第五十五章:矛盾
薄暗い空間に、饐えた臭いが籠っている。
額に浮かぶ汗をシャツで拭い、僕は簡素なパイプ椅子に座って一息ついた。
もちろん点滴台を使って、罠が無い事だけは確認済みである。
「ふぅ……」
階段前の踊り場から出て、どれくらい歩いただろう。
幾つ目かに僕が開いた扉の中には、休憩室のような空間があった。
八畳ほどの広さがあるその部屋の中心には、よく職員室にあるようなアルミ製のデスクが四つほど突き合わせてあり、ティーバッグやインスタントコーヒー、砂糖やポットなどが置かれている。
以前は、休憩時間中の研究者達が利用していたのかもしれない。
「……全く、ずいぶん荷物が増えたもんだよ」
憎々しげに呟きながら、僕は自分の所持品を確認した。
まず手元にあるのが、ここまで何度も役に立ってくれた点滴台だ。
あの実験室から予め余分に持ってきた為、ちゃんと人数分くらいはあったのだが、
『テメェが使え。
俺はな、アレの小道具を使わなきゃなんねぇほど柔じゃねぇんだよ!!』
――との事らしい。
恐らくは、先程の氷室の態度がまだ影響しているのだろう。
船橋はそう言って自分用の点滴台を僕に押し付けてきたのだが――、出来れば踊り場を出る前に言って欲しかったものだ。
亜希も「いらない」とぬかしやがったし、お陰様で、片手が使えない僕の手にはいま点滴台が二本もある。
……正直、邪魔で邪魔で仕方がない。
「で、あとはこれか」
もう一つは、もちろん亜希に押し付けられたトートバッグだ。
中には大量の資料が入っていて、長さ的に点滴台は入れられなかったものの、便宜的に件の鍵束をしまっている。無論、各々のブロックで使う鍵は外して配分済みだ。
さて、ところでこのトートバッグ。
灰色の地味な柄は亜希の趣味には合わなそうだし、多分施設の中で見つけたものなのだろうが――。
……よくよく考えると、これは氷室の所に置いてきても良かったのではなかろうか?
いや、まあ。氷室の様子に気を取られていたから、正直それどころではなかったとも言えるのだが。
コレのせいで熱を持ってしまった左腕を休ませる為に、僕は今こうして休む羽目になっているのだし――。
「…………」
……、うん。
取り戻すなら、きっと今からでも遅くは無いはずだ。
取り敢えず、資料を全てデスクの上にぶち撒けてみる事にする。
――そう。今ここで資料を全てチェックして、不必要な物は捨ててしまえばいいのである。
これだけ重たい紙の山が、まさか全部重要なんて事態はそうそう無いだろうし、それに、もしかしたら、全ての階の暗証番号を一箇所に纏めておくなんていう、セキュリティシステムへの挑戦としか思えないような暴挙だって、万が一犯人は行なっているかもしれないし――。
「――死亡者、実験体数、タイムテーブル。
この辺りは、以前見た資料とほぼ同じだな。
これは――、科学雑誌に週刊マンガ!?
バカな!! これのどこが大事そうな資料なんだよ!?」
……調べれば調べるほど、ゆっくりと、亜希に対する殺意が芽生えていく。
もしかしてコレは、僕を弱らせる為に犯人が仕掛けた壮大なる罠だったのではなかろうか。
「暗証番号――は、全部地下三階の物か。
これなら、もういらないな」
マリアナ海溝並みに深い溜息をつきつつ、僕はガックリと肩を落としていた。
……この部屋に来るまでの苦労は、いったいなんだったのだろうか。
あれだ。きっと、僕も疲れていたのだろう。
強烈な頭痛にめまいすら覚えながら、僕は視線をデスクの上に落とした――。
「……ん?」
そして、その“異常”に気が付いた。
僕の視界に映っているのは、さっきも見たタイムテーブルである。
A4コピー紙に印刷されたそれには、この施設を巡回していた研究者達の名前が記されているはずで、僕が驚く事なんか何もある筈が無い。
ある筈が、無いのだが――。
「……、バカな」
それは――、
決してあってはならない矛盾であった。
《第7ブロック当直者名簿
(月)江崎 亮一
氷室 椿樹
(火)笹川 実
渡瀬 由香
(水)相原 翔太
二階堂 拓也
(木)船橋 剛
桜木 雄二
(金)遠夜 亜希
田無 真由美
(土)斎藤 正
佐々木 遥
(日)飯田 佳祐
山田 瑛子
次週にローテーション。
各自、実験体の様子には気を配るように》
「……、ありえない」
凍り付いた思考で、そう呟いた。
この資料は、決して有り得てはならない事実を示唆していたのだ。




