第六十章:亀裂
眼鏡を掛けたその男は、いかにも辟易したような態度で僕たちの方に歩いてきた。
「氷室、鍵開けはもういいのかな?」
冷やかされっぱなしも癪なので、取り敢えず軽口で返答しておく事にする。
「遅刻者の分際で随分な言い草だな。
安心しろ。暗証番号なら、そこの木偶の坊が持ってきた。
……やれやれ。ウドの大木だとばかり思っていたが、まさか木材程度の使い道があったとはな。
何とかとハサミは使いようというところか」
「うっせぇぞっ!! もやしっ!!」
顔を合わせるなり、再三のように口論を始める二人。
氷室は、清々しいくらいにいつも通りに見える。
僕の心配は、案外ただの杞憂だったのかもしれない。
「まあ、取り敢えず鍵は開いたみたいで良かったよ。
それなら、早速先に進みたいと思うけど――。
……亜希。
念の為に聞いておくけど、その荷物は何かな?」
亜希の持っているリュックサックを指さして言う。
見たところそのリュックの中には、何故か、どういうワケなのか、さっき僕が置いてきたのと同等かそれ以上の資料が詰まっているように見えてならなかった。
それはもう、たっぷりと……。
「ああ、これ?
あたしの区画には、図書館みたいな部屋があったの。
なんか大事そうな資料とかもたくさんあったから、取り敢えず手当たり次第持ってきたんだけど……」
「はい」なんていいながら、笑顔でそれを僕に押し付けるつり目の悪魔。
……コイツ、僕を苛めて楽しいのだろうか?
いや、楽しいんだろうな。
「待った。運ぶ前に中身を確認させてくれないかな?
もしかしたら、今知っておかないと危険な情報もあるかもしれないし……」
言うまでもなく詭弁だが、ここで本音を言っても誰も幸せにはなれない。
建前で亜希に了承をとりながら、僕は資料を床一杯に広げた。
さて、今度はどんなゴミをかき集めてきやがったのやら――って、お?
今度は意外とまともそうだ。
「なるほどね。
亜希の言ってた図書室っていうのは、研究データの保管所のことだったんだ。
この資料は、ここで研究されている細菌や生物兵器のデータで一杯だよ」
数も凄まじいものがあるが、恐ろしいのはこれらの兵器の完成度だろう。
データだけでははっきりとは言えないが、ここの兵器がばらまかれた場合、その被害は自然災害や核のそれにすら匹敵するかもしれない。
一体、どこまで人を憎めばこんな物が作れるというのだろうか。
それを想像するだけでも寒気がした。
「……やめろ」
その時、後ろから低い声が聞こえた気がした。
見ると、氷室が視線を落としたまま、苦虫を噛みつぶしたような表情で僕を睨んでいる。
なるほど。
氷室は、曲がりなりにも人を救ってきた研究者だ。
同じ人体実験とは言っても、人の命を奪う為の兵器には嫌悪感を覚えて当然というわけか。
「気持ちは分かるけど、今だけは我慢してくれないか?
情報があれば、何か対処法が見つかるかもしれないしね」
それだけを言って、僕は資料の解読を進める。
まあ氷室なら、今ので十分に納得してくれるだろう。
「えーと、コレは……、滅菌室にあったあの細菌か。
初めに起こるのが、発汗と血行障害。
その後皮膚にひび割れが生じ、全身の細胞が壊死して急速に腐敗していく――」
「やめろと言っているのだっ!!!」
劈くような怒声が響いた。
鬼のような形相で激昂した氷室が、跳ねるような勢いで床の資料を掴みあげ、ビリビリと破り捨て始める。
手当たり次第に紙を掴み、狂った様に紙吹雪を舞わせるその姿は精神異常者にも近いモノがあった。
「!? ひ、氷室、アンタ――!!」
瞬間、僕は自分の目を疑った。
氷室の行動にではない。
資料を破る時に見えた彼の左腕には、資料で見たのと全く同じひび割れが生じていたのだ――。




