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俺は彼女を監禁する / 白銀の剣閃  作者: 清水
邂逅 〜 The Dawn and "Girl" of a lonely Servant.
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LVNH//O//2038/04/14/11/24//TE-01/2021/05/22//FCE

「ご、ご主人様ぁ……どうかご容赦を。どんな罰を下さっても構いませんからぁ……」


 はてさて、学校にも着きまして授業も始まったワケだが、どうにも落ち着かない。意識自体はフィリップさんの睡眠魔術のお陰で結構ハッキリとしている方なのだが、授業は別だ。特に数学。黒板には単位円だとかいう名のおっぱいの片割れの図面が描かれており、なかなか趣味の悪い絵だなあと感慨深く思う。

 そういうわけで、授業の内容は耳を貫通し、俺はもっと別のことを考える。何、例の儀式やら俺の父や公安の人の死、ルナや今朝の玲華なんて難しいことは考えてない。単純にどうして俺は滝を上って湖で目覚めたんだとか、何で俺はずぶ濡れの服からあったかいジャージに着替えてベッドの上で寝ていたのか、だとか。まあ、何だ、アレだ。知っていても知らなくても、生命の危機に関しないような他愛も無いどうでも良い事だ。


「どうかお許しを! ご容赦を! ご主人様のお心が満たされるまで何でも致します! 何でもお受けします!」


 俺はそんな自分で考えても答えが出せるかなあ、なんて思った疑問に向き合うが……やはり俺ごときの智慧ではミトコンドリア並みの智慧も出ない。指輪の能力(・・)でも使えば良いのかとも思ったが、その能力が絶対のものかも分からないし、何より隣には玲華がいるのだ。俺が指輪を嵌めているのが彼女にバレたら今朝の地獄の続きが待っているだろう。

 チラリと横目で玲華を窺うが……仮にも視線に質量があるとしたら明らかに1ミリグラム未満の視線にでも玲華は反応する。そのまま天使の如くにこりと微笑み、俺に分からない問題があるかを尋ねる。今彼女に質問するとしたら、どうやって彼女が俺の視線を察知しているかだな。視線測量の計器やそれっぽい魔術でも付属しているのかい?

 でも、そんなことは聞かない。うっかり彼女の「衛紀くんから何か証拠が出るのをずーっと監視しているの」だなんて心臓に悪い答えを聞いてしまってはマジで口から臓器を吐き出しそうだからな。


「ご主人様、申し訳ございません! この無能メイドに罰を下さいませ! 気の済むまで殴りつけて下さい! 蹴って下さい!」


 玲華に向けた視線をそのまま横へ流し、教室を見渡す。黒板に張り付いて未だに単位円とかいうのを書いては催眠ボイスを放つ数学教師が立っていることや、悪友の燎弥は昨晩のアニメ三昧の影響で船を漕いでやがるのが分かる。

 ここまでは本当にいつも通りの授業風景なのだ。俺の送ってきた愛すべき日常の一ピースを占める風景なのだ。だが、その風景を木っ端微塵にする異物が存在する。


 赤基調の和服に朝日を跳ね返す金髪。

 エメラルドのような瞳。

 つまり、ルナだ。


「大変申し訳ございませんでしたご主人様! どうか、どうか罰を! 蹴って下さい! 踏んで下さい!」


 土下座。

 女の子の、土下座だ。

 更に、俺のことをご主人様と呼ばせての土下座だ。

 そして俺はそれを完全に無視。これはもう相当気分が良い。想像出来るだろうか。女の子を土下座させているんだぜ。こんなチャンスが人生の内に何度あることか!

 彼女は碧眼を涙で濡らし、流れるように美しい金髪をバッサバッサと上下前後に揺らす。彼女の土下座の動きや姿勢、などというものは凄まじく洗練されたもので、土下座素人の俺はひたすら美しいという感想しか抱けないのであった。って、土下座素人って何だよ。土下座玄人なんぞにはなりたかない、と土下座玄人(ルナ)を目前にして思った。


 だけど、これは非常に、非常に厄介な事態なのだ。


 何だ、お前らも女の子に土下座させたいって? いやいや、これは案外、お前らの想像するように気持ち良いものなんかじゃない。土下座そのものは良いのだが、状況が状況なのだ。もし今、願いが叶うのならば、俺は今すぐにでもこの立場を誰かに譲りたい。翼なんぞいるか。

 で、その問題というのは、この土下座ラッシュが俺と玲華が朝食を取っている最中だけでなく、登校中、授業中まで続いているということだ。信じられるかだろうか。朝から授業までずっとこんな調子なんだぞ。しつこいったらありゃあしねえ、というか鬱陶しいわ。はい、訂正致しましょう。今、俺は最高に気分が悪い。


「そうなんです、私は基本的にご主人様以外には見えないことは愚か、存在そのものが認識されないのです。見えないし、聞こえないし、何も感じない。そういう存在なのです。ちゃんと説明すべきでした、申し訳ございません……。お、お仕置きをして下さい! お願いです!」


 と、言うことらしい。ルナはエメラルドの瞳をうるうるさせて訴える。

 ああ……はいはい、この鬱陶しい奴は俺だけにしか背負えない十字架なんですね。イエスさんだって処刑場への道のりで他の奴に十字架を背負わせていた気がするのに。確か、シナモンみたいな名前の男だ。あれ、そうだっけか。忘れた。

