LVNH//O//2038/04/14/12/36//TE-01/2021/05/22//FCE
「お、お客様………お料理、ご用意しても宜しいでしょうか」
「あ、はい。どうぞ」
さて、雰囲気はまたしてもウエイトレスさんの活躍によって粉砕され、それにつれて店内にかかる間の抜けたBGMが徐々に聞こえるようになる。重々しい雰囲気は次第にカジュアルな雰囲気へと移り変わり、カジュアルだなんてちょっと小洒落た横文字を使うくらいの余裕は出てきた。今はひたすらこのウエイトレスさんの空気の読めないのか、読めているのか分からんセンスに頭を下げるばかりだ。本当にありがとう。
テーブルにはやっぱり忘れてしまったが、イタリアのどっかの地名を冠したドリアがおどおどしたウエイトレスさんによって配置され、香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。確かに今朝は朝食を食べたものの、ルナの土下座と玲華の奇行のせいで何だか味のしない何かを食っているような感じしかしなかったのだ。今すぐにでも目の前の香ばしいドリアを食べたくて仕方ない。
だが、一瞬、目を疑った。次に女神のようなウエイトレスさんを疑うが、逆に彼女自身も何か不思議そうに料理を置いている。何故かって、それは同じテーブルに同じドリアが四つも置かれたからだ。こんな偶然があるのか。
「……まさか、全員この料理とは」
「そッ、そうよッ! どうせ『例外』中の金銭問題に関しては任地までの交通費しか支給されないんですよッ! 全然金無いんですよッ!」
矢吹はキーキーと怒鳴りながらフォークをドリアにガツガツと突き刺す。あの、突き刺すのは構いませんが、ドリアはフォークでは食べないでしょうが矢吹さん。少しは落ち着こう。
対照的に霧谷は寡黙なる無感情ボイスでいただきますを言い、黙々と食べ始める。是非とも矢吹さんも霧谷さんを見習ってお行儀良くお食事をして欲しいものです。食べ物への感謝を果たして無感情ボイスで行うのもアレかもしれんが。
俺も彼女たちのようにそろそろドリアにありつきたいのだが、残念ながらそうはいかないのだ。俺にはまた一つ乗り越えなければならない試練が残っているのだ。言うまでもないだろう? ルナだよ。
ご存知の通り、現在のルナは外界との干渉率が最低ランクの幽星体状態だ。俺以外の外界のモノを幽星体の支配下に置くためには、ルナが言うには一旦幽星体を解いて通常体か生気体の状態となって対象物と接触した状態で再び幽星体に戻るという非常にややこしい手順を踏まなくてはならないらしい。それでこそ幽星体としての秘匿性が保たれるんだとか……。
だから、今、この空席に置かれているドリアをルナが食べるためには一旦生気体の状態になって、食器と接触して再び幽星体に戻る、しかもそれを俊敏に行う必要があるのだ。その作業をしなくてはルナがスカスカとドリアに向かってスプーンを突き刺すという非常にひもじい様を見なくてはならなくなる。
だが、今、この場でルナが幽星体を解くのは少々難しい。さっきまでなら、まあ、何とかなるか、とも思ったがそうはいかないのだ。
理由は、眼。
つまり、霧谷の持つ魔眼だ。
魔眼とは一口に言っても、千里眼や顕微鏡だとかいう超基礎的な機能から、スローモーション化や物体の脆弱点、魔力の流れ、波動の動きを直視したり、またもや未来視やら視線上の物体の切断、爆破なんていうチートじみたものまであったりするのだ。そんな流れで、当然ながら赤外線を用いて熱源を探ったり、空気の流動を直視したりすれば、如何に外見が透明であってもそこの虚空には人間がいると分かってしまう。
そのようなことがあれば、ルナがたとえ彼女たちに危害を与えることがなくとも(さっき魔銃を突き付けていたけど)、俺がこの場に誰かを忍ばせていたという時点で彼女たちとの激突は避け得ぬものとなるだろう。先ほどの一瞬のピリピリした雰囲気、正に一触即発という四字熟語がピッタリ合う。まあ、あれこれ可能性ばかり述べといて何だが、果たして彼女の魔眼が何の機能を持っているかは分からない。
だがな、ここで俺の危機意識の低さへの苦情は止めてくれ。最初からこんな港元市製の魔女JK共とテーブルを一緒にして食事をする気などハナから無かったのだ。そもそも、こんなド田舎の平日のお昼のファミレスに客なんて一人もいないと思っていたのだ。事実、俺たち以外の客は三、四組くらいしかいない。経営破綻寸前過ぎるだろう。だが、今はこのファミレスもといショッピングモールの経営不振よりも俺とルナの問題に気を配るべきだ。
もう、超古典的なアレで行くしかあるまい。ええい、ままよ。俺は思い切り人指し指を立て、それから中指、薬指、小指、そして親指、つまり五本の指をピンと伸ばして腕全体をやや上方に向ける。脳内には打ち出すべき詠唱の堅固なるイメージと、俺の勝利への絶対的な揺らぎない確信。五本の指先に全身全霊の力を込め、さながらナチ党員のような格好になるが、俺は止まらない。
そして、一つの詠唱を紡ぐ。
「ああッ、UFOだッ!」
UFO。
Unidentified Flying Object、つまり、未確認飛行物体。
中空を怪しく飛行し、多くの人々の知的探究心をかき立ててきた未知の物体。
注意逸らし(俺が今、勝手に創作した名前だ。格好良いだろう、お前にパクる権利を与えよう)の常套句にして、長き伝統を受け継ぎ、歴戦の結果を誇る超古典的戦術。それでいて決して廃れることはなく、いつまでもその伝統と効力を束ね、今日も今日とてその鮮やかな勝利と誉れをもって凱旋す……ッ!
「窓ガラスは……アンタの後ろよ」
あ。
や、ややややや、やっちまったああああ!
