない。
それに、その後のルナの取った行動は目で見れば明らかなるものだった。誰もが唖然とした。恐らく、遠くで俯瞰している霧谷さえも。
ルナは勢い良くUSBメモリを砂利の上に叩き付け、彼女の赤い鼻緒の付いた下駄で思い切り踏み付けた。グシャリと金属片と砂利が擦れる嫌な音が響き、USBメモリは丁寧に踏み砕かれた。復元が出来ないように、完全に。
煌びやかで、清く、物腰が柔らかい繊細な美少女ルナが、脇目も振らず、一心不乱にUSBメモリを何度も何度も踏み付ける。彼女がそんなアグレッシブな行動に出たのだ。俺も、目の前で仁王立ちの姿勢を崩した矢吹も驚いたらしい。
だが、呆気を取られた俺には彼女の行動の目的が汲み取れた。USBメモリの中身は港元市の魔女らは知らされていないどころか、如何に港元市の魔術師だろうと閲覧することの出来ないデータがある。彼女らは数列爆弾によって電子の藻屑となったゴスロリ殺人実況のページを閲覧する術が無いのだ。
だからこそ、港元市の魔女らは俺や衛世、即ち衛世の作成したセキエイシステムに頼ったのだ。その手掛かりの一つであったUSBメモリがもはや何の価値も無い鉄屑となった以上、手掛かりというものは……。
「さて、これで貴女方が『例外』の内の一つ、USBメモリの中身について知る手段は一つのみ、澄鈴様によって転送されたデータを内包するご主人様のスマートフォンのみとなりました」
「それは全然違うわ、ルナさん。そのデータを衛紀くんは閲覧し、中身を知っているはずよ。だったら話は簡単よ。衛紀くんを拷問に掛けてしまえば良い。ソイツが不死性のような力を持っているのは分かっているわ。どんな酷い事をしても死なないのは好都合、って訳よ」
「それでは不十分です、矢吹様。ご主人様は貴女方のお持ちになられたUSBメモリの中身の内、半分以上を未だに閲覧さえしていません。そして、そのデータの元であるUSBメモリは破壊され、現存するデータはご主人様のスマーオフォンの中身のみです」
矢吹はそれを聞くと、彼女の発言の真意にやっと到達したようだ。流石戦闘脳、馬鹿だ。彼女は怒りを剥き出しにし、水色の瞳は槍の穂先のように鋭く尖る。だが、そんな威嚇はちっとも怖くなくなった。この場にいるのが戦闘脳で戦闘狂の矢吹で良かった。馬鹿な相手はこのまま交渉だけで切り崩してやろうではないか。
などど、完全にメイドの手柄をさも自分の力量のように自慢している俺だが、本当にルナの交渉で上手くこの場を避けられるかもしれない。やはり、あのUSBメモリはあの時に強奪して正解だったのだ。彼女はいずれ、このような状況が訪れると予想していたのだろう。
「賢く聡い港元帝国民の矢吹様ならもう分かりますね。ご主人様が無事にスマートフォンをお使いになり、澄鈴様が転送なされたデータを閲覧出来る環境を提示して下さい。それが、取引の条件です」
「……チッ。優秀な式神と行動の鈍さが幸いしたわね、衛紀くん。悔しいけど、私はお前には手出しが出来ない。というより、貴女が度々口にする『澄鈴様』ってのは一体……」
溢れんばかりの殺意をふっと収めた矢吹は呆れたように腕を組み(巨乳が組んだ腕に乗っている!)、項垂れるように首を横に振った。そのまま彼女は周囲に侍らせる冷気の一切を雲散霧消させ、ローファーの爪先をトントンと砂利に打ち付ける。昨日も爪先を床に打ち付ける仕草をしていたな、恐らくこれは彼女の癖なのだろう。
しかし、その癖の後にも昨日のように青白い結界が飛び出ることもなく、頭上から馬鹿デカい氷塊がこんにちはすることもなく、どころか本当に矢吹遥が殺意を収めたことに俺は驚きを隠せない。だって、あの戦闘脳で戦闘狂の彼女と、表面上は平和に、交渉と取引だけで衝突を回避出来るのだぞ。奇跡と言わずして何て言おうか。こんなチャンス、何が何でも逃す訳にはいかない。
これが俺に仕える和服メイドの策だったのか。流石はルナだ。コイツは本当に俺の手足となって奉仕してくれる、最高の仲間だ。お前さえいれば後は何もいらない、素直にそう思った。
……と、俺も酷く調子に乗っていたようだ。
矢吹遥が、澄鈴がどうこう言い出した時、第三者が口出しをした。
それは、またしてもこの場全体を俯瞰する厄介な魔術師によるものだ。
『…………待て、遥。貴女の言う取引とは何のことか。そもそも、遥、貴女は誰と話しているのか、私に説明する必要がある。私の眼では、その場には遥とお兄ちゃんしか視認出来ない。貴女の言う、ルナとは誰なのか』