 つまり、ルナの言う通り、この女は俺以外には絶対に認知されない存在だと言うのだ。始めは半信半疑だったが、フィリップさんや玲華、そしてこのクラスメイトの反応を見る限り、マジらしい。この和服メイド(こんなんでも、超美人)が教室内で、超大音量で、泣きながら謝罪しているというのに、誰一人として振り向きもしないのだ。あの女好きの燎弥でさえ見向きもしない。っていうか、もうアイツは寝ている。

 で、俺がコイツをさっきからずっとスルーしているのも、俺が何もない場所(・・・・・・)に向かって話す、という奇行を周りに見られないようにするためだ。周りに見えないのはルナだけであって、当然ながら俺自身は完全に周りからは認識される。俺がルナと言葉を交わせば、他の人々からは俺が独り言をぼやいているように見えるのだ。そうなれば、俺の頭がおかしくなってしまったと哀れな目で見る者が出てくるはずだ。

 だが、そんなのはまだマシって方だ。更に悪いのは、俺が話しかけている虚空に誰かがいる、という事実に辿り着いてしまう者がいるかもしれないってことだ。例えば、玲華とか玲華とか玲華とか玲華とか……。

 というわけで、今朝の玲華のアレに関しての疑問の一つにお答え出来るはずだ。俺がどうやって玲華の呪縛から逃れたか。如何にして指輪を消滅させたか。

 誠に不本意ながら、俺が指輪を玲華から隠せたのも一重にコイツの特性のお陰だ。今でこそ厄介に思っているが、俺の頭が締め付けによってマジでヤバいと思った時に脳内に「ルナに指輪を託せ」というご神託が下ったのだ。俺の視界は玲華という壁(凄い危ない発言だな)に阻まれていながらも、脳内にはどの位置に手を伸ばせば良いかが明確に指示され、その位置に指輪を嵌めた手を伸ばせば、あら不思議、ルナが指輪を外してくれたのだ。以心伝心というヤツだろうか。そんで、後はさっき説明したようにルナの誰からも認識されない性質の元、銀の指輪もルナの性質の影響下に置かれ、玲華には指輪の存在が認識出来なくなったという寸法だ。悔しいが認めよう、俺があの場で首が捥げなくて済んだのは完全にルナのお陰なのだ。アアッ、本当に悔しいよッ!

 そんなご恩もありながら、彼女に土下座をさせ続け、無視している俺は完全なる悪の気がしてきた。だ、だが、俺は悪くない。だって、こんな大事な事を話してなかったんだぞ。俺はこれを知らないせいで、早朝、フィリップさんにワケの分からん質問をしちまったってことなになっているのだから。それで案の定、フィリップさんに俺が幻視に囚われていると判断されてしまったのだ。まあ、早く寝れたのは良い事なんだけどさ。

 っつーわけで、この女の素性をフィリップさんから知るという最後の手段が断たれたのであった。

 俺が教室の窓の外を眺めながら大きな溜め息をつくと、ルナはピタリと泣き止んで話しかけてくる。も、もしかして嘘泣きなのか? タチワルッ!


「まあ、ご主人様が望めば外界に完全に姿を表出させて活動も出来るのですが……。試してみますか?」


 って出来んのかよYOU。でも、頼むから今は試さないで下さいね。

 あれこれルナが言うには幽星体(アストラル)だとか生気体(エーテル)通常体(ノーマル)だとかいう階層があって、それらの階層に合わせて外界への干渉レベルが違うらしい。因みに、今のルナは幽星体(アストラル)という状態で存在するらしく、これが一番外界に干渉を及ぼさない形態なんだとか。頼むから通常体(ノーマル)だとかいうわざわざルビ振りする必要のなさそうな状態にはならないで欲しいですねえ。

 何はともあれ、ルナが幽星体(アストラル)である以上は玲華にその存在が確認されることはないだろうというのが、今一番の安心どころだ。良かった。

 いや、それでも、何でまた俺だけが幽星体(アストラル)やら生気体(エーテル)の彼女を認識出来るんだよ。これ、相当な貧乏クジなんじゃないかな。せめてルナが最高に可愛いというのが救いだが、何か腑に落ちない。何で俺だけなんだよ?

 彼女の土下座ラッシュに負けた俺はひとまず、この謎な少女に関係無さそうな質問から尋ねていく。何故かって? 今朝もそうだったけど、彼女に核心的なことを尋ねても満足した解答が得られないからだ。また紀元前がどうとかで答えをはぐらかされてしまう。だから、一見関係無さそうな質問から真実に迫ろうという俺の新プロジェクトだ。受けてみよ。

 ルナと言葉を交わせばクラスメイトからその奇行を怪しまれたり、玲華にルナの存在自体を推察されたりする可能性が浮上する。であれば、使う手は昨日も玲華に用いたテクニックだ。テクニックって程でもないが、要は筆談だ。しかし、ただ単にノートに文字を書き始めると逆に玲華に怪しまれる。

 俺的にはノートを真面目に(しかも筆談目的。全然真面目なんかじゃない)取って怪しまれるというのもなかなか乙なものだと思う。はい、乙というよりは丙を通り越して癸くらいですね。

 まずは単位円とかいうおっぱいの片割れから書くか。とはいえ、こんな図形を書いても最終的に解かなきゃいけないのは方程式みたいなものなんだよなあ。


「……作業中に申し訳ございません、ご主人様。この範囲ですと、第二象限を含みますので、cosθはマイナスを含みますよ。そして、この問題については、tanθはこの範囲ですと第三象限も含むので、二通りの解答があります」


 あ、そっか。第二なんたらや第三なんたらは知らんが、この場合はcosθの値は±を付けて、tanθはこっちの左下の部分まで考えるのか。ありがたい、ありがたい。こういう小さく、且つ重大なミスをしがちなのが俺の数学という科目における大きく、重大な弱点だ。大きいミスもあるが。

 っておい、コイツ、勉強出来るのかよ。


「高貴なるご主人様にお仕えする身であれば、この程度の知識は持ち合わせてなければなりません。ご主人様の人生を最善のものとするために、ある程度の知識は必要不可欠でございます」


 頬を染めてちょいドヤ顔のルナはふふ、と誇らしげに笑う。

 俺は何となくその様が可愛らしく、と同時に苛立ったので無視することにした。ご主人様の面目がないじゃないですか!