あの歴戦の勇者「あっ、UFOだッ!」先輩が敗れただと?!
何と計画の要である注意を引きつけるべき店内と外界への繋ぎ目、つまり窓ガラスが張られてあるのは俺とルナの背面であり、矢吹や霧谷からしたら振り返らずとも窓ガラスが見えるのだ。そんな状況の中で俺が「UFOだッ」だなんて言ったってそれはもう嘘以外の何物でもない。気の動転の余り矢吹や霧谷の背面、つまり壁に向かって指を指していたし。超古典的な作戦はかくして塵屑と成り果てた、主に俺のせいで。
どうしてもこの世界は俺の望むように動かないことはよーく分かった。さっき学ぶべきだったよ、畜生め。本当にこの世は俺にツンツンし過ぎていると思う。俺がしっかり窓ガラスの位置を確認しなかったのが悪いんだけど。
「ど、どこ、どこですか、ご主人様! UFOどこですか!」
で、何でルナさんが目を超キラキラさせながら振り返ってUFO探しに夢中になっているんですか。何もかも全部お前が安全に、安心してお食事が出来るようにするための俺なりの作戦だと言うのに!
この超古典的作戦はもう二重の意味で失敗に終わり、小声で俺が嘘だと言うとルナはしゅんとなって黙々とドリアを食べ始めた。そ、そんなに落ち込むのかよ……いや、マジで済まなかったって。
しかし、超古典的な作戦が失敗してしまったからには、一体次は何の作戦でいけば無事にルナに安全に食事を与えられるだろうか。早くしないとルナのドリアが冷めてしまう。ルナには是非とも暖かくて美味しいものを食べさせてあげたいのだ。さっき、和服のままで走らせちゃったし、身体強化の魔術まで使わせちゃったし。この素直じゃない俺も、ルナには幾ばくかの罪悪感を抱いているのだ。
ここにきて遂に俺が何やらおかしな行動を取っていると確信した目の前の女子共は(ちょっと遅いと思う)小学生女子の得意技であるヒソヒソ話を始めた。
ああ、それ、やめてくれ。ヒソヒソ声というのは意外と聞こえるものなんですよ。それに式神なんて連れてないっすよ、矢吹さん。俺は陰陽術師なんて名乗れるような高位な魔術師じゃないからな。
式神というのは、ローゼンクロイツ的弁別法における第Ⅲ種魔術群に該当する陰陽術でお馴染みの陰陽術師が低位の妖怪か何かを使役するというアレだ。式神の種類も何だか色々あるらしいが、俺は門外漢なので黙っておこう。あの陰陽術が第Ⅲ種魔術群に含まれるのはちょっと意外だったかな。陰陽術も日本や中国の思想、一種の哲学をベースにした魔術だからな。それに、ローゼンクロイツ的弁別法というのは、元々は無理矢理分類したらそこに行き着いた、って感じが強いものばかりだからなあ。神話や宗教、科学以外の「考え」というものはローゼンクロイツ的弁別法によると哲学という扱いになるらしい。ほら、酷く適当な分け方だろう。これがこの世のスタンダードなのだから、魔術もまだまだ意味不明な領域だ。
とにかくだ、ルナは魔術やら式神じゃなくてれっきとした人間なんだ。とはいえ、ルナをメイドとして使役している以上は式神というのはなかなか本質、ではなく実存を突いた良い解答だと思う。実存主義って何だっけ。これまた哲学の話か。文系少年の燎弥の詳しい領域だな。勿論、玲華も。
そんな当事者ルナは難しいことを何にも知らないかのように美味しそうにドリアを食べ、時々その笑顔をこちらに向けてくれる。まあ、コイツが幽星体だろうと何だろうと、その笑顔が見れれば今回の収穫は得たようなものだ。めでたしめでたし。
っておい、今気付いたがルナ、お前何で黙々とドリア食っているんだよ!
「先程、独断で幽星体の支配下に置きました。ご主人様にご迷惑はおかけしませんよ。とは言え、勝手な行動でした。申し訳ございません」
さ、流石は俺の最高のメイドだ。
俺がくよくよ悩まないでいられるように、そして俺が悩まずに快い食事が出来るように、ルナはもうとっくにドリアやらスプーンを幽星体の支配下に置いたというのだ。相変わらずの高速な思考力と俊敏な魔術運用、もう俺の頭にはひたすら小学生並みの感想しか湧いてこない。超凄い。
だがルナよ、ご主人様のご迷惑よりご主人様の努力を返してくれないかね。お前のために俺がどれだけ悩んで目の前の少女たちから奇異の視線で睨まれているか知っているかい? ほら今だって霧谷の赤い瞳がチラチラとこっちを覗いているし。
だけど、これは最初からルナがドリアを幽星体の支配下に置いていたことに気が付かなかった俺のミスだ。今回ばかりは見逃してやる。お仕置きは無しだ。お仕置きをしないことが、彼女への一番のお仕置きなのかもしれないが。
***
「んで、このお札がどうしたんだっての。これの何が君たちの『例外』に触れるってんだ。というか君たちの『例外』の目的って何なんだ」
「質問が多過ぎよ。まあ、順番通りに解答してってやるけど、私もアンタに聞かなきゃならないことが全然あるんだからね」
一通り食事が済んだものの、肝心のお札は未だにテーブルの上に置かれており、おいそれと奪ってとんずらするわけにもいかない。斜め前で霧谷が眼を光らせて警戒しているからな、何かの比喩じゃなくて、マジで。それに、コイツらの『例外』の目的が何であれそのまま逃げるわけにもいかないし、逃げるつもりもないし。結局、今はコイツらの話を聞くしか無いのだ。俺はルナに目配せして最悪のケースに備える。
ルナは俺の真横に立ち、いつでも空間加速砲を放てるように再び安全装置をガチリと解除する。それに気付く事の出来ない霧谷はストローでコップをズゴゴゴと鳴らし、一文字に結ばれている唇を上品に手拭きで拭う。
そして、遂に、その重い口を開く。
「…………まず、この札、及び術式を解析する。すぐ終わる」
