LVNH//O//2038/04/14/16/53//TE-01/2021/05/22//FCE
俺と玲華は先と変わらず無言のまま、俺たちの通う戦蓮社高校に向けてボロボロのママチャリを走らせていた。ゆっくり、ゆっくりと。
ぐんぐんと伸び始めた黒く尖った影と引き延ばされていく鋭い橙色が目に突き刺さる。夕焼けは空という水色の絵の具を溜めた大きなバケツに、鮮やかな橙の絵の具を流し込んだようだ。そうして、優しく淡い水色は圧倒的な鋭さを持つ橙に支配されていく。
いや、どちらかと言うと水色の絵の具が溜まったバケツの中から、橙の絵の具だけが引き抜かれていく感じなのかな。色の根源たる橙の光を放つ太陽に引き摺られて。
だが、決して静かなだけの夕焼けという訳ではない。いかに田舎と言えども、流石は県道と言うべきか、ダンプカーの交通が激しい。ダンプカーが通る度に鼓膜は勿論のこと、身体全身にビリビリとした衝撃が叩き付けられる。
目に刺さるような田舎の夕焼けには優雅さというものはそこまでなく、あるのは衝撃波を撒き散らしていくようなダンプカーの走行音と、その後の妙な寂寥感だけだ。
山の斜面でもある車道の脇には、世間的に議論されている環境問題を何とも思っていないかのように森林が生い茂っている。まるで、お前ら人間の心配など必要ないと罵られているような気さえしてくる。
そんな豊かな環境の中、戦蓮社村の中心から大きく逸れたこの地では、県道を走るダンプカーと俺たち以外には人間の営みらしきものは見受けられない。とは言え、戦蓮社村の中心地というのは言葉通りの中心ではなく、ショッピングモールや戦蓮社高校、加えて俺たちの家のある村の北端東部の方なんだけどね。
「悪くはない、眺めだな。戦蓮社の夕焼け。ちょっと、刺々しいけど」
「……うん、そうだね。そう、だね」
玲華はあんまり良い反応はしなかったが、まあ、何と言うか、アレだ。本当に、正に田舎の夕焼け小焼けってヤツだ。それ以外に表現しようがない。
あ、いや……今思ったんだが、夕焼け小焼けって何なんだろうな。いやいや、夕焼けは分かるぞ。小焼けが謎なんだ。単純に語調を良くするためにケツにちょびっと付けられたものなのだろうか。それとも小焼け自体にも具体的な何かがあったり、何かの暗示だったりするのだろうか。
仮にも暗示だとすると……実は小焼けは子焼けで、子供を焼け、子供を焼こうという一種の儀式のような何かなのかもしれない。ほら、ええと……子供を殺す風習の名前があった気がする。何だっけか。ド忘れだ。
アレなんだよな、日本の童謡って、子供が小学校で歌う割には不気味な音程だと思うんだよな。それと、歌詞が短かったり、漠然だったり、はたまた繰り返しが多かったりして、裏読みが出来そうなんだよなあ。『かごめかごめ』や『はないちもんめ』、『シャボン玉』、そして定番とも言える『とおりゃんせ』辺りが良い例だ。子供の頃なら誰でも歌ったことがあるだろう。
まあ、どれも後から付けられたこじつけばかりだそうだ。不謹慎で申し訳ないが、都市伝説や陰謀説、フリーメイソンとかが大好きな厨二病を若干引き摺っている俺としてはちょっぴり悲しい。でも、童謡『シャボン玉』の鎮魂歌説は割りと事実っぽい気がしてしまうんだよなあ。この曲の作者の授かった子が生まれて間もなく死んでしまった、だとか云々。
それでも、流石に、小焼けが子焼けってことは無いだろうな。まったく、暗示だとか儀式だとか、風習だとか、何意味の分からない事を考えているんだ、俺は。余程、昨晩の「アレ」が脳内を侵蝕しているらしい。目を覚ませ、藤原衛紀。
あ、でも、怖いわらべ歌の一番手『とおりゃんせ』発祥の地と言われているのは実はこの辺りなんだ。いや、別に戦蓮社村ではなく、ましてや果処無村ということもなく、山を下ったとある市だ。ほら、小田原城で有名な市というのがヒントだ。ヒントじゃないですね。
でも、昔、玲華に聞いた話では別に他の地にも『とおりゃんせ』発祥地と呼ばれる地域はあるそうだ。埼玉県のどこかだそうだ。彼女は現実的な事を言う奴だ、ロマンの欠片もない。少しは俺のロマン精神の何たるかを見習うと良い。
かく言う『暁月の環』大図書館にも負けない天才の玲華先生と言えば、さっきから口を噤んで俺のブレザーを背後からくしゃくしゃにして掴んでいるだけだ。
俺は件の大きめな隣の市を大きく塞ぐ目の前に広がる駒ヶ岳を眺める。その視線の先には駒ヶ岳に突き刺さっていくような坂道があり、俺たちは県道を逸れてこの坂道に立ち向かう。二人乗りでもまだ登れそうな道を選んでいるからまだ良い方なのだが。
さて、と。坂道だし、気を引き締めて馬鹿な妄想はこのくらいにしようか。俺は雑念を振り払い、俺の薄っぺらい背中に寄り掛かる彼女に注意を向ける。
……彼女がこうなるのは仕方ないことだ。
何故なら彼女は、緊張、しているのだ。