「も、申し訳ございませんでした、ご主人様! メイドの分際で調子に乗ってしまいました……。し、しかし、私はご主人様のお力になりたいだけであって、決して衒学的に振る舞うつもりではないのです。と、とにかく、気の済むまで罰をお与え下さいませ!」


 ……してやられた。

 調子に乗ったのはルナだが、またしてもルナのペースに乗ってしまったのは俺だ。しかも衒学的って何だろう。よく分からないや。

 ルナは先程と寸分違わぬ綺麗な土下座の姿勢を取り、これまた完璧な動きを持った一種の芸術性を内包した土下座をし始める。流石土下座玄人。彼女が土下座を繰り返し、その度に金髪が乱れ、赤基調の極上な和服までもが乱れていく。い、いやらしい。その胸の隙間がちらちらと見えてしまう。

 ああ、もう……このままだとルナのペースにハマっていくだけだし、前後の文脈を無視して質問してやるか。新プロジェクトなんて知るか、まずはアクションだ。アクションを起こそう。喰らえ、起爆剤。


「なあ、生気体(エーテル)ってのはなんぞ」

「よ、ようやくご主人様は私に罰をお与えになるご英断が出来たのですね! 蹴りますか? 殴りますか?」


 起爆剤はどうやら、不発弾だったようだ。

 にしても変な構図だ。俺がコソコソと筆談して苦労しているというのに、ルナは周りから認識されないことを良い事に超普通の声量で話しかけてくるのだ。違和感しかない。何でこの俺様がお前に気を遣ってこんなコソコソと話さなきゃならねえんだ。


「どっちもしねえよ」

「で、でしたら……私の顔に唾を吐き付けますか? ご主人様の足の爪の間を舌でお掃除しましょうか? そ、それとも、異物を突っ込んでみますか……?」


 あー……話す気が失せてきた。質問そのものさえ逸らされてしまっている。ていうか異物を突っ込むって何だよ、怖いだろ。

 俺が溜め息をついてノートをルナから見えないようにずらすと、これまたルナはごめんなさいを連呼し出す。ああ、もう、本当にどうすりゃ良いんだよ。ただでさえ苦手な数学の授業なんだ、聞こえないじゃないか。いや、ルナがいなくても聞いてないけど。

 全く……困ったメイドだ。そんなに罰が欲しいのか。何だか無性に罰を与えたくなくなってきた。だが、それこそ彼女の思う壺だ。絶対に罰は与えない。


「そもそも、ご主人様は幽星体(アストラル)というものが理解出来ていないと思いますが……」


 普通に返事出来るじゃねえかよ。

 じゃあ、まずはその幽星体(アストラル)とかいうモノから教えて下さいよ。


「では解説させていただきますね。ご安心下さい、簡単に済ませます。幽星体(アストラル)状態のルナというものは、まずこの世に存在しないと言って構いません。要はご主人様の脳内だけに存在する架空のメイドです。脳内メイドです」

「どこに安心して良い要素があると言うんだ。お前は俺の生み出した幻想妄想脳内彼女だとでも言うのか?」

「か、彼女ですか……。私めごときがご主人様の彼女など、畏れ多い……です。い、いえ、嫌なのではございませんよ。し、しかし、それは少々この立場ですとなかなか面白いことに……」


 さて、さっきの続きの問題な。一丁前にノートに解答してやるか。だが、困ったなあ、さっきの問題より複雑になっている。不等式だ。高校一年の頃に習った三角関数は別に苦手ではなかったのだが、おめでたい進級後の三角関数はワケが分からないのだ。

 というのは、別にラジアンが意味不明なのではなく、公式が増えた、というのが最大の原因であろう。計算はそこまで苦手ではないのだ。しかし、沢山の公式に囲まれるとどうやら手の打ちようもない事態に陥ってしまうのだ。「何だ、公式で解ける問題なんざ簡単じゃないか。それの何が分からないのだ。公式を覚えていないだけじゃないか」、というツッコミを燎弥からよくいただく。彼のツッコミに敢えて答えるのであれば「その通りだ」という返答こそが最適解と言えよう。

 つまり、公式があり過ぎて覚えられない、覚えても沢山あり過ぎてどこでどの公式を使えば良いか分からないのだ。一つの錠前を開けるのに、ほぼ似た形状の鍵が百、二百個も持っていたら、お前らだって困るだろう。そういうことだ。


「……済みません。で、ですね。幽星体(アストラル)はご主人様の脳内で再生されている存在であり、生気体(エーテル)状態の私こそがご主人様が想像する『この世にいるけど見えない、聞こえない』という存在です。この状態の私はこの世にいるということになりますので、ご主人様以外の物体に触れることが出来ます。ですが……その逆も可能になります。つまり、他者も私に接触が出来るようになるのです。通常体(ノーマル)は言うまでもなく、この外界に対してご主人様と同程度に干渉出来るようになります」


 ああ、そうなのか。つまり、ルナは別に俺の脳内メイドだけじゃない、と。ただ単に、そういう機能があるだけで、実態である彼女自身の人間としての肉体はしっかり存在するわけか。