「か、解析だって? 何のEEMCソフトも無しにか?」
出鼻を挫かれた。彼女の口から出てくる言葉は余り現実味を帯びたものではなかった。第一の前提として、今の時代では魔具に刻まれた術式だろうと人間が顕す術式だろうと、その解析というのは通常はコンピュータやそれに準じる精密機器、それに搭載されたEEMCというソフトによる解析が主流なのである。人間に出来る解析の範囲とは、ルナがさっき教えたような非常に漠然とした程度のものだ。
そもそも人間と魔術の間を取り持つ存在を一般的に術式などと呼ぶが、術式と言ってもその在り方は呪文のような文字列、それに図形を組み入れた魔法陣、完全にデジタル化された数列だったり、衛世や俺たちが組み上げた地形(その地形を魔法陣とするか、若しくは記号として使う)を用いたものだったりと多種多様だ。しかも、実はこの術式というものはあくまで人間と魔術を仲介するものであり、術式自体が魔術であるか、それとも別の何かなのか、というのが非常に大きな議論を呼んだ時代もあった。というか、未だにそれは論争の域を出ず、定義付けもされていない。
それでも、人類は魔術の発動には至らない術式の段階で、その術式がどのような魔術を引き起こしたりするかを予知したり、その魔術の弱点を調査したり、術式の微調整を行ったり、そんな事が出来るようになったのだ。
かつてはこのような術式の解析は出来なくはなかったのだが、解析に用いる計器や機能そのものが魔術を用いたものばかりで、その魔術を使用する術者によって結果が改竄されたり、バラバラであったりなどしたのだ。つまり、観測者という名の魔術師の主観性の強い計測方法しかなかったのだ。
しかし、これでは緻密さや正確さに欠ける。魔術とは言うものの、人間の手で研究される以上、魔術も大きく言えば科学の一分野だ。科学がそんな主観性の強い学問で良いのだろうか。そんな背景で、人類はコンピュータなどの精密機器を用いて主観性を排し、客観的で科学的な術式の解析を可能としたのだ。この技術によって人類は術式をより正確に、より緻密に解析出来るようになったのだ。
こんな事やってのける研究がどこの国家の主導で実施されていたかなんて言わなくたって分かるよな。この成果はまず間違いなくあの国家の国際的地位の向上に一役買っているだろう。発明は世界へ瞬く間に浸透して行き、この日本のド田舎の戦蓮社高校にも一台設置されているくらいである。かの国家が発明したこの解析方式は一般的にコンピュータなどの電子機器を用いるため、電子的術式計測演算機、略してEEMC、と呼ばれている。先程言ったEEMCソフトのEEMCだ。
そんなこんなで長くなって済まないが、術式の解析にはもはやEEMCが主流となっているため、逆に魔術師による魔術で術式の分析を行うなどというメソッドは失われてしまったと言っても過言ではない。それもそのはずだ。もはやそれに変わる便利な機能があり、主観的過ぎて客観視を重視する科学とは相反するものなのだから。
だから、もう個人の魔術で術式の解析をするだなんて古臭いというか、もはや化石とさえ言えよう。時代遅れにも程がある。最先端の科学に時代遅れの化石級の機器を用いるなど、百害あって一利無し、というヤツだ。
俺が当然の疑問を霧谷に投げかけると、霧谷は黙って首肯する。まさかこの女はそんな化石級の魔術を扱えるというのか? いや、それとも、まさか……。
と、港元市の魔術兵器に関するちょっとした心当たりがあったので俺ははっと顔を上げると、何故か霧谷ではなく矢吹が得意げにふっふん、と腕組みをしていている。気付いたかね、君、みたいな感じだ。何かまた嫌な予感がするぞ。
「そうよ、優梨は術式をその魔眼で視るだけで解析結果を一瞬で叩き出しちゃう港元市最高の計器『人工的外界現象計測演算眼』なんだからね!」
「…………遥、声大きい」
「ごめんなさい。どうかご容赦願います霧谷様」
何でまた矢吹遥は霧谷さんの事をそんな誇らしげに、まるで自分の手柄のように話すんだか。そうして矢吹遥がドヤ顔で霧谷のネタバレをすると、今度こそ霧谷は矢吹をジト目で睨む、いや、多分、睨んでいる。さっきより微かにオッドアイが吊り上がっているように見えるのだ。その魔眼のことは彼女の名字よりも隠しておきたかったことなのだろう。
だが、正直に言うと俺は矢吹が盛大にネタバレさせてくれた『人工的外界現象計測演算眼』と呼ばれる代物がいかなるモノかは知らなかったし、分からなかった。そもそも、心辺りのあった港元市の魔術兵器が実際問題何なのかがまだ俺には分からない。ただ、果たして心辺りのあった魔術兵器とそのカリキュレイト何たらが同一物なのかもしれない、と思ったくらいだ。
まあ、何であれこのお札がどんなモノか分かれば良いんだ。でも、さっきも言ったけど、今のご時世、個人の魔術で術式の計測を行うのは超古典的過ぎるし、主観的過ぎるから御法度なんだぜ……。
「…………解析は完了した」
「って、早いな、おい。で……一体コレは何なんだよ」
「この呪符は戦蓮社村に来た時から視えていた山岳地帯で発生している魔力の流れの正体。正確には山岳地帯に流れている魔力を流しているものの一枚。山岳地帯には他にも同じ効果、或いは似た効果を持つ呪符が多数存在する。これはその内の一枚に過ぎない。呪符一枚一枚が魔力を決まった方向へ流す指向性と、魔力そのものをブーストさせる増幅性を持つ。それらの効果を持った多数の呪符が一つの大きな魔術を生み出している。そう、考えられる」
霧谷はお札を赤い右目で睨みつけながら意外にも饒舌に語り始めた。無口キャラかと思ったが、めっちゃ喋れるじゃねえか、この女。霧谷饒舌モードだ。好きな事はとにかく語り出すタイプの女か?