つまり、背後にいるのは先のコンビニの時と変わらず、俺の良く知っている脆くて弱々しい彼女のままだ。
坂道を通って吹き下ろす山からの冷たい風によってボロボロと風化してしまいそうな程、今の彼女は脆い。これに関しては、仕方ない、当然だろう、という感想しか湧かない。その理由は火を見るより明らかだ。
文武両道を極めた日本最強の魔術師、国家魔術師第二級所有者。
憧れと畏れを伴って呼ばれる刀剣の魔女の異名。
第一回国際魔術技能査定大会第八位。
それだけの武勲を聞けば滝沢玲華=最強の魔術師というイメージが先行しがちだが、いや、それ自体は合っているのだが、それでも彼女は「こういう」のは初めてであるはずなのだ。
国際魔術技能査定大会、長い名称だから魔術リサーチ大会という略称で呼ばせてもらおうか。魔術リサーチ大会で彼女はわずか六歳という幼さながらも世界に散らばる最強の魔術師と戦い、見事魔術戦を勝ち抜いてみせた。これにはあのフィリップさんも驚いていたはずだ。港元市でさえも彼女の才能に希望を見出し、今、彼女を欲しているのだ。
世界と渡り合える実力を持ち合わせた彼女。
刀剣を操る最強の魔術師の彼女。
誰よりも脆弱で、誰よりも努力家な彼女。
だが、
だけど、
それでも、
彼女は、正真正銘の殺し合いは、初めてのはずなのだ。
人を殺すためだけに放たれる冷気や氷塊、人殺しの道具の代名詞たる銃器及び銃弾。彼女はそれらを、何一つとして知らない。
日本最強の魔術師であっても、彼女は未だに血生臭い戦場や路地裏や実験場、どこだって良い、とにかく、彼女は魔術による命の遣り取りに関わった事が無いのだ。当然だ、この平和を謳う日本国において、とりわけ平和なこの山奥の村で、こんないたいけな少女が戦場に送られることなどは起こっていない。如何に彼女が最強の魔術師だとしても、だ。
現在の日本は確かに対港元市徹底抗戦を掲げる政党、即ち保守党で、この春から数十年前より国防軍への費用を格段に上げることが決まった。今の日本政府は、この玲華の転校の件もそうだが、港元市に対して非常にポジティブでアグレッシブだ。
それに加えて、そもそもの前提として、確かに魔術とは核兵器に代わる存在として魔術と呼べる域にまで発展した。つまり、最初から人殺しの道具となる可能性として生まれたものだ。これは隠しようもない事実である。日本でさえ数年前の保守党への政権交代により、未成年の者でも戦争のための訓練を受ける魔術師もいる。日本でさえ、と言うのだから多くの先進国でも未成年の魔術師の戦争訓練は行われている。
良いか、それでも、だ。未成年の魔術師を戦場に投入するのはタブー視されている。これは政権交代によって血に飢えた日本や、最強の軍事国家アメリカでもだ。中国や朝鮮半島の事情はどうだか知らないけど。かの隣国も日本や港元市に対して敵対心剥き出しで、実際に何度か日本国防軍との小競り合いもあったらしい。勿論、港元市は例外だ。さっきもいたよな、未成年の魔術師。
それ以外に、滝沢玲華は言うまでもなく品行方正な少女だ、強盗や殺人のために魔術を悪用することも無いだろう。被害者としての面なら、数年前の彼女の肉親や親戚、大切な兄を葬った果処無神社の火災くらいか。だが、その火災は左翼過激派の派閥内のリンチの余波であり、彼女とは無関係の所で起こったものだ。彼女の力が直接誰かを殺したというわけではないから例外にしよう。
いや、若しくは、この事故が逆に彼女の心にトラウマとして残留しているのかもしれない。だからこそ、純粋な日本人の彼女が人を殺すような現場にいることは常識的に考えれば有り得ないのだ。だから、俺の背後から伝わる微かに、しかし確かに伝わってくる純粋な日本人の彼女の震えは、偽物ではない。
つまり、本物のハズだ。
だけど、どうしてだろう。
一体、どうして、こんなにも。
彼女の震えが「ニセモノ」に感じられるのだろうか。
偽物ではなく、ニセモノ、だ。
漢字にするとその意味をハッキリと確定させてしまう気がする。だから、何となく、不透明感や怪しさがあるから、敢えてカタカナで「ニセモノ」だ。まだ、偽物だと断定出来ない俺の弱さの表れなのかもしれないが。
真に迫るような、ニセモノ。マガイモノ。フェイク。レプリカ。ツクリモノ。などなど、言い方は漢字表記ではなく、カタカナであれば何でも良い。とにかく、ニセモノだとか偽物だとか、平仮名だとか片仮名だとか、とにかくややこしい事を避けて言うのであれば、彼女の殺人への恐怖は酷く「本物ではない」気がした。
何故かって?
それは……俺の、記憶の残滓が示す。
何度も、何度も、頭を駆け抜ける、ビジョン。
川の畔で佇む、巫女服の少女。
道具のように冷徹な不過視の斬撃。
人肉を裂く生々しい音の嵐。
真っ黒な川と、真っ赤な血。
黒と、赤だけの世界。
クッ……そんなこと、あるものかッ!