 これはなかなか嬉しい話だ。何たって、このまま脳内メイドの設定が続くと俺の空しい脳内ラブコメストーリーが展開してしまうような気がしたからな。コメディはあってもラブは無さそうだが。っていうか、有ってたまるものか。そんな虚しいものは二次元の女の子に対する愛だけで充分なのだ。


 だが……。

 俺の心に何かドス黒い感情が渦巻いていくのを感じた。


 俺のメイドが俺以外の他人に触れられるということを想像するのが、何だか妙に気持ち悪く感じられた。そんなの、想像したく、ない。


「そりゃあ、困ったな。俺が許可する時以外は、ずっと幽生体(アストラル)なんとかでいてくれ、良いな? ご主人様との約束だ」

「はい、畏まりました。ご主人様。約束です」


 かくして、俺はルナにそんなことをついうっかりと口走ってしまった(筆談だから書き走る、と表現しようか?)のであった。うっかりのレベルでは済まないミスだな、これは。

 いやはや、まったく、何だって俺はこんなことをメイドに頼んでいるんだ。本当に脳みそが口にくっ付いているんじゃないかとつくづく思う。彼女と出会ったのは今朝。しかも、大事な父親を喪ったばかりだというのに。

 しかも、しかもだ。さっきの俺の発言。これじゃあ、まるで、俺が彼女を他人の目から遠ざけて、閉じ込めているみたいじゃないか。一方的に人を任意の位置に閉じ込める行い。人は、これらの行いを簡単に漢字二文字で言い表す。


 監禁。


 俺の脳にはその忌々しい漢字二文字が想起された。

 レベルや量が違えど、根本的には同じようなものだろう。

 ところが、目の前にいる脳内和服メイドのルナは、にこり、と満足そうに微笑む。本当に、これで良かったのだろうか。俺にとっても、勿論、彼女にとっても。

 ……あ、結局、幽星体(アストラル)生気体(エーテル)の彼女にどうして俺だけが認識できるかは聞けなかった。またもやはぐらかされてしまったようだ。

 悔しいけど仕方ない。後でいくらでも聞いてやるから、覚悟してろよ。今は勉強に打ち込もう。後で玲華に「何をノートに書いていたの」、なーんて聞かれてはひとたまりも無い。真面目に問題を解いておこう……。


   ***


 ん……、何かヤバくね?

 と、俺が±の符号を持つこざかしいcosθにトドメを刺そうとしたとき、ふとした事実に気が付く。静電気のように脳内に忌まわしい予感が弾ける。

 俺は幽星体(アストラル)のルナに接触出来る。これは俺だけの特権だ。実際に、俺は彼女の頭を撫でたり、チョップしたりすることも出来たのだ。別にこの事実がどうというわけではなく、この事実に関連する大事な事に気が付いてしまったのだ。

 俺がルナに接触出来る以上、当然その逆も可能ということだ。つまり、ルナは俺に触れる。実際に彼女は俺の手を掴んだり、俺の所有物である指輪を引き抜いたりして見せた。一見有り触れているような事実だが、これは俺の抱える問題を一つ解決する最悪な鍵となった。

 なーにが、知っても知らなくても生命の危機に関しない、だ。知っていても、知らなくても、十二分に生命の危機に関するじゃないか……!

 俺の表情が化石のようにパキパキと乾き、ルナはそれを見て小首を傾げる。


「る、ルナさん……?」

「はい、何でしょうかご主人様」


 心臓がバクバクと鳴っているのが分かる。俺以外の人間にも聞かれるんじゃないかと思う程の鼓動だ。俺への監視を強めている(と俺が一方的に思っている)玲華なんかには聞こえてしまっているのではないだろうか。

 俺が表情を固まらせる一方で、ルナはそんな俺を安心させるかのように首を可愛らしく傾ける。勿論、俺は安心など出来ない。出来るものか。


「お、俺の……着替え。ほ、ほら、湖でずぶ濡れだった服、取り替えてくれたのって……ま、まさか」

「はい、私がご主人様のお召し物を取り返させていただきましたよ。あのままではお風邪を引いてしまいます。ご満足していただけたでしょうか?」


 と、満面の笑み。まるで、自分はご主人様のために最善の忠誠を示しましたと言わんばかりの笑顔。というかそういうことなのだろう。

 俺が平静を保っていられるかどうかを考えた時には既に俺の椅子が後ろにひっくり返っていた。なるほど、俺はそういう答えを出したのか。指輪ならもう少しマシなやり方を与えたかもしれない。

 俺はもう目をぐるぐる回しながら数学教師や玲華、その他大勢のクラスメイトの目なんかを無視して教室を抜け出したのであった。勿論、きょとんとした顔のお節介焼きのメイドを連れて。


   ***


 さて、もう学校からも当分離れた頃だろう。走るのはやめようか。疲れたし。

 俺は徐々に減速していき、楽しむ余裕のなかった春の戦蓮社の景色を振り返りつつ、付いてきたメイドに注意を向ける。


「ご、ご主人様……? 一体どうなさったのですか、まだ授業中ですのに……」


 授業をサボって屋上で女の子と過ごす……なんていうのが正しい授業のサボり方であったり、青春の過ごし方だったりするのかもしれない。だが、今、俺は確かに女の子とはいたものの、学校の屋上にはいなかった。

 桜がもうほとんど舞い散るこの季節。道ばたに植えられている桜の木は地面に桜色の絨毯を敷き、俺とルナはそこを駆けていた。最初は綺麗に桜の木を植えようとしていたのかもしれないが、しばらく歩いて見てみるとそれは恐ろしく無秩序に植えられているのが窺える。