余りにも抑揚の無い口調でこの場へ声を届けた主は言うまでもない、先程こちらにアンチマテリアル弾をぶっ放してくれやがった狙撃手、オッドアイとクリップの魔術師、霧谷優梨だ。今頃、どこか遠くから俺たちを自慢の魔眼でご覧になっているのであろう。
彼女の無感情ボイスは俺の背筋に氷を垂らしたように酷い動揺を齎した。コイツは矢吹以上に氷めいた喋り方をしてくれる。何たって、目の前の巨乳が戦闘担当の魔術師であれば、霧谷は頭脳担当の魔術師だ。ルナの進めたこちらに圧倒的有利な交渉を良しとはしないのは勿論のこと、こちらの矛盾点を追及し、今度はこちらに不利な交渉を突き付けて来るに違い無い。
しかし、俺の横に並び立つ和服メイドの彼女は口元を僅かに歪ませ、目を細めた。俺は彼女が時より見せるこの表情、例えば昨日のレストランで港元市の魔女とあの女が戦闘を始めた時に見せた、この表情が空恐ろしく感じる時がある。本当に、この表情を浮かべる彼女が普段の俺に傅くメイドの彼女なのか分からなくなる。
だが、こういう表情を見せた彼女の後に俺は、決まって何らかのチャンスを得るのだ。つまり、彼女の企てた策は未だに続いているという事だ。霧谷は千メートル以上離れた地点から、且つ高速で移動している銃弾と銃弾をぶつけて跳弾狙撃をし、挙げ句の果てに俺の右手人差し指を確実に弾くのだ。そんな高性能な魔眼使いの霧谷が、ルナが視えない、だなんて言ってやがるんだ。ルナが何らかの細工を施したに違いない。
「な、何を言っているの、優梨……。ルナさんは衛紀くんを主人とする護法、若しくはそれに準ずる存在よ。彼女の全身には非常に強力な魔的な流れを感じるわ。貴女の眼で視えない道理なんて全然無いはずよ……!」
『…………いない。いない。絶対にいない。そんな存在は私の眼では視えない。私の眼で捉えられない以上、それは幻……いや、それも、有り得ない。幻、魔的な存在であっても私の魔眼は必ずそれを視ることが出来る。出来なくてはならない。私の魔眼はそういう風に作られている』
彼女らの間で交わされる会話の音源で気付いたが、霧谷はテレパス魔術ではなく、例の港元市製携帯のPHC、通称マスターフォンによる通話だ。矢吹の視線はやや上部、こちらから見るとおかしな方に向いている。音源も丁度、その辺りの気がする。
これはアレだ、恐らく、PHCの第一の特徴であるホログラムだ。こちらからはホログラムは見えないが、映し出されたホログラムの内容、その凡その見当は付くぞ。矢吹は見ているのだろう。ホログラフィーによって映写された、霧谷の、焦り顏を。
『…………い、いえ、それより、もう耐え難い。遥、昨晩、貴女は私にはそうは言ったけれども、私は貴女に聞かずにはいられない。貴女は今、澄鈴、確かにそう言ったはず。お兄ちゃんもそう言った。声は聞こえなくても、読唇すれば分かること。誤魔化すのは止めて、良い加減に……』
「貴方の気が立つのは分かるけれど、昨晩も言った通りよ。落ち着きなさい、優梨。全然貴女らしくもないわ。ここにいるのは、私と衛紀くん。それから、衛紀くんの式神のルナさんよ。落ち着いて、貴女の眼は狂い無く凡ゆる外界現象を計測するための眼よ。精神の乱れは優梨の魔眼をも乱すわ」
『…………それでも、視えない。視えないものは、視えない。視えないものは、存在しない。そう考えるしか、無い』
霧谷は異常に焦っていた。錯乱していると言った方が良いかもしれない。あの無口無表情、冷静沈着、頭脳担当の霧谷優梨が、酷く狼狽し、言葉数多く怒鳴り散らしているようなのだ。ルナが、視えない。澄鈴とは、誰なのか、と。
俺から言わせて貰えば我がメイドが他人の視野から消える、消えないなんて事は当たり前(先日知り合ったばかりだが)の事なのだが、矢吹や霧谷にとっては理解し難い事なのだろう。俺や矢吹が当たり前のように認識しているルナが、自分だけ視えないのだから。逆の立場なら俺もそうなるだろうさ。
とりわけ、魔眼使いの霧谷は視る、視えないには煩い魔女だ。余程、自分の魔眼に自信を持っているのだろう。確かに、昨日の九頭龍川河川敷に於ける追撃戦ではマジで凄かったと思うぞ、その魔眼。だが、その魔眼への過信がまたしても仇となったな。
とか言っちゃって、結局、恥ずかしながらこの俺も、矢吹には我がメイドが見えて、霧谷には我がメイドが視えないというこの事態は飲み込めないが。ルナの幽星体には、幾つかの応用方法があるのだろうか。