刃物を振らずに、怪しげな大人共を一刀両断していく滝沢玲華。
俺は昨夜見た黒と赤の映像を頭から振り払う。いや、剥がし落とそうとする。
違う、違うんだ。アレは、決して彼女の為した行いではない。断じて、違うのだ。真の斬殺魔にはあの晩に対面した、アイツこそが犯人だ。そのはずだ。
そうだと言うのに、どうしても黒き疑念は俺の心に波紋を生み、徐々に根を張り始める。この侵蝕はもう止められない。
だが、制御だけは、その鎖だけは決して手放してはならない。鎖を手放してしまえば、彼女への嘘も隠し事も、何もかもが俺の胸の内からこの世界へ零れ落ちてしまう。彼女を、傷付けてしまう。彼女を傷付けてはならない、絶対に。
「衛紀くん。ここは坂道だよ、大丈夫かな。私、降りようか?」
「良いや、大丈夫だ。でも、ちゃんと掴まっていてくれ」
「うん……。分かったよ」
視界の脇に鬱蒼と生い茂る雑木林が山から吹き下ろす風によってザワザワと不気味な音を立て、坂道に雑木林の黒く鋭い影が怪しげに蠢く。非常に、気味が悪い。時折、村の農家のおじさんが乗っている白い小型のトラックがやってきて、俺たちはそれを避けて道の脇に行き、小型トラックが通り過ぎると俺はまた自転車を直様坂道の真ん中に戻す。道の両脇に生い茂る雑木林に近づくと、それだけで夕日のオレンジ色と真っ黒い影による腕に掴まれてしまいそうだ。まるで、心の内側に宿る罪悪感や「黒き疑念」が俺を追いかけ、捕まえるチャンスを道の両脇で今か今かと手をこまねいているような錯覚に陥る。
……ああ、そうだ。そうだよ。認めるよ。
俺は今、彼女に、嘘を、吐いている。
その事については何の言い訳も無いし、何の躊躇もない。もう、俺の口から出るおよそ全ての言葉には嘘が含まれていた。今、俺の背中には大切な彼女の温もりが感じられるというのに、妙に空々しい。
俺の心に積もりに積もる罪悪感と黒き疑念は、彼女との間に大きく深い海溝を生み出した。彼女のニセモノめいた震えだけじゃない。こんなに近くにいるというのに、俺の背中に伝わる温もりはただの生きているだけのナマモノが張り付いているという、ただそれだけの虚しい感触しか無かった。
だから、そう、この妙な隔たり、彼女との深い溝は俺が作ったものなんだ。全て、俺が悪いのだ。どこか心の奥底を巣食う黒き疑念からは否定の声が聞こえた気がした。お前は悪くない、お前が正しい、と。
俺はそれらに巻き付けた制御用の鎖を引いて何とか黙らせる。こんなにも彼女の暖かみが感じられず、殺人の現場に対する震えがニセモノめいて感じるのは、俺の心の奥底に黒き疑念が芽生え、俺の心全体を歪ませているからなのだ。だから、ぐしゃぐしゃに歪んだ俺の心と、背中に張り付く彼女との心は、噛み合わなくなった。そう感じた。
いけないな、こんなんでは。俺が彼女を信じなくてはならないというのに。彼女を疑うことなんてフィリップさんにでも任せておけ、俺が彼女の潔白を証明するのだから。そう宣言したはずだろう、窓から飛び出した時に。
よし、再認識するぞ。藤原衛紀、更新開始。
滝沢玲華は、人の命をかけた戦いは初めてだ。把握。
滝沢玲華は、殺人の現場に立ち入ったのは今日が初めてだ。把握。
ん、再認識完了。更新終了。
俺は自身にとって都合の良い事実を自己暗示のように唱え続けた。
九頭龍川での彼女は別人、若しくは怪しげな大人たちを斬り付けたのは別人なのだ。そう、信じた。そうじゃないと、黒き疑念を制御する鎖を手放してしまう。暴走させてしまう。それは、それだけは、いけない。
ん? ああ、玲華じゃなくて、俺の命の遣り取りの経験か?
そんなのは、もう、言うまでもない。俺は死んでなんぼ殺してなんぼの特性、即ち我的魔術を持った人間だ。何度港元市の実験でこの身を破壊されたか覚えていない。いや、思い出したくない。
いいや、もしかしたら、本当に覚えていないのかもしれない。いいや、もしかしたら、もしかしたら、本当はそんなことは藤原衛紀の身には起こっていなかったのかもしれない。そうだ、藤原衛紀は何も知らない。
ん? ああ、我的魔術についてか?
言われれば分かると思うんだが、梵的魔術と対になる魔術の概念だよ。
梵的魔術が学習や経験による後天的な知識による魔術であるのに対し、我的魔術というのは才能や体質といった先天的な特性による魔術のことだ。我的魔術だとか難しい言い方をするが、ぶっちゃけて言うと、超能力、ってヤツだ。港元市ではもっと分からん複雑怪奇な説明をしていたが、日本ではハッキリと超能力と呼んで構わないって習った。
んで、その我的魔術の名前は対極の関係にある梵的魔術と同様、古代インドのウパニシャッド哲学における個人を意味するアートマンという概念に起因する。勿論、その概念を魔術に組み込み、命名をしたのも梵的魔術と同様にクロウリーとかいう胡散臭いオッサン、じゃなくてそういう名前の魔術師によるものだ。
ん? ああ、魔術の種類についてか?