 ええと、あの現象だ。四月になって綺麗にノート取るぞ、などと思って最初は滅茶苦茶几帳面にもノートを取るが、ゴールデンウィーク以降、余りの気怠さに負けて一回ノートがぐちゃぐちゃになる。するとどうだろう、あれだけ張り切って取っていたノートには、度重なる睡魔との熾烈な連戦による爪痕、もといミミズの落書きばかりが記されている。そして、ソイツは思うのだ、ああッ、もうやってらんねえ、ノートを綺麗に取るなんてバカバカしい、と。

 今、目の前に広がっている桜の植木はもはやそんな感じだ。桜の植木は戦蓮社高校の校門を出てすぐのコンクリートも敷かれてない道になんとか沿っていたが、数十メートル先からはもはや見るに堪えない。カオスそのものだ。まあ、それだけ道が道として機能しておらず、道に沿う、なんてことに意味が無くなってきているのかもしれないが。とにかく、ああ、田舎クォリティーだな、と思うのだ。

 そういうわけで、俺は散り散りになって落ちている桜の絨毯を踏み付けていることに幾ばくかの罪悪感、みたいなものを感じながら学校から遠ざかって行く。学校からは離れたが、目的地まではまだ少し距離があるな……。

 しかし、いや、やはり学校という堅苦しい空間とは違って、外の空気は美味しいもんだ。あれだけ昨晩は雨が降るかなあ、なんて思っていたのだが、その予想を大きく裏切った太陽はすっかり頭のてっぺんまで昇っていた。夜の空気はあんなにも寒かったというのに、真上から光が降り注ぐこの時間の空気はいやに暑い。それでいても、時折吹いてくる風がそれを中和させる。うーん、春は実に良い季節だ。花粉さえなければだが。

 そういえば、花粉の被害が一番酷いのは燎弥だ。アイツにとってこの花粉いっぱい盛りだくさんのド田舎戦蓮社の春は二度目だが、件の一度目は凄まじかったものだ。学校に数十のポケットティッシュを持ってきたくらいなのだから。でも、この村でポケットティッシュなんて珍しいもんだから、周りはその凄さには余り気付いてなかったようだが。駅前でポケットティッシュなんて配られないんです、この田舎では。


「外の空気を、吸いたくなったんだ。突発的に。突発性外気補給欲求症だ」

「そうでしたか。では、外の空気を満喫致しましょう。私も外の世界は初めてなので、色んな場所に行きたいと考えていた所存でございます」

「外の世界が初めてとは、随分また物騒な物言いだな」


 穏やかな風はそのままルナの艶やかな金髪をたなびかせ、髪から香る芳しい香りは俺の鼻孔をくすぐる。何かこの香り、普段から嗅ぎ慣れている気がするけれども。ま、まさか我が家の風呂までも勝手に使ったのではあるまいな。

 赤基調の和服は明るい光の中でますますの紅の鮮やかさを外界に放ち、更にその瑞々しく抜群のプロポーションを強調する。そして和服の袖元、袂と言うのかな、に刺繍された桜の模様が春の景色とマッチングして息を呑むばかりだ。

 すれ違う人は誰一人としておらず、この優雅な和服姿のルナを視界に入れているのは世界にただ一人自分だけだと思うと、なんだかそれは良い気分だな、と思うのだ。まあ、すれ違う人が何人いようとも、幽星体(アストラル)のルナは俺以外の誰にも見えないのだから変わらないんだけどね。

 というか走ってきたというのに、よくもまあお前はそんな動きにくい服を着ていてもけろっとしていられるな。俺は割りとかけっこが早い方で、そのペースでここまで走ってきてしまったのだ。和服のルナのペースを考えなくてはならないとも思ったが、ルナは案外、というかあっさり俺の歩調に合わせてきた。

 和服も乱れている様子もなく、実に品行方正の様を表出している。俺のように呼吸を荒くしている様子もない。それでもやはり、謝らなくては。


「走ってきて……その、ごめんな。お前のことあんまり気遣ってなかった」

「いえいえ。お気になさらず、ご主人様。私めはご主人様の足手纏いになってはなりませんから」


 ルナはそう言って、確かに無理の無い様子で笑顔を作る。

 見た限りは、彼女に害があるようには思えない。しかし、その和服の下はどうなっているかは見ただけでは分からない。しっかり、見せてもらわないと。あ、いや、これは冗談だからな。冗談。


「それに、私は大丈夫ですよ。誠に勝手ながら、少々魔術を利用させていただいただけですから……」


 ……なるほど。身体強化の魔術か。

 剣を持って舞ったりして攻撃力を飛躍的に上昇させる、なんてゲームはよくあるが、実際のところ、身体強化関連の魔術というものは非常にレベルの高い魔術である。神や聖書の力を借りたり、科学的に骨や筋肉を強化させたり、などなど様々なメソッドはあるが、どれも困難極まりないワザであることに変わりはない。魔術にしくじると自身の身体が吹き飛んだり、逆に全く動かなくなったりだとか。そんな怖い話を良く聞く。

 とにかくだ、先の睡眠魔術にしろ身体強化の魔術にしろ、人の身体を無理矢理弄くる魔術は非常に効果覿面である一方で、とんでもなく危険なものなのだ。良く眠れる薬や、ダイエットに向く薬が危ないように。

