第八十八章:離別
「ったく、道理でさっきから痒いと思ってたんだよな」
腐って変色を始めている右肩を掻きながら、船橋は気怠そうな声でそう言った。
――考えてみれば当たり前だ。
船橋は氷室を担いで隔離しに行った。
その時、彼はもう細菌に感染していたのだろう。
「バッカじゃないの!?
そんなボロボロじゃ、ここに残ったって何にもできないじゃない!!」
「ナメんじゃねぇよ。
よく分かんねぇけど、アレを後ろのすり鉢に放りこみゃ全部解決すんだろ?
突っ込んできたところ掴み返して、一緒に階段転がってきゃ楽勝じゃねぇか」
「どこまでバカなのよ!!
それじゃアンタまで一緒にアリの餌じゃない!!!!」
亜希が激情の籠もった声で怒鳴りつける。
――当然だ。
彼女の性格的に、こんなマネを許す筈も無い。
「……船橋、諦めるのはまだ早いんじゃないかな?
どうせ犯人を捕まえて治療薬を手に入れなきゃならないんだし、あと一周くらいは頑張ってみるべきだ。
大体、あんたにそんな事をされたら、後味が悪すぎて食事も出来ない」
もちろん、僕だってそんな事は許せない。
打算がどうこうとかいう話じゃない。
目の前で彼が“そんな事”をしようとしているという、その事実そのものを拒否したがっている僕がいる。
だから僕は、全力で彼の行為の正当性を否定してかかる。
なのに、船橋はバツが悪そうに頭を掻いて――、
「……わかってくれや。こうしねぇと筋が通らねぇだろが」
――ハッキリと、離別の言葉を口にした。
「相原。お前、そろそろ限界なんだろ?
そんな身体じゃ、あと一周なんて逃げられやしねぇよ」
「…………」
――それは、間違いなく現状の一面を捉えていた。
僕が彼らに伝えたのは、あくまでもただドアを閉めながら走れば逃げ切れるだろうという、あまりにも楽観的な単純計算に過ぎない。
実際には左の通路にはまだ行った事が無く、それは一々罠を確かめながら進まなくてはならないという手間の掛かる作業が含まれている事を示している。
……誰かがこういう選択肢を思いつかないように、僕はわざとその事実を彼らに伝えてはいなかった。
「それにな、氷室がああなっちまったのは俺のせいだ。
アイツが病気の時にゃさっさと置いてったってのによ、テメェだけお前らと一緒に逃げるわけにゃいかねぇだろが。
……コイツは、俺なりのケジメなんだよ」
「何言ってるんだよ!! 氷室を置いていくように言ったのは僕じゃないか!!
アンタが責任取る必要なんかどこにも無いだろ!?」
知らず語調は荒くなるが、それでも引くわけにはいかなかった。
だって僕が引き下がってしまったら、彼は●んでしまうのだ。
目の前のアイツは間違いなく今ここに居て、生きて、呼吸をして、ああやって僕たちの事を気遣って笑みを作れるような人間なんだぞ?
ここで笑顔を返して「はいサヨウナラ」なんて言えるバカが居るわけが無いじゃないか。
なのに、どうしてアイツは、あんなこれで最後みたいな顔のまま――、
「……。悪い、ウソついた。
本当はよ、走るのが辛いのは俺の方なんだわ。
このままお前らと逃げたら、俺の方が途中でぶっ倒れちまいそうなんだ。
どうせ最期だってんなら、そんな情けねぇ姿、俺はゴメンなんだよ」
こんな、満たされたように笑って、どうしようも無く下手なウソをつくのだろう?
もう全部決めてて、テコでも動かないって意思表示するみたいに――。
「船橋……、アンタ……」
その頃には、僕ももうなんとなく悟っていた。
コイツはきっと、こういうヤツなんだ。
バカで、愚直で、自分が“こうだ”と信じた事は絶対に曲げなくて、そしてきっと、だからこそこの施設に入るような原因を作ってしまったヤツ。
コイツにとってここでこういう行動を取るのは、今まで自分が選んできた選択肢から見て酷く当たり前の事で、だからこそ、今ここでだけ別の選択をするなんて器用なことは出来ないのだろう。
――だったら、きっと説得なんか出来ない。
僕が今までたった一人の為に、“彼女”の為に行動してきたのと同じレベルの意思で、この行動が括られているのだとしたら。
今さら僕なんかの言葉で、その方針を変えさせることなんか出来る筈も無いのだから――。
「……、ゴメン」
震えそうになる声を噛み殺して。
僕は曖昧に、でもハッキリと、彼に別れの言葉を告げた――。




