第六十一章:感染
「氷室、アンタ……」
無意識に、僕は氷室の左腕を指さして声を漏らした。
亜希と船橋も気が付いたのか、潰れたトマトみたいにパックリと割れて、黄ばんだ膿みを垂らしている氷室の腕に注目する。
「!? や、やめろっ!! 見るな!! 見るなぁああ!!!!」
氷室椿樹は、恥も外聞も無く叫び散らしていた。
――間違いない。
あの滅菌室に仕掛けられていた、人一人を腐肉に変えた悪魔の細菌兵器。
氷室は、それに感染している――!!
「見るな。やめろぉ!!」
そこからは、もう見るに耐えなかった。
氷室は腐り始めた腕で、薬物中毒者のように頭を掻き毟り、懺悔するように千切れた資料が散乱する床へと崩れ落ちる。
「ひっ――!?」
その視線の先には、沢山の写真があった。
ご丁寧にもカラーコピーされたそれらの資料には、感染者が無残に変貌していく姿が克明に捕らえられている。
初めに起こるのは、腎障害と血行不良。
進行すると毛細血管が完全に詰まり、破れた血管から噴出する血液が全身の皮膚を食い破る。
腸管や口腔、鼻腔や眼球などの粘膜は剥がれ落ち、身体中の穴という穴から溶けた内臓や組織がゼリーみたいに吹き出してくる。
数時間後には細菌に喰われた四肢の末端から壊死が始まり、感染者は急速に腐って朽ち果てていく――。
氷室は、ソレを。
自らの行く末を、見てしまったのだ。
「うわぁぁあああっ!!!!!」
氷室は発狂しながらゴロゴロと床をのたうち回る。
そこには聡明だった彼の面影は無い。
当然だ。こんなモノを見せられて、正気を保てる人間が居る筈がない。
作為か無作為かは分からない。
「きゃぁあああっ!!!!」
やがてそこら中の物に、手当たり次第に掴みかかっていた氷室は、亀裂の走り始めたその左手で、傍に居た亜希へと掴み掛かった――。
「ゴフッ!!」
砂袋が落ちる様な、鈍い音が聞こえた。
伸ばされた左手は亜希に触れる事無く、氷室がドサリと床に崩れ落ちる。
「……ったく。
やるんなら、最後までふてぶてしくしてろってんだ」
「「ふ、船橋!?」」
僕と亜希は、二人で目を丸くした。
気が付いたときにはもう、船橋が氷室の鳩尾にボディーブローを炸裂させた後だったからだ。
「ち、ちょっと!? な、何してんのよアンタ――!?」
「ふ、船橋!!
アンタは知らないかもしれないけどさ、氷室は感染者――」
卒倒している僕たちを、意にも介さずに。
船橋は「どっこいしょ」なんて言いながら、当たり前のように氷室を右肩に担いでいた。
「あー、わかってらぁ。
でもよ、俺は他のやり方は知らねーんだわ。
ま。死んじゃいねーから、テメェらは気にすんな」
船橋は、何でもない事の様に飄々とそう言う。
――いや、違う。
きっとこれは、この男にとっては本当に何でもない事なのだろう。
「――んで、相原だっけ? コイツ、どうすりゃいいんだ?」
「へ? あ、うん。感染してるなら、取り敢えず隔離したほうが良いとは思うけど……」
あまりの事態に付いていけず、つい間の抜けた返事をしてしまう僕。
「――よし。
そんじゃ、ちょっくら出かけてくるわ。
俺のブロックに、ちょうどいい小部屋があったからよ。
コイツも、ちょっと頭冷やせば大人しくなるだろ」
唖然とする僕たちをよそに、船橋は後ろ手に手を振って、平然とした顔で西のブロックに向かって歩いて行った――。




