第九十章:黒鏡
警備室のロッキングチェアに座って、僕はモニターの画面を眺めていた。
ここに来たのは各部屋の様子を確かめ直すためであり、それ以上に彼の戦果を確認するためでもある。
階段を落下していった以上、あそこから彼が失敗したとは考えにくいが、それでももしあの悪魔が生きていた場合、次の手段を考えなくてはならないからだ。
亜希と僕は、この部屋に入るまで一言も言葉を発しなかった。
何かを言ったら、それだけで感情が飽和してしまいそうで、次に自分たちが成すべき事に意識を割けなくなりそうだったから――。
それが悲しみなのか悔恨なのか罪悪感なのかは、僕には分からない。
ただ、仮にここから出たとしても、暫くアイツの姿が目蓋の裏から消えてくれる事はなさそうだとは思っている。
どんなに綺麗事を並べたとしても、僕たちは事実上、自分たちが生き残る為に彼を犠牲にしてしまったようなものなのだから――。
「…………」
……でも、それは今考えるべきことじゃない。
ここを出たらいくらでも謝りたいし、礼も言いたいし、彼の為に涙を流す事もあるかもしれないけれど、少なくともその瞬間は今じゃない。
――僕は、僕たちは、生き残らなくちゃならないのだから。
吐き気と頭痛とグチャグチャになった感情で朦朧とする意識に喝を入れて、僕はジッとモニターの中を見つめ続けていた。
「…………」
そして、何度か切り替えのスイッチを操作した時に。
ようやくモニターの中の一つが、あの虫籠の中を映しだした。
「……、船橋」
そこにあったのは、すり鉢一面を覆い尽くす黒い絨毯だった。
絨毯の真ん中には、奇っ怪な黒いオブジェが聳えていて、恐ろしい数の黒い粒に群がられている。
――それは全身を食い破られたあの大蜘蛛だった。
あれほど獰猛だったあの悪魔はとっくに息絶えていて、仔蜘蛛と蟻によって身体を解体されて殆ど原型を無くしてしまっている。
それを見た瞬間、「ああ、アイツは勝ったんだな」と、僕は漠然と心の中で思った。
すり鉢の中では、未だ蟻と仔蜘蛛が壮絶な喰い合いを繰り広げている。
統率の取れた蟻の方が、腹から出てきたばかりの仔蜘蛛よりも幾分優勢そうに見えたが、そんな勝ち負けなんか僕たちとってはどうでもいいことだ。
蟻が勝ったとしてもすり鉢の外に出てくる事は絶対に無いし、仮に蜘蛛が勝ったとしても、僕たちにとって脅威になる数が一階まで這い上がって来るなんて事はまず無いだろうから――。
そんな中で、一つ。
船橋の姿だけを、僕はどうしても見つける事が出来なかった。
きっと人間を捕食する為に改良された蜘蛛や蟻は、お互いに優先して彼の身体に群がったのだろう。
彼の身体は、もう肉一片たりともこの世界に存在してはいないに違いない。
それは間違いなく無残な死に方だったのだろうけど、僕にはそれが彼らしくて、同時に彼は一番それを望んだのだろうとも思えた。
「喰われかけの死体なんか、情けなくて見せられるかよ」って、アイツならきっとそう言って笑うような気がしたから――。
彼の最期の仕事が完遂された事を見届けた僕は、そこでゆっくりと、すり鉢を映し出しているモニターの電源を落とした。
「――――」
電源の落ちたモニターは、黒塗りの鏡へと変貌する。
鈍いモノクロの反射で警備室の中を映し出すその画面の中で、ふと、僕は僕の真後ろに佇む“彼女”の姿を確認した。
“彼女”は懺悔するように俯いていて、だからその表情は僕には分からない。
ただ小刻みに震える両肩だけが、“彼女”の気持ちを雄弁に語ってもいた。
――その手には、鉈が握られていた。
彼女はその、●●の首でも落とせてしまいそうなくらい無骨なソレを、スイカ割りでもするみたいに大きく大きく頭の上に掲げている。
……、まったく。
彼女は時々、本当によく分からないことをするな。
アレじゃまるで、僕の●を割ろうとしているみたいじゃないか。
――僕の意識は、上手く働いてはくれなかった。
映画を見ているような気分で、ただその様子を見つめていると。
鏡の中の彼女は。
その、凶器を。
真っ直ぐに、僕の脳天へと振り下ろした――。