だから、魔術という現象を分類しようと思えば、真っ先にこの先天的な特性や才能による我的魔術と、後天的な知識や経験による梵的魔術の二つに分類出来るのだ。
そして、梵的魔術を更にローゼンクロイツ的弁別法で更に四分割出来る、ってのが前回のおさらいってヤツだ。ほら、第Ⅲ種魔術群だとか第Ⅵ種魔術群ってヤツだ。
我的魔術もその中でいくつかに分類出来たかもしれんが、細かいし、港元市で習った内容だからな、忘れた。恐らくそんなことは俺にとってはどうでも良いからな。
あ、ははは、俺、何言っているんだろうね。
なるほど、これは水だ。悪い話を流し、消し去るためだけの。
この水の出所はハッキリしないけど、それもそれで良いんだ。頭の中を駆け巡る嫌なことは忘れてしまいたいものだからな。そうだ、全部忘れちまえ。
よし、次はもっと別の事を考えてやろう。大丈夫、魔術の種類や日本のわらべ歌の都市伝説よりは有益な事案だ。ずっと、ずっと有益なことだ。それはつまり、今日の失敗した作戦と明日に向けての作戦について、だ。反省会って感じだろうか。出来ればルナも混ぜてやりたかったんだがな。
***
さて、この謎の符号を使って区切れば気持ちも切り替わるだろうか。この記号は確か、アスタリスクって言ったっけか。
でも、やっぱルナの事思い出したら不安で仕方ないな。思い出したっていうか、ずっと心配だったけど、一度思考の表に出してしまうとだなあ。何とも形容し難いが、とにかく、嫌な胸騒ぎがするのだ。
ああ、いかんな。今は反省会だ。さ、切り替えだ、切り替え。んじゃ、反省会、行ってみようか。
俺たちの通う戦蓮社高校までの距離は何度か言っているが、ここからは案外遠い。自転車でも一時間くらいはかかってしまうのだ。地理的に言うと、戦蓮社高校から北東の方向へ徒歩二十分で戦蓮社駅やショッピングモール、同じく戦蓮社高校から南西方向へ徒歩三十分で我が藤原家。戦蓮社駅とショッピングモールから南東へ徒歩一時間程度の地点がさっき、ルナと戯れ、玲華と共に走り抜けた河川敷の辺りだ。
ここで問題になる、というか、皆さんが疑問に思っているのは、通学途中の景色でも、駅やショッピングモールへの道の途中の景色でも、当然ながら河川敷からの景色にも映っていた九頭龍川のことだろう。九頭龍川はまず、戦蓮社の北西方向にある果処無村の九頭龍湖を源とし、九頭龍滝から昨夜の激突のあった地点を流れ戦蓮社村に入る。そのまま川は下って藤原家と戦蓮社高校の間で大きなカーブを描く。物凄い湾曲を描いた九頭龍川は村の西側をぐるっと回り、隣町との接点である大きめな橋の辺りで比較的真っ直ぐな流れを始める。そこが丁度、俺と玲華が爆走自転車で駆け抜けた河川敷の辺りだ(つまり、俺たちは川の下っていく向きとは逆方向に爆走したということだ)。その河川敷をずっと下って、漸く、戦蓮社高校と戦蓮社駅の間を流れていくのだ。
つまり、九頭龍川は北西にある果処無村から東、戦蓮社村へ流れ、そこから南の方角へ大きく湾曲し、再び北に向けて真っ直ぐと流れる変な川だ。戦蓮社村の開拓時に川の向きを変えた大きな工事があったらしい。要するに、戦蓮社村へ流れてきた九頭龍川は丁度、U字を描いているのだ。複雑に山が入り組んでいる戦蓮社村だからこそ工事は難航したものの、上手い具合にU字に流れたのだろう。
U字でも、まだややこしいと思う皆様のために川の流れる順序をひとまず教えておこう。メモの用意は良いだろうか。まず、川上から九頭龍湖、九頭龍滝、昨晩の戦場跡、自宅や高校付近、ここから物凄い湾曲(ここが工事開始地点)、湾曲が終わった辺りから例の河川敷、駅やショッピングモールってところだ。
んで、玲華はともかく、何故俺がそんな自宅から最も遠い河川敷にいたかをそろそろ教えようか。というか、そんなのは言わなくても分かるだろうが、昨夜の戦場跡である九頭龍川の下流で色々探そうと思っていたからだ。川というものはいかなる天変地異が起こらない限り、川上から川下へ流れていく。川上にあったものも川下に流れ着き、川下から川上に溯って行けば調査は効率的に進むだろうと思ったわけだ。
だけど、その通り、件の天変地異は起こってしまっていたのだ。俺が川に打ち込んだ術式が脆かったせいで、変換された川の流動に耐え切れず破損した。そのお陰で川は落差二百メートルの九頭龍滝さえも無視して九頭龍川は逆流してしまったのだ。
即ち、本来であれば川下に流れ着くであろうモノは、そりゃあ幾分かは川下にも流れているだろうが、九頭龍川の始まりの地、九頭龍湖の底に沈んでしまっている可能性もあるのだ。あの大きな湖に沈んでしまうと、川に流れるのには相当時間がかかるだろう。そういうわけで、俺の本日の川下から川上に向けた作戦は大失敗に終わった。声を大にして言いたくはないが、俺の作戦、実は玲華が乱入する前に失敗していたというわけだ。いやあ、恥ずかしい限りです。
だが、何も悪い事ばかりではない。というのは、同じように川下から調査を始めたと思われる港元市の魔術師の作戦も大失敗に終わっているはずだからだ。
今頃、あの無口無表情クリップ魔術師の霧谷がご自慢の眼を剥いて川の流れを観察しているところかな。ははッ、あの矢吹が悔しそうに歯噛みして地団駄を踏む様子が脳に浮かぶ。ざまあねえな。俺もお前と同じ気持ちだぜ、馬鹿野郎。
っつうか、霧谷の眼は一体何なんだろうな。俺が港元市にいた頃にEEMCソフトに頼らない魔術の計測器やら魔術兵器を作り出す計画があったもんだから、ちょっと気になってな。ほら、俺がレストランで何か知っているかも、って思った事だ。
でも、炎に炙られて変形し、爆風で軌道を逸らされた銃弾の軌道までをも視るなんてただの計測器どころのモノじゃないだろう。何より港元市で計画されていたのはあくまでもEEMCソフトに頼らない魔術の計測器や魔術兵器を人間の手で「作る」ことだ。あの港元市でも流石にそういう我的魔術を「作る」なんてことは出来ないだろう。
何より、それはルール違反だ。有り得ない。我的魔術を「作る」っていうのは、ある人に特定の我的魔術を持たせる、人間の才能や特性を操作するということだ。まあ、平たく言うと、それは人体実験だ。