 それに、この魔術は多用し過ぎると副作用のようなものが生じるということも知っている。言うまでもないな、刀剣の魔女、つまり滝沢玲華のことだ。

 玲華が小さな体躯で剣を持って激しく戦う際に用い、彼女の身体を蝕んでいるものも身体強化の魔術であったはずだ。あんまりその魔術のメカニズムについては詳しく教えてくれなかったけど。どころか、隠している素振りさえある。彼女曰く、「企業秘密」だそうだ。俺にくらい教えてくれても良いじゃないか。

 俺はそんな玲華の身に起こる副作用を思い出すと、何だかそこまでして俺にかしづくルナに申し訳なさを覚えた。こいつまで、その魔術で身体をおかしくしてはたまらない。


「お前、あんまり無理するなよ。キツかったら言えよな……」

「いえ、ご主人様に無用な気遣いはさせません。それに、私はこれを調べたかったのですよ」


 ルナはそう言って、大口径の魔銃である空間加速砲(エアアクセル)を取り出すように帯の辺りからまた何かを取り出す。っていうか、また空間加速砲(エアアクセル)そのものを取り出してきやがった。そして、ルナは今朝と全く同じように銃身を振って何か薄っぺらくて薄汚い何かを取り出す。それはボロボロで、今にも春の風の中に溶けてしまいそうなほど脆そうな印象を与える。


「それは……ッ! な、何でお前がそれを持っているんだ?」


 まさか、なあ。コレが飛び出してくるというのは少々予想外だった。ご主人様のクセに情けなく驚いてしまったものだ。俺は即座に昨晩の映像を想起した。


「ええ、そうですよ。コレはご主人様もご存知のはずですよ……」


 微かに彼女の口角が吊り上がる。ルナは短く息を吐いて、その薄っぺらいものを人差し指と中指で挟んでよく見えるように提示する。


「その通りです。果処無村の電信柱に、等間隔に貼付けられていたお札です」


 お札。

 それは果処無村の電柱に貼付けられたお札で、乾き切ってパリパリと剥がれそうな墨によって不気味な文字や図形が描かれたものだ。紙の材質は和紙で、長年の風雨に晒されてきたのか、しわくちゃで今にも破けて風に乗って消えてしまいそうでさえある。まあ、和紙って実は結構丈夫な作りをしているんだよな。千年は保つだとか。あと、確か和紙ってのは中性としての性質を持っており、劣化が洋紙とは違ってしにくいのだとか。一方、洋紙は酸性の性質を持っており、大気に触れているだけで劣化してくるらしい。どれも玲華から聞いた話だが。

 和紙に書かれた文様自体は、昨晩は暗くてよく見えなかったが、今見ると、書かれた文字は草書体というのか、とにかく崩れまくった昔の漢字が記されている。確か、その昔港元市ではこういうお札に関する知識を習った気がする。大抵のお札はその和紙という形態上、歴史的に和紙を用いるアジア圏の文字(例えば梵字とかいう文字を使うサンスクリット語、騎馬遊牧民の突厥が使ったという突厥文字、日本や中国の漢字、朝鮮の訓民正音などだ)を用いた仏教系の魔術か陰陽術系の魔術がメジャーだ。このお札にもその例に洩れず、漢字が記されているという訳だ。

 そこまでならまだ知識の範囲内として処理して良いのだが……崩れまくった漢字や図形の他に、漢字以外の文字が記されているのだ。実にこういうお札には似つかわしくない文字だ。恐らく、世界で最も使用されているであろう表音文字。即ち、アルファベット。明らかなる異物がそのボロボロの和紙には記入されているのだ。まあ、意味不明な事を承知の上で言わせてもらうのなら、和紙には一部、アルファベットには無いアルファベットも混じっているるのだが。

 全く、これは一体どういう趣向の悪戯だ。エンペドクレス式四大元素魔術と仏教系五大要素魔術を組み合わせた魔術を使った俺が言うのもアレだが、異常なほどの違和感を心に注ぎ込む。だって、考えてみろ、魔術がどうとか以前に和紙にアルファベット(プラス、アルファベットっぽいアルファベットじゃない何かの文字)だぞ。しかもかなりの年代モノの和紙にアルファベットが墨で書き込まれているのだ。これはもう違和感だらけだ。色々錯誤しまくっている気がする。

 だが、それ以前にだなあ……。


「お、お前、勝手にアレを剥がしてきたのか? 大丈夫なのかよ、そんなことして! フィリップさんはソレを剥がすのを躊躇って、結局剥がさなかったぞ」

「ええ、私は大丈夫ですが、ご主人様に危害はありましたか……? ありましたら、何なりとお申し付け下さいませ。即刻、処分させていただきます」

「俺は……大丈夫だが。それよりお前は平気なのか?」


 まさか、このお札はあの馬鹿げた忌むべき儀式と関係しているものということはないだろうか。あの村の謎は今のところ、斬殺事件と例の儀式の二件と玲華の事件への関与の合計三件だが、このお札はどう考えても例の儀式の方に関係しているだろう。何となく。感覚的に。直感的に。

 例えば、あの儀式は何かを封印するもので、このボロボロのお札はそれを制御する結界を構成するものだったり、或いはこの中に封印すべきモノを封印していたり。更に更に、その封印すべきモノがこのお札を持った者を襲いにくるとか。俺は衛世とその昔に見たミイラが出てくる映画で、復活したミイラが彼のカノプスを奪った者を襲うシーンを思い出してゾッとする。ええと、カノプスってのは、ミイラの心臓以外の臓器を詰めた壷みたいなもんだ。カノポスだとか、それに壷って言葉を付けてカノプス壷なんて言ったりする。まあ、どうしてそんな見ず知らずの乾燥し切ったオッサンの臓器を詰めた壷に価値があるかは知らんが。