「勝手な行動、どうかお許し下さいませ、ご主人様。幽星体の干渉範囲のパラメーターを少々弄らせて頂きました。今の私はご主人様と矢吹様のお二人様の脳内にしか存在しない状態です」
「パラメーターを弄るって、幽星体の魔術って第Ⅳ種魔術群だったのかよ……って、何やってるんだ、ルナ。矢吹との平和的解決、交渉はこれでほぼ破棄されたようなもんだぞ……!」
霧谷の混乱した有り様にパートナーである矢吹もパニックに陥り、ルナのネタばらし的お話しには耳を傾ける余裕が無かったようだ。干渉範囲のパラメーターって言うと、ええと、ルナと近距離にいる俺や矢吹には見えるけれども、遠距離にいる霧谷には視えないように設定し直したってところか。
いやはや、アストラルだなんて如何にもオカルトめいた言葉を使うのだ、第Ⅲ種魔術群辺りの魔術なのかと思っていた。まさか科学的アプローチ、数値で操ることが出来る魔術だとは聞いていなかったぞ。
だが、問題は我がメイドの纏う幽星体の殻の応用方法なんかじゃない。そんなのは後でいくらでもお仕置きを兼ねて詰問してやれば良い。
今、俺が何とか対処しなくてはならないのは、目の前の魔女、矢吹遥だ。いくらパートナーの矢吹でも、無口無表情の霧谷があれ程錯乱し、怒鳴る様など見たことが無かったのだろう。彼女も相当なショックを受けたようだ。つまり、近接戦闘担当の矢吹と参謀担当兼狙撃手の霧谷。二人の完全無欠のコンビネーションが、確実に狂い始めている。
だが、
そんな程度では、
港元市製の魔女は惑わせない。
市内第四位の化物は止まらない。
下を向いた矢吹は沸々とその身に莫大な魔的な流れと、冷徹で、冷酷な殺意を噴出させ始める。彼女の身体の周囲には雲散霧消された冷気が轟々と吹き荒れ、紺色のブレザーやミニスカートをはためかせ、公園内の樹々をも揺らす。
霧谷と幾つかの意見をぶつけ合う内に気付いてしまったのだろう。初めから俺のメイドの目的は取引をするなどという事ではなく、彼女らのコンビネーションを崩すという、単なる時間稼ぎに過ぎなかったという事に。
「あ、あんたら……私たちを騙したわね。世界有数の魔術師相手にペテンを働くなんて、良い度胸じゃない。初めから私たちと取引をする気なんて全然無くて、ただの時間稼ぎだったなんて。見直したわ、チキンの魔術師衛紀くん。まあ、自分の護法に言わせている辺りは相当なチキンだけど、ね」
「取引は平等である時のみ行うべきです。ですが、時間稼ぎだけという訳ではございませんよ。私は矢吹様、貴女に対する私用も完了しました。さて、どういう訳か霧谷様のご機嫌が優れないようですから、ご主人様、もう三歩程後退しても大丈夫ですよ」
そんな殺気を当てられて尚、ルナの調子は物腰柔らかなままで笑顔を浮かべている。彼女の余裕さ、というか、優雅さから分かる。ルナは今の一言を最後に矢吹からも認識されない、いわゆる俺の良く知る真の幽星体状態になったのだろう。矢吹はルナが認識出来なくなったので、俺一人だけに研ぎ澄まされた氷柱のようなクリスタルの眼光を向けている。眉間の間にジーンとした感覚が来る。
俺は矢吹の鋭利な眼光から一歩でも遠退きたい、という理由ではなく、あくまでもルナの諫言に従うという形で一歩、二歩、三歩と後退する。良し、確かにアンチマテリアル弾はただの一発も飛来しない。俺の顔面が既にアンチマテリアル弾で吹き飛ばされ、認識出来ていないという事も無さそうだ。錯乱した霧谷はもはや、俺を狙撃する精神的余裕も無いのだ。
なるほどな、これもルナの謀の一端なのか。俺以外の人間には容赦の無い女だな。何と言っても、USBをあれだけ踏み砕くなんてアグレッシブな演技を決め込んでおいて、結局初めから取引をする気が無かったって言うんだから。こちらも大層驚かされたぞ、ルナ。
にしても、取引は平等である時のみ行うべき、か。俺は彼女のその言葉を聞いた時に自然と乾いた笑いが出そうだった。その言葉は昨晩、USBを掻っ攫ってきたルナから聞いたセリフだったからだ。
「で、でも、ルナ。どうして三歩だけだなんてケチってんだ。逃げられるのなら三歩も五十歩も百歩も変わらん。というか、また結界張って、魔銃の打ち合いなんかする気じゃねえよな……」
俺は先程、ルナから押された時にベルトに挟み込まれた五センチもの大口径を持つ白銀に輝く魔銃を半ば反射的に引き抜くが、それと同時に銃身そのものが道端に捨てられた空き缶のようにひしゃげてしまう。畜生、また先手を打たれたか!