だから、そんな事は有り得ない。港元市が真っ先に世界に広めた人体実験禁止の盟約に反故するしな。まあ、そうだね、多分俺の知っている計測器の作成計画と彼女の眼は別物だろうね。
ん、本日の振り返りについては終了だ。ここまでだ、ここまで。
しかし、反省会としては振り返りだけに留まらず、今後の計画と行きたいのだが、問題のルナがいないのだ。またルナの事で不安になってきちゃったよ。
俺は背後に玲華という女性を自転車に乗せながら、彼女以外の別の女性に思いを馳せていることに少し罪悪感を覚えた。だが、不安なものは不安なのだ。
そう、何だかんだ言ってアイツは俺の計画には外せない存在になっている。アイツが時々言うアドバイスはマジで役に立つし、純粋に戦闘力の面なら外界との干渉を操作する幽星体とその機敏な判断力と行動力で凄まじい役目を発揮してくれる。
川下からの散策という作戦自体は失敗したものの、本日の計画のアウトラインを設定してくれたのはルナ自身だし、教室から飛び出した時に俺のスクバから玲華に見つかってはいけないアイテムを選り取ってきたのもルナだ。加えて地獄の逃走劇の舞台裏ではルナと魔術師矢吹との戦闘があったに違いない、彼女が魔術師矢吹を食い止めていたからこそ今の俺と玲華はあるのだ。つまり、彼女無しでは俺の計画は破綻してしまうのは目に見えていた。
というか、彼女が有能以前に、彼女は俺に、俺は彼女に誰にも言えない秘密を伝えているということだ。分かりやすく言うと、秘密を共有し合える唯一の仲間ってところか。恐らく、これこそが今の謎過ぎるルナという和服少女と俺を繋ぎ止めている要因の中核を占める部位だろう。
だって、あの秘密はいかに秘密でも一人で抱えるには重過ぎる。だけど、秘密を共有し、それを守れる仲間がいるというのは精神的に安定出来る大事な要因だからな。ルナは大事にしよう。
と、言うわけで、本日の反省会では今後の計画は決まらない。彼女抜きに作戦を考えるとか、馬鹿な俺には荷が重いってんだ。大変投げやりな感じになって済まないが、計画以前に、ルナと合流することを目標としよう。計画なんて二の次さ。
うん。
だから、ルナとはそれだけだ。
ルナとはそれっきりで、それ以上でもそれ以下でもない。
今は彼女に俺の取りこぼした非日常の欠片回収を協力してもらってはいるが、ルナにはルナの生活がある。いつまでも俺の都合に付き合わせて、メイドごっこをさせるワケにはいかない。
秘密を共有し、俺のサポートを務める。今回の件が仮にも終われば、ルナには彼女の家族なり親戚なりのところに送りつける。
それが出来ないなら、我が家から出て行く玲華の代わりに住まわせる程度で良いだろう。そんで、俺たちは玲華の転校していった戦蓮社村で玲華の代わりに色々遊んで、勉強教えてもらって……。俺とルナはそんな普通な生活を送るのだ。
はい、思考タイム終了。
そろそろ後ろの女の子に話しかけよう。
そうでもしないと何か、良くない事に気付いてしまう、気がした。
***
ああ、本当に便利な気持ちの切り替え方法だね。アスタリス君よ。君の今後の活躍に期待しておるぞ。というか、アスタリスクって、俺は一体何をしているんだ。意味不明にも程があるぞ。
俺は収拾の付きそうも無いルナへの不安感を、一旦、棚に置く。まあ、実際のところ、こればっかりは悩んでいても仕方ないからな。
二人乗りでギリギリ越えられそうな坂道はルナについてあれこれ考えている内に、放物線の頂上を越え、今、ゆっくりと下向きの曲線を描いているようだった。
大きな駒ヶ岳の山中にありながら開けた土地、そこは俺たちの住む戦蓮社村の中心地に入ってきたということを意味する。俺がふと安心すると、そこに追い打ちをかけるように両脇の雑木林に引っ掛かっていたと思われる蜘蛛の巣が髪の辺りにぶつかり、頭上に嫌な感触を与える。
だが、鬱蒼とし、鬱陶しい雑木林もあっという間に視界を流れて行き、視界は畑や空き地だらけの見慣れた風景に顔を変えた。俺は開けた視界に多少の眩しさを覚えるが、心地よくも感じられた。
空き地からは無邪気に遊ぶ子供たちが俺たちに気付いてぴゅーぴゅーと口笛を吹いて囃し立て、畑仕事を終えた屈強な若者や腰の曲がったおじいちゃん達が手を振ってくれる。村特有の輪というのだろうか、みんな顔と名前が一致する大切な人たちだ。
ここまでくればもう、戦蓮社高校が位置する村の中心地である北部まではそうかからない。俺はペダルをさっきより三割増しのスピードで漕ぎ、長時間自転車に乗ってきた今日一番の心地よい風を顔に受ける。
突然、後ろで何か動くような気配を感じるが、それは俺の背中に顔を埋めていた玲華が顔を上げたということだった。玲華も雑木林で覆われた視界が開け、村人の営みを感じて少し元気が出てきたのかもしれない。俺も背中にもたれ掛かった彼女の頭の重みが離れるのと共に、肩の荷が少し軽くなった気がした。
せっかくだ、俺がこの一時間ほどの沈黙をどのように破るかを悩み倦ねるが……何と、黙りこくっていた玲華(俺も黙りこくっていたが)の方から沈黙を破った。多分、玲華は持ち前の感覚で俺がこの沈黙を破ろうとした態度を察知したのだろう。本当に気が利く子だ、俺の幼馴染は。
「やっぱり、気になっちゃうかな? ごめんね、粒子系魔術については流動を操作することしか得意じゃないから……」
「いや、お前を後ろに乗せて運転出来るなら問題ない。違和感や不自然なんかは二の次だ」
彼女の言う違和感や不自然の正体、それは歪に変形し(され)、続いて霧谷の弾丸で俺の人差し指もろとも粉砕されたママチャリの右ハンドルだ。粉砕されてただの破片と成り果てたハンドルは、玲華が粒子の結合だとかいう不思議な魔術で直してくれた。
彼女曰く、第Ⅵ種魔術群の粒子系魔術、だそうだ。さっきの気流操作の時も出てきたが、うーん、やっぱり詳しくは説明出来ないなあ。数年前に勉強した思い出もあるんだけど。そもそも、第Ⅵ種魔術群ってかの卑金属を貴金属に変える術、錬金術くらいしかまともに覚えていない。他に何かあったけ?