 い、いかん、話題が逸れたな。とにかく、これを持っていたせいでルナの身に何かあってはたまらない。これは俺が預かろう。俺は基本的にミイラに襲われて、食われたって死なないしね。襲われたくはないけど。


「はい、肉体的にも、精神的にも、魔術的にもこの身体に異常は見られません。今、それを調査したところです。但し、これを連続で使用するのは身体に異常を来す可能性はあるでしょう。ですが、あくまでも連続で使用した場合です。一回一回の使用であれば問題ありません」

「いやいや、魔術の細かいこと言って俺を誤魔化そうったってそうはいかないからな。ほら、俺が預かってやる。寄越せ」


 俺は何度も何度もルナにそのお札を俺が預かるとお願いして、長き懇願の末にようやく渡してくれた。ルナに何かあっては大変だからと訴えるも、ルナ自身も全く逆のことを考えて渡そうとしなかったのだ。本当にお節介焼きなメイドだ。

 実際にお札を手で触ってみると、和紙自体は以外にしっかりした作りだが、折り曲げるとパリパリと墨で書かれた漢字とアルファベットが剥がれてしまいそうだ。墨って長時間放置するとこんな風になるのか。知らなかった。俺はそれを折らないように指輪をしまった場所と同じ胸ポケットに忍ばせる。

 ルナは己の使命を覆し、且つ矛盾を感じて歯ぎしりをしながらも説明を続ける。何だか俺が意地悪しているみたいだからやめてくれよ。俺はお前の身を気遣っているだけだと言うのに。


「何度も申し上げますが、私は平気でしたよ。それに、このお札はご主人様のお父様、藤原衛世様より託されたものでございます」

「衛世だって? 父さんが、これをお前に?」


 ここで我が父の話題が出てくるとは思っていなかったので、少々面食らってしまった。だが、よくよく考えればアリな話だ。そもそもルナが俺のメイドなんぞになったのは衛世が死の間際で彼女を俺に引き合わせようとしたからだ。まあ、あくまで彼女の話を信じるとしたら、だけどな。

 そして、衛世が死の間際で躍起になっていた事項と言えば、俺の背中に貼付けたバナナのラベルもそうだが、夜に瞬く三本の光の剣なんかじゃなくて、とある調べ事だったはずだ。川の流れを利用した大規模魔術。それを用いた調査だ。


「はい、衛世様はご逝去なさるその直前でお調べになっていたこのお札を私に託したのです。しかし、私程度の魔術師には解析出来ませんでした。そもそも魔術師に術式の解析は向きません。科学的に調査するべきです。ですから、私に分かるのは、これは全体性を非常に強く意識されたものということと、付与されている大雑把な効果くらいだけですね」

「いや、大雑把にでも効果が分かっているなら充分じゃねえか。術式の解析は専用のソフトに任せちまおう。っつうか、何だよ、全体性って……」

「あら。そろそろ目的地ですね、ご主人様?」


 ああ、さっきはぼやかして済まない。俺とルナの学校からの逃避行(正確には俺だけのための逃避行だが)の目的地はこの戦蓮社に唯一存在する無人駅、の手前に位置する微妙な大きさのショッピングモールだ。より厳密に言うのなら、その中に入っているファミレスだ。お腹も減ってきたし、そこで昼食を取ろうという魂胆だ。

 ははは、いやあ、俺も授業サボって女の子とファミレスに行くとは大胆な行動に出たもんだ。でも、そろそろ昼時だし、ファミレスなんてこの村にはそこにしか入っていないんですよ。全く、玲華のお弁当を詰めたスクールバックさえも学校に置いてくるとは、もはや俺の馬鹿さ加減には溜め息さえも出ない。はあ……(出た)。

 と、とにかく、あのスクールバックの中には玲華に見られてはいけないものは……ないはずだ。鞄に入れっぱなしの貴重品は、もはや貴重品と呼んで良いのかさえも躊躇われる昨晩というか朝方の一件で水害によってお亡くなりになったスマホと、意味不明な衛世の残した防水メモの切れっ端だけだ。って、あれ、滅茶苦茶証拠物件残っているじゃねえかよ!

 しかし、俺が顔を青くする前にルナはその和服の胸(?!)の辺りから何かをごそごそと漁って、それを取り出す。


「ご安心を。ご主人様のお力添えをするのが、メイドの務めでございます」

「お、おおおお! る、ルナ、なんていうお仕事を! す、すげええ!」


 ルナのおっぱい(の辺り)から取り出されたのは紛れも無くお亡くなりになった俺のスマホと衛世の残した防水メモだった。彼女は俺が教室を飛び出る際に鞄から抜き取ってきたというのだ。言うまでもなく、俺にあれこれ言われずに、だ。

 これは、誠に信じられない。あの瞬間で、しかも俺の突然の行動に対して、ルナは鞄に入っていて玲華にバレてはいけないモノ、バレても構わないモノの取捨選択をした上で正解の選択肢を持ってきたのだ。あの僅かな時間でここまで頭を回転させ、それを実際に行動する早さ。彼女は何とも俺にはもったいない、それはそれは贅沢過ぎるメイドだ。有能過ぎる。高性能過ぎる。

 何なんだ、コイツ。役に立たない奴だと思っていたのに、頭の回転も早いし、行動力あるし……ああ、最高じゃないか!