口元を歪ませ、八重歯をちらちらと覗かせる氷雪の魔女は右拳を固く握り締めている。恐らく、空気中の至る所に存在する気体を冷却し、冷気と認識して操り、銃身を冷気そのもので締め上げたのだろう。右手で思い切り握り潰すように。ってことは、何てこった、コイツは冷気を介して腕をいくらでも増やし、冷気のある場所ならばどこへでも現出させられるのか……!
「こんなものは私の扱う『氷霜凍獄界』の末端の末端に過ぎない出力よ。それに、その魔銃にはこないだ痛い目遭わされたからね。警戒して当然よ。じゃあ、そろそろ衛紀くんの首、全然、締め上げちゃおっか」
矢吹は握り締めた右拳を無造作に凪ぎ、その凪いだ右拳の出力とは桁違いの力で白銀の魔銃は手元から吹っ飛んだ。手元から離れた魔銃は砂利に突き立つと同時、砂利から生えたカテドラル水晶のような氷の中に閉じ込められた。
それが死にかけの公安の男から託され、運命の夜明けからレストランでの決闘で度々お世話になった魔銃、空間加速砲、正式名称、固定空間加速射出砲の最期だった。ただの一捻り、一振りで、死んだ。
自慢の大口径は見るも無残にひしゃげ、その上、先の一凪ぎで銃身を真っ二つに圧し折られていた。もはや銃身の内側に刻み込まれている術式も破損し、使い物にならないだろう。更に残骸は壊されるだけでは飽き足らず、残酷なまでに綺麗な氷の柱の中に閉じ込められてしまった。
氷雪の魔女はそれを、俺の首でやると言ったのだ。一体どうなってしまうのか、結果は既に魔銃が示してくれている。如何に金属で作られた物体でも一捻りでぶっ壊れた。人間の首なんて、捻ることも、握ることもせずに、幼子の頭を優しく撫でるようにするだけでグズグズの肉と血の塊に成り果てるだろう。
ルナの途中まで上手く行っていた作戦は、潰えてしまったのだろうか。
矢吹は真っ直ぐに俺の首目掛けて、半開きとなった右腕を虚空に放り出す。
後は躊躇無く、その右拳を握り、捻り、或いは撫でるだけ。
それだけで、俺の首は冷気の腕によって捻り潰される。
ゾゾゾッ、と、首筋辺りに感じる絶体絶命の気配。
「ああ、クソ。いくら不死身でも痛いのは嫌なんだ。これだけは慣れないんだ。ただ氷漬けにされる方がマシかもしれん。動けなくなっちまうけどさ」
「大丈夫よ、衛紀くん。次の一撃は全然、痛くないからね、うふふ」
迫り来る寒気と激痛を覚悟したその瞬間、
天空から汞の洪水が降り注ぎ、氷の地獄を容易く打ち破った。
何が起こったか分からなかった。何が降り注いでいるのか分からなかった。
だが、その鈍色と銀色が混ざった汞には見覚えがあった。加えて、これは俺たちの味方からの援護魔術だ。運の良いことに汞の豪雨は俺には一切当たらない。丁度、俺の三歩先が洪水の射程範囲に入るところだった。ルナが退けと言った歩数とピッタリだ。
バチバチと砂利をも打ち砕く汞のスコールは魔的な力を持った冷気の腕を打ち破り、叩き潰し、洗い流す。スコールが止むと同時、大地に降り注いだ汞は全て一箇所へ集まり、そこに人型を表す。
雪のように真っ白いトレンチコート。
幾度もの戦闘を思わせるズタボロのジーンズ。
「お待たせ、衛紀くん。時間稼ぎご苦労様だよ。お陰で僕たちはこうして、間に合った。さてさて、港元市の魔女さん。この世界最大の魔術権威と殺り合うんだから、さっきみたいな手抜きはいらないよ」
今、漸く、ルナの謀の全貌を理解したぞ。ルナの謀は、潰えてなかった。
ルナが魔女共と取引をするだとかしないだとか、彼女が見えるだとか視えないだとか、港元市の魔女共のコンビネーションを崩すだとか、そういった一芝居を打って時間稼ぎをしたのは、全て、彼と合流するためだったのだ。
汞の豪雨と共に現れた汞の魔術師、『統一協会』の大総統と。
「遅過ぎだぞ、フィリップさん……!」




