第一一ニ章:準備
この研究所では、とある薬が実験段階にあった。
開発者は、精神に異常を来して自殺した前任のチーフ。
彼は酷い自己嫌悪に苛まれていたらしい。
毎晩毎晩。自分が殺した実験台たちの悪夢に魘され、酷い自己嫌悪に苛まれ、どうにかしてその罪悪感を消し去る事だけを望んでいたそうだ。
結局、彼は不幸にも薬の完成を待たずしてこの世を去ってしまったらしいが――。
その後釜となった僕は、先輩への敬意と自身の実力の誇示を含めて、最初の仕事としてそれを完成させたのだった。
――そうして、その薬は生まれた。
僕が開発に携わった中では数少ない、人間の記憶を消去するだけの、酷く粗末な試験薬だ。
はっきり言えば、本来人間の記憶を消去するのは難しい。
サヴァン症候群の例然り。一説によると、人間は一度長期記憶化したものを忘れる事は決して無いとまで言われており、脳細胞に致命的なダメージを与えない限り、人為的に人間の記憶を操作するのは現在の技術では不可能だとすら考えられている。
――だが、ルールには必ず抜け道があるものだ。
例えば幼児期に虐待を受けた人間が、当時の記憶を無くしてしまうなんていうのは往々にしてあることだろうし。精神科医は催眠療法などを用いて、精神病の患者のトラウマに蓋をする事もある。
原理はどちらも大体同じで、本人の精神による防衛本能の賜物。
人間は耐え難い記憶を持ってしまった場合に限り、その記憶に意識が行かないように自我を遮断する場合があるのである。
簡単に言えば、それがその薬の効果だった。
忘れたい記憶をより“耐え難い物”として意識させる事により、忘れたい記憶に意識が向かないようにするという、精神治療をごく短期間で再現するような代物なのである。
「――お、あったあった」
実験室の奥に眠っていた薬を見つけ、僕は口元を緩めた。
……まさか、自分がこれを使う日が来るとは思わなかったな。
本当、人生何が役に立つか分からないというか……。
僕が忘れたい記憶は、もちろん二階堂との会話だ。
この薬を上手く使えば、あの不要な会話に意識が向かないように、僕の精神は都合の良いように改変されてくれるだろう。
さて、あとは――。
「うん、まだ準備が沢山あるな」
――準備一つ目。
僕だけが記憶を失ったのでは、明らかに疑惑の目を向けられるだろう。
やるからには、地下の犯罪者全員に投与してしまう事が望ましい。
……彼らにとって、この施設での生活はトラウマそのものだろうから。
間違いなくここでの記憶は封印されるだろうし、場合によっては彼らが犯した罪の記憶そのものすらも消去してくれるかもしれない。
そうなれば、もう連中から余計な打ち明け話を聞く事も無くなる。
――準備二つ目。
この薬の副作用として、記憶消去に掛かる数時間から十数時間程度の間、下手をすれば七十二時間近くも、被験者が半昏睡状態に陥ってしまうという欠点がある。
……もしも僕がそんな状態にある時に、警察連中にここに踏み込まれては目も当てられない。
侵入者に対する対策は、まず必須だろう。
ついでに、僕より先に起きるかもしれない犯罪者連中にだって、そう簡単に出歩いてもらっては少々困る。
だから、僕はとてもシンプルなプランを考える事にした。
そう、つまりは――。