「いえいえ、ご主人様のお心を乱す要因をいなす、私は当然の役目を果たしたまででございます。お役に立てて私は嬉しいです」

「本当にありがとな、ルナ。いやあ、本当に良かった……!」


 胸ポケットが怪しいお札のせいで満タンなので、俺はブッ壊れたスマホと衛世のメモを制服の内ポケットに入れる。よしよし、これで玲華に見つかってはいけないものは全て手中に収めた。俺の勝ちだ。

 さて、ルナの言った通り、このボロ臭い木の小屋そのものの無人駅の反対側に行けば、もうショッピングモールの入り口だ。俺はこの村唯一なんじゃないかと思う自動ドアを通って、モール内の異様なクーラーのかかり方に寒気を覚える。当然ながら、モールの中には俺とルナ以外の人と言えば、食品売り場で買い物をするばあさんくらいしかいない。そりゃあ、こんな田舎の平日のショッピングモールなんかに人がいるものか。経営破綻まであと少しかな?

 などと物騒なことを考えながら俺はルナに昼食について尋ねる。昼食はパスタとかピザのイタリア料理店にしようか。俺のお気に入りのファミレスチェーン店の一つだ。あのフィレンツェ風だかミラノ風だかヴェニス風だかは忘れたが、そのドリアが美味しいんだよなあ。しかもそれをとんでもない安価で召し上がれる。


「ルナは、イタリア料理のファミレスでいいか? 何か他に行きたいお店あるか?」

「わ、私は、ご主人様の望む場所ならどこでも構いませんよ。ご主人様とお食事を共に出来るなど、この上ない喜び。本当にルナは幸せメイドでございます……」


 ルナは頬を突然真っ赤に染めて俯き、何か小さな声でごにょごにょと呟いている。残念ながら、聞き取れない。本当はどこか別のレストランが良いのだろうか。イタリアンは苦手なのかな……?


「し、失礼しました。私はそこで構いませんよ。大丈夫です!」


 ルナは俯いた顔をあげ、一瞬惚けた顔をしたが、すぐにぱあっと笑顔を見せた。まったく切り替えが早い、というか要領の良い奴というか何と言うか……実に高性能な奴だ。

 だ、ダメだ、高性能な奴だなんて道具みたいな表現をしてはいけない。ルナは俺の脳内にしか存在しない機能付きのメイドである以前に、一人の少女。ちゃんと実態の身体を持つ女の子。人間だ。道具ではない。


「そうか、ありがとな。何にせよこんな田舎のショッピングモールにファミレスはそんなに入ってないんだ。入ってんのは例のイタリア料理のレストランと撤退間際のファーストフード店、うどんやそばのお店くらいしかない。せめてラーメン屋があればなあ」

「田舎ですからね、仕方ありません。ご主人様はラーメンがお好きなのですか?」

「ま、まあ……そうだけど。ここにはないからなあ」


 その昔、父に連れられていったラーメン屋があったのを思い出した。確かにあそこのラーメンは美味しかったな。また食べたいとも思うが、忌々しき港元市の超高層ビルの市役所の近くにあるラーメン屋だ。もう二度と行くことはないだろう。

 その途端、俺は死の間際で父が言ったことを脳で再生させてしまったが、頭を思い切り振って忘れようとする。誰が……誰があんな場所なんかに戻るものか。はい、忘れた忘れた。もう覚えてない!


「ふふ、いつか、ご主人様のお気に入りのラーメン屋、連れて行って下さいね」


 ルナは悪戯が成功した子供のような無邪気な笑みを俺に向ける。

 まるで、時が止まったようだった。俺はその可憐な笑顔に釘付けになってしまったのだ。その笑顔は周りの雑音や、余計なものを視界から追い出す。

 ああ、もう、その笑顔は反則だろう。狡い女だ。だがなあ、俺はあそこには戻れないし、戻らないんだからな。

 ルナは俺の反論を受け付けないと言いたげにそのまま俺に背を向けて、ガラガラのファミレスのドアを開ける。奇しくもその有り様はメイドがご主人様のためにドアを開けているようだ。いや、正にそうなんだが。

 ああ、本当に、ルナは最高だなあ。頭も良いし、行動力がある。加えて胸も大きいし、可愛くて美しい。もはや彼女に望むことなんて……指輪の能力、お札の効果、衛世について彼女から聞くこと、更には監禁の罪が無実であることをハッキリと示すことかなァ。はいはい、そうですよ! また話を逸らされましたとも! 我、超悔しいですぞ!


「どうしましたか、ご主人様? 見たところ、席のために待つ必要性は無いようですが……」

「何でも無い。何でも無いったら、何でも無い。何でも無いのだ」


 と、またしてもルナに綺麗に話を逸らされてしまったことに対する悔しさの念を大放出していると、何と言うことだろうか、背後から少女の声が耳に入った。こんな田舎の平日、ファミレスで昼食時を過ごす女性の方がいるとは、これは珍しい。一体、誰だろうか、まさか戦蓮社高校の生徒ではないだろうな。ここで授業をサボっているのがバレるのは良くない(相手もそうだろう)。

 いや、しかし、ここで出会ったことをきっかけにお近づきになるというのも悪くはない。同じサボり仲間、みたいな。是非ともお友達になっておこう。くくく、どんな子かなあ……。


 しかし、そのありがたいお声掛けの瞬間に悟った。

 これは、お友達にしてはいけないタイプの人間だと。


「おい、ドアの前で突っ立ってんな、クソ田舎者めが。……殺すぞ」


 俺にかけられた少女からのお言葉は余りにも殺伐とした一言であった。

 つ、辛いです。だが、ドMの俺にはお似合いの子なのか?

 

 そして、

 期待を込めて振り返った瞬間、

 俺は、この世の、地獄を見たのだ。


「全然、邪魔だぞ。田舎小僧」

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