俺が首だけ傾けると、背中に掴まる彼女は俺の首の傾きが変わっただけで俺の無知を見抜いたようだ。プロだな。
「第Ⅵ種魔術群の大半が、私が今使っている粒子系魔術と、それの対を為す波動系魔術だよ。衛紀くん、勉強サボり過ぎじゃないかな?」
「粒子と……波動。粒子と波動かあ。って、それ、物理じゃねえか。俺が得意なのは生物なんだよ。物理はどうも肌に合わないんだ」
玲華は後ろからもごもごとくぐもった声で、恐らく溜め息混じりで説明してくれた。はあ、せっかく何か玲華と間の抜けたお話が出来ると思ったのだが、始まった会話は文系バスターの異名を持つ(俺が今、命名した)物理っぽい領域。というより、物理という科目そのものの話だ。
まあ、生物が得意とは言ったが、実は玲華に生物のテストではボロ負けだし、おまけにあの馬鹿燎弥にも負けている。あくまでも、物理よりは得意、というだけだ。でも、世界史なんかよりは全然良いんだけどね。
でも、幾らそんな愚痴を零しても、自然法則や科学を魔術のベースとする魔術群、即ち第Ⅵ種魔術群で粒子だとか波動だとかいう物理っぽいワードが出てくるのは当然か。確か、あらゆる物質やエネルギーは粒子か波動かの性質を持つんだとか、その両方の性質を持つんだか忘れたが、これらが自然法則に基づく自然現象での役割が大きいのは言った通りだ。物理学っていうのは、あらゆる事象の最小単位の学問だからな。
そう考えると、自然法則に基づく自然現象と大きく関連する第Ⅵ種魔術群においても粒子と波動、その双方は重要な概念であるということだ。いやはや、失敬、忘れていた。誠に残念な話だが、今、それを改めて思い出したという感覚は一切無い。けれども、寧ろ、錬金術とかいう中世のちゃちいオカルトめいた科学とは名状し難い何かこそ、純粋に自然法則や科学を魔術のベースに添える第Ⅵ種魔術群に似つかわしくない気がする。
いやいや、まったくごめんね、どこぞの魔術師にして錬金術士のパラケルススさん。アンタが蝶よ花よと愛でてきた秘蔵の奥義ホムンクルスなんて、今や魔術で動いてかりそめの意識や知識を植え付けられた人形、所詮は使い魔でしか無いんですよ。
と、俺の恥ずかしいミスの腹癒せで伝説の錬金術師がけちょんけちょんに罵られる一方で、俺が港元市から引っ越す前の話で今はどうなのかは知らんが、港元市の『術位階層序列』の栄えある第一位は確か錬金術師みたいな奴だったなあ、とか思い出した。ふっ、何だか矛盾に満ちた世界ですね。いや、本当に。
それにしても、昨日はアリストテレスだとかプラトンのイデア論を熱弁していたというのに、今回は物理学っすか。本当に知識の底がありませんね、文系理系を極める滝沢玲華さん。
「あー、でも、言われてみれば粒子だとか波動とかもあったな。うん、あったあった。何を言っているんだ、玲華。そんな基礎事項、不肖藤原衛紀が知らないことがあろうか? 舐めているのか?」
「……後で衛紀くんの、スパッ、とね? ふふ、楽しみだなあ。衛紀くんの……ソレ。ふふ、ふふふふ」
「申し訳ございません。知りませんでした」
真後ろから何か夕焼けを跳ね返す金色の輝きと真っ黒いオーラが見えた気がしたので、素直に謝っておいた。素直に謝罪する、これは良い事だ。
流石に神をもぶった斬るようなもんで切られちゃあ、いくら不死身でもたまらないってもんだ。しかも、一日の内で二回も。アレ、滅茶苦茶痛いんだぜえ?
「とりあえず話戻すけど、断面にある粒子同士を魔術で無理矢理繋ぎ直しただけなんだよ。さっきも言ったけど、私が得意なのは粒子の流動を操作することぐらいだからね。くれぐれも過信しないように」
「粒子の結合に、流動だと……? うーん、化学の教科書に載っていたな、多分。いや、生体流動は聞いたことがあるぞ。これは生物の範囲だ」
仕組みはともかく、役割としては「所詮はボンドみたいなものだよ、びよーん」と彼女は言う。後ろにいるから見えないが、恐らく、手で糸を引くジェスチャーでもしているのだろう。
誠に申し訳ないけど、粒子の結合だとか流動だとかは意味不明のままだったが、自転車の修理はありがたい事に変わりはない。俺は素直に褒め、感謝しておく。うっかり説明を求めてしまうと、ここから数時間は彼女の物理学と粒子系魔術の授業になってしまうからな。
「専門外とお前は言うが、よくもまあ器用な真似が出来たもんだ。感心するよ、ありがとな」
「ふふ、ありがとね。この力は全て衛紀くんのためにあるものだから、お役に立てて嬉しいよ」
褒められて照れているのか、彼女の声は心なしか少しくぐもって聞こえた。
こんなワケの分からん物理学と粒子系魔術のお話で、彼女は満足したように俺の背中に頬擦りをしているのが分かった。彼女と違ってこの辺りのアンテナが低い俺は全然面白くなかったが、彼女の緊張や震えも収まったようだし、結果オーライか。
俺は錆び付いて絵が読めない道路標識を一瞥し、目的地の辺りを流れる九頭龍川に再び相見える。もう、俺たちの長きに渡った自転車の旅の目的地は目と鼻の先だ。旅だなんてちょっと誇張した言い方だが、そのくらいには脚がガクガクしている。こういう疲労は残念ながら俺の不死性による再生は見込めないらしい。クソッタレ。
これから大きく湾曲する九頭龍川に架かる幅の小さな橋を渡り、春先から精の出る五、六人のマラソン部員らとすれ違い、桜の花びらが泥に塗れて見た目の悪い絨毯を越えれば、そこはほら、俺たちの通う戦蓮社高校だ。帰宅する生徒ともちらほらとすれ違い、もう本日の戦蓮社高校の授業が終了してしまったということが分かった。サボって済まんな。
「やっと学校着いたね。お疲れ様だよ、衛紀くん。乗せてってくれてありがとうだよ」
「ああ、やっとこさ着いたよ。よし、荷物持ちの燎弥からスクバ搔っ攫ったら、即行で帰宅、風呂、食事だ」
俺たちは自転車に乗ったまま校門を通り抜け、自転車置き場に向かった。その時、マナーにうるさい玲華が自転車から降りて校門を通過しろって軽く小突いたけど、まあ、許せ。
自転車置き場は放課後もあってか、疎らにスペースが空いており、俺はそのスペースに自転車を止める。だが、何と言うか、他の自転車と違って有り得ない程ひん曲がっているハンドルを持つ俺の自転車はやはり目立つ。カッコイイ。
そして、一番俺が恐れていたのがこの足とペダルを引き剥がし、無事にコンクリートの大地に降り立つという作業だ。もはや一体化してしまった足をペダルから引き剥がすのは変な気分がし、コンクリートに着地すると足裏から膝にかけてじわじわと気持ちの悪い痺れが走る。ああッ、ほら、もう案の定太腿がパンパンだよ!