コイツの眼がどれだけの情報を視覚化出来るかは分からないが、山岳地帯という言い方で山中にある「果処無村」を表すのなら、文字通り果処無村を「山岳地帯」と言うくらいの距離から視認出来るのだろう。さっき矢吹がポロリと漏らした長ったらしい『人工的外界現象計測演算眼』は何かしらの称号や二つ名、魔術名……或いは、兵器名みたいなものだと思う。今、その魔眼に望遠鏡の能力があるのは確定した。透視が出来て魔力の流れも視えて、加えて遠視も出来るだなんて滅茶苦茶ハイブリッドでハイスペックな魔眼だな。俺も欲しい。
ああ……やっぱり霧谷の魔眼が俺としては気になっているんですね。何たってコレは正に目の前に迫る脅威となり得る可能性を持っているのだから。それに、この短時間でこんな緻密に解析するだなんてやっぱり信じられない。客観的なEEMCソフトを普段から学校で使っている身としては、彼女が嘘っぱちを喋っているようにも考えられる。
そうだ、彼女の言う事や魔眼を警戒はしておいて問題はない。俺は寧ろ彼女の魔眼をより警戒するべきなのだ。しかし、彼女の発言の端々には確かに引っ掛かる点があった。それは先程、ルナが大雑把に調査したと言った時に序でに聞いたことだ。
「一枚一枚が一つ魔術を生み出している。つまり、全体性、か……」
「そう、お兄ちゃんの言う通り。この呪符、この文字列という術式は一つの大きな魔法陣という術式を形成する事を最初から強く意識して作成されたものと考えられる。全体性を強く意識しているため、その一枚を剥がしても残った呪符がお互いを補完し合うように作られている。よって、この呪符一枚を剥がしても魔法陣全体にダメージはほとんど無い。今、視認する限り……魔法陣全体を百パーセントとすると、この呪符を取り除いたことによる魔法陣の損壊の程度は小数点以下三桁程度のパーセンテージ分と見られる」
霧谷は眼をやや窓ガラスに見える果処無村のある山岳地帯をちらと一瞥してサラリと細かい数値、0.002パーセントと言ってのける。って、ほとんど壊れてないじゃねえか、魔法陣。しかも、このお札には小数点以下三桁くらいの効力しかねえのかよ。雑魚過ぎだろ。
だが、ルナの調査が大雑把であった割には「全体性」とは真実を突いた一言であるな。そうは言っても、それは霧谷の解析を信じること、そしてルナの言うことを信じるという二重の危険な橋を渡るということなのだが、信じなくては先に進めない。仕方ない。
「ええと、何だ。つまり、文字列という術式で成り立っているお札が、更に規則的に配列されて大きな大きな魔法陣という術式を組み上げている。んで、その魔法陣には高度な防御機能があって現在、破壊されていないのも同然。そういうことだな」
「大きな魔法陣、正確には西北の方角に最も小さい鋭角の対辺を向けた直角三角形型の魔法陣。おそらく、魔法陣である直角三角形の重心となる地点を魔術全体の中核として起動させているはず。いや、寧ろ、物理的に動かせない地点を魔術全体の中核とするためにわざわざ魔法陣を直角三角形に整えたと見られる。魔術の前にまず、物理的に動かせない魔術に必要な場所があったと見られる」
方角と、魔法陣の形、重心、か。俺にはサッパリだったが、昨晩フィリップさんは大きな魔法陣を構成する一枚のお札を見ただけで俺に村の中心地について聞いてきた。あの時の彼には焦りの表情が浮かんでいた。霧谷のような特殊な眼や計器を使わないでも彼は直感的に魔法陣の形を見抜き、同時に魔法陣の中心地も見抜いたのだろう。中心地はきっと、あの祭具殿に違いない。
ははは、これでこのお札があの忌まわしい儀式に絡んでいると確定したな。港元市製の魔術師の力を借りて分かったというのはなかなか癪に触るが、フィリップさんも多分気付いていたはずだからノーカンだ。
「鋭角だとか、対辺って何よ、優梨。大変よ、全然分からないわ。私、数学は全然苦手だって知っているでしょ。あの村に関しての事は今回の『例外』に必要な事よ、ほら、ちゃんと教えて」
「遥は相変わらず数学が苦手ね、これは中学二年生から中学三年生程度の知識。図形によって用語の意味合いは変わってくるので、今回は魔法陣の形から直角三角形の場合とする。その時、鋭角というのは直角より小さい角度を指し、対辺はある特定の角に対して反対側にある辺の事を指す」
「へえ、そうなんだ。全然知らなかったわ。勉強になったわ、優梨」
「…………分かったなら良い。次は水を差さないで、遥。今はお兄ちゃんとこの呪符について話している。数学の話は、また今度」
「う、うん……。ごめんね、優梨」
俺と同じく数学の出来ない様子の矢吹遥はペコペコと霧谷さんに謝って肩を窄めた。霧谷に水を差すなと釘を刺されたのが相当ショックらしい。だが矢吹遥よ、俺も同じ質問をしたかったところなのだ。だが、霧谷の話の流れを断ち切るのも悪くて質問出来ず、有耶無耶にしてしまっていたところなんだ。俺はお前の空気を読まない質問に感謝しているぞ。
数学の話が(霧谷によって無理矢理)一段落し、俺は改めて呪符と呼ばれたお札を見てみる。だが、やはりそのボロボロの和紙に描かれた図形と漢字、そしてアルファベットとアルファベットっぽい文字が圧倒的な違和感を表出している。勿論、そのアルファベットも墨を用いた筆で書かれたようなものであり、和紙に張り付いた墨は乾燥によってパリパリと剥がれてしまいそうだ。文字を凝視すれば、書かれた文字には亀裂のようなものが生じているのが辛うじて見て取れる。こんなボロボロなのに、今でもあの村ではこれと同様の呪符が起動して魔法陣を形成しているとは、少々考えにくい。