「玲華。後、このパンパンに膨れた太腿、もとい脚を何とかしてくれ」
「分かったよ、今日の勉強終わったら、寝る前にマッサージしてあげるよ。でも、ちょっと家事が忙しいな。衛世さんが帰ってきてれば手伝わせたいのに」
「そ、そうだな……。アイツ、今日帰って来なかったら捜索願でも出してやるぞ、畜生。でも、出来ることなら俺も手伝うからな」
自転車から降りた玲華は黒髪のセミロングをかき上げながら軽く呟く。彼女からしたら軽く呟いたことなのかもしれないが、長時間の二人乗りから解放された俺は思わぬ追撃を背後に食らった気分だ。
俺は必死に平然を装って彼女同様に軽々しく捜索願だとか呟くが、余りに意図せぬ追撃だったので声が若干うわずってしまった。幸い、彼女は俺が自転車漕ぎで疲れているからだと思ってくれたようだが。
んー……そうなんだよな、衛世について彼女は何も知らないままなのだ。生前の彼は一晩ほど隣町の飲屋で呑み、路上でブッ倒れているなんて話も聞くから、彼女はさして気にしてないのだろう。警察からの連絡で路上にブッ倒れた衛世を連れて帰るというのは、実は先週もあった話なのだ。皮肉にも生前の彼の悪癖が今の俺を助けてくれるとは、な。
だが、今の俺としては衛世に関するワードは、ルナや指輪型の宝具『暁月の環』同様、彼女に触れられてはいけないワードランキング上位に位置する。いや、もしかしたらルナを差し置いて第一位かもれない。それだけ父の死は重い。
「おおーっ、青春していますなぁお二方。いやあ、青い春なのに熱い熱い」
と、焦っていた俺の耳に歪なノイズが走り、目の前には深刻なエラーが表示された。視界に表示された深刻なエラーは上方にツンツンの金髪らしきものを乗っけて、顔面と思しき部位にムカつく表情を浮かべ、戦蓮社高校の男子のダッサイ制服をだらしなく着用した男子として表示されている。
加えて深刻なエラーから生えている両手と思われる部位は団扇のように扇がれているように見える。自身がどのようなエラーであるかを示す、一種のサインなのかもしれない。マジでムカつく挙動だな。捥ぐぞ。
更に俺を苛つかせる波長や音程、そして語彙を兼ね合わせた凄まじい負のコンボを決めたノイズは、視界に表示されたエラーとの相互関係を察するに、我が悪友の燎弥であることが考えられた。
あれ、お前の名字って何だっけか。というか何でここにいるんだ?
「なあ、何か俺の扱い酷過ぎね? この荷物持ちを務めていた偉大なる影の功績者、天草燎弥様に労いの言葉はいかがですかな?」
「うん。ご苦労様だよ、燎弥君。荷物、持っていてくれてありがとね」
玲華は頭をぺこりと下げて丁寧にお礼を言うと、燎弥は「いえいえ、畏れ多いです」と恭しく頭を下げた。挙動がいちいち癪に障る。
止めとけよ、玲華。ソイツに頭を下げる価値はないし、ソイツから頭を下げられるだけの価値さえもない。
とは言え、これでも確かに教科書がぶち込まれたクッソ重いスクバを気にせず自転車を爆走させられたからな、お礼は言ってやる。不死身とかいう性質を持っている俺でも一応は人の血を流す者だ、礼儀くらいは知っているつもりだ。
「どうもありがとう。俺たちの荷物を持っていてくれてありがとな、燎弥」
「おうおう、感謝とは実に良いものだよ。ところで、衛紀くん、君は言葉とは実に脆くて曖昧な存在だと思わないかね?」
「然り、言葉とは脆い。だが、金は払わないぞ。一銭たりともな。代わりに財布に溜まったレシートだけくれてやる」
玲華の時と対応が冷遇過ぎるだろ。玲華の言う「ありがとう」と俺の口から発せられた「ありがとう」に何の価値の差があるんだ。まあ、俺もお前の口から発せられたあらゆる言葉より、玲華の口から発せられる言葉の方を選ぶが。
ルナへの奢りのせいで金欠の俺はすっからかんの財布を開き、財布の重量の八割を占めるレシートの束を労いの品として進呈しようとする。しかし、何故か燎弥は俺からのありがたいレシートの束を一向に受け取ろうとしない。一体、どうして彼は俺からのご好意を受け取らないのだろうか。
しかも、彼は俺が財布を取り出す際にもチッチッと指を振ってやがった。本当に気に食わない挙動をする男だ。彼はそのまま教師が言いそうな口調で語り出す。
「馬鹿だなあ、衛紀くん。お金もレシートも欲しいと僕は言ってないのだよ。お金も言葉と同様にその価値を時代ごとに変化させていく。時代を経れば日本銀行券もそこのレシートの束のように価値を失う可能性を充分に持つし、歴史上、紙幣の束が子供のブロック遊びに使われた例もある。つまり、僕は時代を経ても高価値を持つものが欲しい」
詳しくは第一次世界大戦とヴェルサイユ条約、ルール占拠、ハイパーインフレ、レンテンマルクを参考に、と燎弥は付け加えた。流石は文系男だ。未だに中世の歴史もやっていない世界史の授業の先取りをしていやがる。第一次世界大戦とか、進み過ぎな気がするが。
でも、この俺も資料集では見たことあるぞ。インフレだかデフレだかは知らんが、子供が紙幣の束を積み上げているあの白黒の写真だ。