だが、魔法陣が破壊出来てないだとかいう以前に、この呪符の根本的な能力が不明なままだ。でも、もしもルナの言うことを信じるのであれば、この呪符の能力というのは、アレのはずだ。ルナを横目でチラリと窺うと、彼女はそのまま目を伏せて頷いた。
「なあ、霧谷。このお札の能力は……まさか、身体強化、ではないだろうな」
「流石は、お兄ちゃん。お兄ちゃんの言う通り、この呪符の中心的な能力は身体強化。しかも、骨や筋肉を直接強化するのではなく、いわゆる脳のリミッターの解除を強制的に行う魔術。仕組み自体はドーパミンやβ-エンドルフィンといった脳の神経伝達物質の異常な量の放出を促すといった第Ⅵ種魔術群の粒子系魔術に分類される非常に科学的な魔術。ドーパミンやβ-エンドルフィンなどの神経伝達物質は別名、脳内麻薬とも呼ばれ、人間のポジティブなイメージをより強固なものとする効果がある。つまり、この呪符の術を被る者のイメージの強化によって脳のリミッターを異常な程素早く、深く解除することが出来る。リミッターが解除された人間はあくまで人間の力のみを出すが、本来人間に備わった力というのは案外強い。しかし、当然ながらリミッターを解除したところで人間の筋肉や骨がそれについて行けるかは別問題、一回分の使用ならまだしも、連続使用する場合、身体や脳への副作用が非常に強い」
「へえ、何だか、全然動かない身体に鞭打って無理矢理動かしているみたいね……。それに脳のリミッター解除なんて、まるで、ゾンビ映画の定番ね。アイツら、異常に怪力なのよね」
矢吹はそう憎々しげに笑ったが、俺には笑うことが出来なかった。
別にゾンビが怖いとかではなく、思い当たる節が余りにも多いのだ。
そう、霧谷はエンドルフィンだとか神経伝達物質、脳のリミッターの解除などと饒舌に語ったが、それより、矢吹の発言にこそ無視出来ない、最も的を得た発言があったのだ。
動かない身体を無理矢理動かすようである。
矢吹はそう、呟いたのだ。
川べりを這いずり回る血に塗れた子供たち。
滝沢邸内の使われているはずのない血染めの祭具殿。
俺の記憶に忌わしき映像が明滅する。
昨晩の子供の動きを思い出せ、あの糸で吊られたように動く子供たちを。子供たちのあの動きこそ、正に「動かない身体を無理矢理動かしていた」ようではないか。
このお札があの忌まわしい儀式に絡んでいるのはもう自明の理と言ったところだ。大人たちはこの魔術で血塗れで瀕死の子供たちを無理矢理動かしていたのだ。そうとしか考えられない。
矢吹の発言が余りにも的を得過ぎてそのままにしてしまっていたが、霧谷の言う人の脳を直接弄くって身体を強化するなんて聞いた事もない。たとえあったとしてもいわゆるパラシーボ効果に代表される思い込みとか、その程度だ。
だが、このお札が霧谷の言う効果であれば、パラシーボ効果云々という問題ではない。効果面にしても、倫理的にしてもアウトだ。紛れも無く『禁呪禁書』確定だ。
「とんでもないお札だ。こんなお札があの村にあるだなんて……」
「お兄ちゃん、さっきからコレを『お札』と呼んでいるが、これはそんな生易しいものではない。これは呪符、正真正銘の呪い。この呪符の文字が書かれたモノを見ればすぐに分かるはず」
赤い瞳を少し細めた霧谷は、正真正銘の呪い、そう無感情ボイスで強く言い切った。彼女はそのまま呪符を掴み取り、俺に見せつける。
いや、その文字は確かにアルファベットやアルファベットっぽい文字が混じっていて凄い違和感を感じるが、別にそれが何の材料で書かれているか何て問題じゃないだろう。しかもこの墨、時代が経ち過ぎて今にも剥がれそうなくらいなんだから。
俺が墨だと言えば、霧谷は黙ったまま首を横に振り、いきなり文字の部分を擦り出した。お、おい、そんなことしていいのかよ。しかし、霧谷はそんな俺の警告もおかまい無しにパラパラとしたその破片を指の腹に乗せて語る。
「見れば分かるように、これは墨ではない。墨という物体は黒色顔料のランプブラック、通称、油煙から取り出した煤をゼラチンなどで固体化したもの。また、これを水で解いた液体を墨汁と言う。通常、多くの年月を経た墨汁は乾燥して立体感や滲みが美しく変化する。だから、このように乾燥しても剥がれ落ちるような現象は起こさない」
「じゃ、じゃあ、何だって言うんだこのパラパラと剥がれ落ちたモノは。墨汁に変な物体が小数点以下四桁、五桁程度混じっているとかいう屁理屈みたいなのは止めてくれよな」
「pH7.4、水素イオン指数の数値と乾燥時の性質から、これは血液と言える。加えて抗ヒトヘモグロビン沈酵素や抗ヒト血清タンパク沈酵素の残滓から人間の血液と見るのが妥当。しかし、これは特定の個人のみによる血液ではない。A型の偏りがあるものの、複数の血液型が見られる。そこから察するに、正確には複数の人間による血液。ここ最近、恐らく三日前の血液も付着している。だから、これは……明らかに呪いと呼ぶに足るもの」
け……血液、だと? しかも、人間の血液?
そんな事があるものか、馬鹿馬鹿しい。だが、言われてみればこの真っ黒いパラパラとした破片は夜中に鼻血をぶち撒けた後の枕に付着した血液とどこか共通する何かがあった。そして、一番最近の血液は三日前くらいと霧谷は言う。三日前、というのはアレが始まった時期とほぼ一致する。生理じゃねえよ。言うまでもない、果処無連続斬殺事件だよ。
まさか……この呪符によって斬殺事件とあの忌わしい儀式がリンクするというのか。いや、リンクすること自体は予め想定していた事だが、改めて認識すると少々都合が良過ぎる気もする。だが、それ以前に三日程前にこんな呪符を描くために誰かの血が流れたという時点であってはならない事態なのだ。
「…………お兄ちゃん。まさかとは思うが、呪符、使った?」
霧谷は先程から俺が核心的な事を言い当て、妙に深刻そうな顔をしているのを怪しく思ったようだ。怪訝な視線で俺を見つめながら彼女は尋ねた。
彼女の無感情な声が、何の感情もこめられていないはずの声が、酷く俺を動揺させた。身体が反射的にビクリと動き、彼女の赤い眼を直視出来なくなる。何だか、その眼で心の内の全てを覗かれてしまうような気がしてしまうのだ。
「いや……俺じゃない。これは、俺の父さんが、調べてくれたんだ」
ルナの事は、言えるわけが無い。だから、俺は半分正解で、半分間違いのような微妙な解答をした。途切れ途切れの答えを聞いた彼女たちの表情が一層険しくなるのを感じる。矢吹は間髪入れずに俺の父さんのことについて質問をしてきたが、恐らく、これも彼女なりに無関係な人間である藤原衛世を『例外』に巻き込まれないように気を使っての事だろう。
だが、その事について気負う必要は何もない。何故なら、父は今回の事件については完全に徹底して被害者であり、何より既に死んでいる以上は何の責任も負わせられないのだから。
しかし、矢吹は真顔でとんでもないことを言い放つ。
「いや、衛紀くんのお父様って藤原衛世さんでしょ? 寧ろ私たちの『例外』は全然、藤原衛世さんに関わることなのよ」
「へ……? な、何だって?」
「いや、だから、今回の『例外』に関係しているのは藤原衛世さんなのよ」
俺は頭上から疑問符をぽんぽんと飛ばすが、逆に矢吹は何を当たり前なことを、と言った調子だ。もはや呪符なんてどうでも良くなってきている。
どうしてここに来て藤原衛世が飛び出てくるのだ? フィリップ大総統にしてもルナにしても全部あの男の人脈によるものだが、まさか港元市にお住まいの巨乳ポニテJK&貧乳無口JKもあの男の知り合いだなんて事はないだろうな。何だか、犯罪っぽくないか。
矢吹は制服のワイシャツの襟の内側から円筒形の何かを取り出し、手で振って見せつける。その手の平に収まる円筒形の物体には服などにひっかけられるようなクリップがついており、矢吹はこのクリップで襟の内側にひっかけていたのだろう。円筒形の表面には時刻や電源の残量、電波の強度などを表示する有機ELディスプレイがあり、側面にはいくつかのボタンとUSBポートなどが搭載されている。
矢吹はそのまま円筒形の側面に取り付けられた二進法由来と噂されている「0」と「1」が組み合わさった電源ボタンを押すと、ボタンは微かに緑色に点灯する。その機器が起動したのだ。まさかとは思うが、コレは。
「港元市製の携帯電話か。あれから随分進化したものだな」
「全然分かってないわね。これは携帯電話じゃなくてPHC、マスターフォンよ」
港元市製の最新型へと進化したタイプの携帯電話のPHC、マスターフォン。
俺が港元市にいた頃はまだそんな円筒形じゃなくてスマホをもう少し小さくしたような四角形のものだった。昔はグレートフォンだとかいうあだ名が付いていた気がするのだが、今はマスターフォンというらしい。
完全にスマートフォンを舐めた名付けだよなあ、「賢い、利口だ」を意味するスマート(Smart)に対して「完璧、熟練、洗練」を意味するマスター(Master)と来やがった。しかも、それぞれを略すとスマフォとマスフォだぜ。絶対意識して名付けてやがる。
全く、港元市はどうしてそんなに周りの反感を買うような真似をするのだろうか。もしかしたらマゾなのだろうか。まあ、世界は絶対に港元市の技術には勝てないんだけど。
「偏屈は良いから、お前の言う藤原衛世とは誰なのか教えてくれ」
「偏屈で悪かったわねッ。見せれば良いんでしょ、見せれば! ほら、コレよ、コレッ!」
最新型の携帯を軽くあしらわれた矢吹はへそを曲げてやや乱暴に中空に向かって指をバシバシとぶち当て、時々、乱暴に中空を撫でる。さて、皆様、お気づきであろうか、この携帯には表面の有機ELディスプレイ以外に画面と言える画面が無いということに。このマスターフォンとやらの画面は、まさかこの狭い有機ELディスプレイだけしかない携帯なのか、そう思う者もいるだろう。だが、それが誤りであることはイライラ矢吹さんがすぐにも教えてくれる。
あっさりとイライラがマックスに達した矢吹は最後に中空に指をバシッと決めると、何もない空間から俺のよく知る男の顔の表示された「画面」が浮かび上がった。
そう、この港元市がグレートフォンを開発していた頃から実現させていた技術がこの半透明の画面の表示、ホログラフィーだ。この携帯がPHCという名を持つのは、このホログラムの名を有する携帯性万能ホログラム型コンピュータこそが正式名称だからである。スペルは”Portability Universal Hologram Computer”で、各々の大文字を合わせてPHCだ。”Universal”のUは何でもPUHCでは言いにくいからハブられてしまい、逆にこの万能を意味する単語自体がマスターフォンのマスターへと繋がっているとも聞く。ああ、PHCの呼び名が正式の略称で、マスターフォンはいわゆる俗称だ。混乱させて済まない。
つまり、このPHCの画面というのは空中に表示された半透明の画面であり、円筒形の機器はぶっちゃけて言うとこのホログラムの画面を映し出すプロジェクターとしての機能を担っている物と言える。よく近未来モノの漫画や映画で見かけるアレだ、空中にウィンドウが浮かんでいてそれを指で操作する……みたいな。
というか待てよ! そんな説明よりも、このホログラムの半透明な画面に映し出された人間は、確かによく俺の知る人間であった……!