「経済学の授業か? んで、結論は何だよ、お前は何が欲しいんだよ? 時代経ても変わらないものって何だよ、友情とかか? 良いか、良い言葉を教えてやる。この世は諸行無常、そんなものは無いのさ」
「四の五の言わずに金塊よこせ。五十オンス程度で許してやる。さあ、寄越せ」
話にならない。
というか、何となく論破された気さえする。
金塊は確かに歴史上、どの時代でもその価値を保っていた気がする。
ぐああ……これがスーパー文系少年の燎弥か。すっげえ悔しいし、すっげえウザってえ。
「金一オンスで、日本円に換算すると何十万円って単位よね……。それが五十オンスって……。と、ところで、燎弥くん、私と衛紀くんのスクールバックはどこにあるの?」
「ああ……悪いね、滝沢さん。それがね、悲しいことに、我がクラスの女子の方々が、『滝沢様のお荷物はお前のような男に持たせてはなりません』って言って女子数名が厳重に保管しているよ。本当にゴメン。あと、衛紀のスクバはこの学校内に隠した」
ふふん。分かっているなあ、我がクラスの女子の方々は。このようなだらしない男を信用してはいけないのだ。というか、お前、玲華の荷物預かっていないのに玲華の頭を下げさせたというのか? 何たる無礼、訴訟も辞さない。
「え、えええええ?! そ、そっか、ごめんね、燎弥くん! 私、荷物取りに行ってくるね、ありがとね!」
「本当にゴメン、滝沢さん! この天草燎弥、全身全霊をかけた反省を……!」
玲華は慌てて失礼しますと律儀に頭を下げ、校庭の砂を巻き上げながら教室のある校舎内にダッシュして行った。おいおい、廊下では走るんじゃないぞ、玲華。
俺はマナーにうるさい玲華にマナーを突っ込みつつ、目の前で感慨深いような表情をした男に向き直る。彼は玲華を見送ると、ポケットからこの村で二、三台しかないスマホの一台を取り出した。さっきまでのちゃらけた彼の雰囲気とはまるで違う。極めて業務上のような、殺気立ってはいないものの、鋭い雰囲気になる。
「おい、俺だけに何か用があるからこんな真似をしたんだろう? わざわざ俺のスクバを隠さなくても良いじゃないか」
「ああ……そうだよ、衛紀。ちょっと、気になることがあって、ね」
燎弥はスマホの画面を指で上から下になぞり、何回かタッチした。恐らく、彼がここ最近ハマっているTwitterで、何かしらのツイートを探しているのだろう。
俺は昨日湖で天寿を全うされたスマホを追悼しつつ、彼がおもむろに見せてきたスマホの画面に表示されたツイートを、具体的にはそのツイートに添付された画像を見る。
何かしら記事のまとめ速報のツイートなのだろうか。試しにツイート左端にあるアイコンを見てみると、ピンク色に三文字の平仮名が記されたアイコンが見て取れた。
だが、そんなことより、問題はこのエンタメブログのTwitterアカウントではなく、俺の注視する件の二、三枚程の画像だ。
何と……どの画像も、非常に見覚えのあるものだった。しかも、超最近の出来事、というか今さっきの出来事だ。
俺がそれをぐいと覗こうとすると、燎弥はこれ見よがしに掲げていたスマホをしまってにやにやしながら尋ねる。ムカつく、もうちょっと見せろよ。
「これ、何だと思う、衛紀くん? 新手な二人乗りデートってヤツか?」
「デートじゃなくて、今時流行の二人乗りダイエットだ。太腿の辺りがパンパンに膨れて凄まじい程の激痛を催す。俺はオススメしないぞ」
燎弥は俺の制服のズボンの辺り、脚が痙攣しているのをちらりと見て、「捲らなくても辛そうだわ」と嘯く。捲らないでくれ。男に捲られ、生足を見られる趣味は持ち合わせていない。
そして、燎弥はまたスマホの画面をちらりと見て、感慨深い表情を切り替え、怪しい笑みを張り付けた表情で尋ねる。
「ふうん。ただのダイエットなのか。でも、タダのダイエットにしては変だよなあ。何でも後ろからは弾丸が追ってきているっていうぞ?」
「これだ」
俺はコイツが全て分かった上で質問してきていることを理解し、半ば諦めがちにポケットから一片の金属片を取り出す。そして、辺りの生徒がこちらを見てないかを確認して金属片を指で摘んで燎弥に見せつける。
一片の金属片というのは、いちいち言うまでもないだろう。
俺が摘み上げたその金属片は、一発の銃弾だ。
俺の後頭部を打ち抜き、玲華がキャッチしてくれた銃弾。その銃弾は灼熱の炎に焼かれ歪に変形し、跳弾狙撃の痕であると思われる大きく凹んだ部分が一箇所だけ見られる。
燎弥は銃弾を眉間に皺を寄せて観察をし始めたが、しばらくするとやれやれと頭を手で覆って何かぼやく。何か、良くない事態だと判断したようだ。
「衛紀、お前が厄介な事になる前に釘を刺しておく。いわゆる、情報屋からの警告ってヤツだ。そろそろ、場所を移そうか」
刺々しかった田舎の夕焼けは、静かに終わりを迎えようとする。
夕闇の奥からは、ちらほらと寒々しい青白い星が見え始めた。