「誰だ、この若い男。全然俺の父さんじゃないみたいだ。妙にイケメンだし。おい、矢吹、コイツは誰だ」
「誰って、これが藤原衛世よ。まあ、写真自体は十年くらい前のものだけど」
なるほど、これは我が父藤原衛世の写った十年前の写真らしい。言われてみれば我が父の気もする、というか絶対アイツなのだが、どこか違和感を感じると思ったらそういうことか。そりゃあ十年前ならこのくらい若くても問題無いだろう。
というわけで、間違いない。目の前の港元市の女子高生らは藤原衛世関連で遭遇した存在、ひいては藤原衛世の人脈を構成する存在だ。昨日からずっとそんな感じだな、おい。頼むから父と友達だとか止めてくれよ、あの歳で女子高生の友達がいるなんて犯罪の臭いがプンプンするぞ……。
「何よ、やっぱり全然親子じゃない。でも、まあ、アンタに声かけたのも本当はこの藤原衛世と身体的特徴に類似する人間だって霧谷が視たからなのよ」
霧谷の眼は一体どんな力を秘めているんですか。
親子を実際に見比べれば確かに、あ、これは親子だ、などと分かるかもしれないが、顔写真だけで身体的特徴を割り出すとかどういうことだよ。
「…………お喋りな遥の言う通り。私たちの『例外』において彼は欠かせぬ存在。彼の居場所を教えてもらいたい」
「い、いや、俺の父さんは……ッ」
既に、死んでいる。
おぞましい轟音と白銀の剣閃。
そして、異常な量の殺気と怒気を振り撒く斬殺魔が脳裏にちらつく。
月が雲で覆われた夜、父さんは俺や玲華を守るために斬殺魔に斬られたのだ。
耳元から消えた彼のテレパスの存在感が、未だに身体に染み付いている。今でも耳に張り付いている彼が斬られた生々しい音を再生出来る。
さっきまであったものが、いつの間にか、急に失われてしまった。すっぽりと、抜け落ちてしまった。そんな感じだ。余りにも呆気なく、突然にして彼はこの世を去った。まるで、蜉蝣のように。春の夜の夢のように。しかし、一瞬の出来事であることとは無関係に嫌という程現実味があり、夢幻のような感覚は一切無かった。
彼は、確実に死んだ。
絶対に、殺害された。
何度も何度もその事実に関しては認識したはずだが、その一言が喉元で閊えて出ない。冷や汗が顔を撫で、脚が自然とガクガク震え出す。な、何で、俺はそんな単純で明白な事実を口に出来ないのだ? 父は死んでいるのだから、これ以上彼女たちの、港元市の『例外』と干渉することはないとさっき考えていたばかりではないか。
では、彼が死んでいると港元市の『例外』が俺自身に降り掛かると恐れているのか? それとも、藤原衛紀、お前は「未だに父が死んではいない」とでも思っているのか?
「…………では、遥。アレを出して。交換条件」
「全然了解よ。えっと……コレ、ね。コレ」
何度も言おうとしては喉の閊える俺を見た霧谷は顔を、眼を俺に固定したまま肘をテーブルに突いて萌え袖、それから黒金のガントレットに包まれた片腕を上げた。
彼女の求めに応じた矢吹は制服の内側のポケットから何かシャーペンの芯の入っているような半透明のケースを取り出し、それを親指の爪でカチリと開ける。更にそのケースの中から何か薄い金属の板を引き抜き、霧谷の萌え袖から丸見えとなっている蛇の口のようにガバリと開かれた手の平に添える。
金属の板を受け取った霧谷はそれを摘み、俺によく見えるように提示する。
「…………この中に、今回の『例外』で欠かせないというデータが保管されている。我々はその中身についての閲覧を禁止され、中身については一切触れていない。この中身については、藤原衛世がその解析をする、または解析させるというのが今回課せられた『例外』の一つである」
金属の板は、霧谷がぶっきらぼうに告げたように電子的にデータを保管し、持ち運ぶための補助記憶装置、即ち極普通のUSBメモリだった。昨日、フィリップさんが言っていたように、藤原得衛世は世界的に大規模な機関である『統一協会』の中枢のデータベースにハッキングをかけるといった高度な情報操作の力を持つ。それが魔術なのか彼自身の力量なのかは釈然としないが、港元市はそれを知っていて、彼に何かしらの電子的なデータを解析させ、そのデータを利用するつもりだったのだろう。彼も元々は港元市の研究職員だ、市は彼の情報操作能力を知っていたのだろう。
それで、コイツらは俺から父の居場所を聞き出し、父に無理矢理このUSBメモリの中身を解析させるつもりだったのだろう。であれば、この雑魚でチキン、しかも港元市への並々ならぬコンプレックスを抱く俺を利用して俺の父の居場所を聞き出すなり誘き出すのは実に賢いやり方であり、非常に狡猾な港元市らしいやり方だった。
「…………もし、教えないとお兄ちゃんが言うのであればッ!」
「ご主人様っ、魔銃と……指輪を!」
霧谷の赤い瞳がより一層と怪しく煌めくと、ルナが聞いたこともないような鋭い声で指示を出す。気が付くと、ルナはいつの間にか俺の真横から彼女たちの背後へ回っていた。俺が動く時に邪魔になると考えたのだろうか、それとも彼女たちの真後ろから不意打ちを食らわすためか、とにかく俺だってルナの行動力に負けるものかッ。ルナにばかり頼っていてはご主人様として面目が無いからな!
俺はその場で予め用意しておいた俺とルナの分のドリアの代金をテーブルにドンと叩き付け、自分の胸ポケットに手を突っ込む。代金を叩き付けた音によって目の前の魔女たちの動きが一瞬、確実に鈍る。たかだか一瞬と言えども、俺にとってその一瞬さえあれば指輪を嵌める時間くらいは稼げる。それだけで充分だ。
銀の輪は俺の右手人差し指へ綺麗に嵌まり、それと同時に対面にいるルナがパシュッと大口径の魔銃をクルクルと回転させながら投擲する。普段の俺なら何て危ないモノ投げてやがるんだとキレるところだが、今の俺なら難なく魔銃をキャッチする事が出来る。キャッチすべき手の位置やタイミングまで何もかもが分かった。
幽星体の状態から生気体、続いて通常体の状態へと即座に切り替わった魔銃は魔女たちの顔の真横を素通りして俺の手元にすっぽりと収まる。流線を描くような銀色のフォルムは鮮烈に輝き、目の前の魔女たちは目を見開く。銃身内部の空間を切り取って高速で射出する魔銃、空間加速砲の安全装置は解除済み、いつでも射出可能だ。
彼女たちには俺の右手にいつの間にか自分たちの市で作られた魔銃が生えてきたように見えただろう、矢吹は焦ったように舌打ちをして椅子を思い切り倒して罵声を上げる。
霧谷は未だに席に座ったままだが、しかし、確実に焦りが透けて見える。あの無表情な霧谷がやけにその赤い瞳を動かしている。つまり、俺に魔銃を投げ渡した「いるはずのルナの存在」の模索に必死なのだ。勿論、これは俺とルナの作戦だ。己の魔眼の力を過信したな、霧谷優梨。ルナは既に幽星体だ。たとえそれがどんな魔眼であったとしても、俺の脳内にしか存在しないようなメイドは視認出来ない。それでも幽星体という仕組みを知らない霧谷からしてみれば、「いるはずなのにいない」というルナの存在は不気味で仕方ないだろう。そこで彼女のご自慢の魔眼できょろきょろと「いるはずなのにいない」ルナの存在を探してしまっているのだ。彼女が俺たちに決定的な隙を作ってしまっているとも知らずに。
一方で、いるはずなのにいないというルナの存在を無視した矢吹はクリスタルのような目を再び氷のように鋭くさせて、腕をクロスさせる。すると、虚空より透明の細長い剣を両手に顕した。ルナの存在よりも俺に戦意を剥き出しにする辺り、やはり戦闘専門はこの矢吹という魔術師らしい。透明の剣の全長は百センチ前後、その特徴的な細身の刀身からしてレイピアと呼ばれる西洋剣だ。日本刀のように対象物を切り裂くというよりは、対象物を槍のように刺突するための剣であり、細い刀身ながらも曲がったり折れたりすることのない頑丈さを持つ。
名前自体は聞いたことがあるが、実際に見るのはこれが初めてだ。それでも、この透明の剣がレイピアという種類の剣であり、その使用方法や特徴については脳に直接注がれた知識で理解出来た。
「殺る気ね? 手加減はしないわ、後悔しないでちょうだい、藤原衛紀」
「元から港元市製の魔女と殺し合う気なんてねえ、その恐ろしさは嫌という程知っているからな。つまり……逃げるだけだッ!」
俺はその場で足下に力を込めてやや変則的なバク宙を決め、そのまま華麗に矢吹と霧谷に背中を見せて逃げ出す。変則的なバク宙の最中に空間加速砲を三発ほど射出したが、一瞬振り返った視界には五体満足の魔女が立っていた。全く、一体全体どうやってあの距離で空間の刃を回避したんだか。
でも、俺がこのレストランの出口まで逃げる隙は作った。俺とルナの分の代金は置いといたから、あとは払っておいてくれよ、お二人さん!
しかし、俺は見てしまった。
矢吹が口を歪めて、嘲笑うのを。
同時に、彼女は爪先で床を小突くと青白い文字と図形が入り交じった何かを打ち出す。間違いない、人間と魔術を仲介する存在、術式の展開だ。とりわけ、難解な文字、複雑な幾何学模様が揺らめく術式、それは魔法陣だ。
青白い魔法陣は次の瞬間には逃げる俺の足下を通り抜け、レストランの窓ガラスや壁、天上を次々と侵食していく。それは内なる領域と外なる領域を切り分ける境界、いわゆる結界という魔術が魔術師矢吹遥によって打ち込まれた魔術現象だ。
矢吹の結界で支配された店内にはさっきのウエイトレスさんも含めて店員さんや客人は誰一人としておらず、俺とルナ、霧谷と術者たる矢吹の四人しかいなかった。なるほど、矢吹に先手を打たれてしまったようだ。
「逃げるだって? この私が、獲物を逃がすとでも、思ったのかしら?」
彼女の嗤い声が後方より飛んでくる。そして、そのケタケタという嘲りと共に、全身に嫌な感覚が巡りぞわぞわと鳥肌が逆立ってきているのを感じる。恐らくだが、室内の温度が急激に低下しているのだ。耳を澄ませば、周囲からパキパキという氷の展開していく音が聞こえてくる。
やはり、初めに矢吹が生成した透明なレイピアを見た時から分かってはいたが、今、確信した。この矢吹遥という魔術師、どうやらあの港元市の『術位序列階層』の一人だ。しかも、彼女は『術位序列階層』の中でも『氷雪』の銘を冠する第四位、正真正銘の魔術師だッ……!
「無知で愚かで田舎者の衛紀くんに教えて上げるわ。その先にあるのは出口であって……全然『出口』じゃないッ!」




