第一一一章:原初
何日かぶりに座ったデスクは、無駄に高級感に溢れているのにちっとも安らぎなんか与えてはくれなかった。
口を開けばため息ばかり出てくるが、それは別段、肉体的に疲労が溜まっているという訳じゃ無い。
――ここは、地下施設への入り口前の書斎。
職員が殆ど居なくなってしまった事もあって、一々オフィスまで行くのも面倒だったから、デスクを地下への入り口へと移したのだ。
お陰で歩く距離自体は減って、身体の負担は寧ろ軽くなった筈なのだが――。
……とにかく、気分が優れないのだ。
原因は、取り敢えず目の前のPCに映っているメール。
――“上”からだ。
なんでも上の連中は、僕が就任してから鰻登りになった異動願いの数に、密かに反感を抱いていたらしい。
それでも僕は結果だけは出し続けていたために、今までは表立って批判する者も現れなかったのではあったが――。
この数日間、すっかり定時報告をサボってしまっていた為に、とうとうこの身に火の粉が降りかかったのであった。
「……まったく、皆なんて暇なんだろうね。
こんなに愛されているなんて涙が出るよ」
軽口を叩くが、状況はあまり良くは無い。
ただ提示報告をしていなかったっていうだけなら、はっきり言えばいくらでも理由は付けられるし、今まとめて書類を送ってしまえばそこまで問題にされる事も無いのだろうが――。
……実は、このところ。
研究そのものがストップしてしまっていて、報告する内容自体がそもそもこれといって無いのである。
どうしてなのかは分からないが、鏡を叩き割ったあの日を堺に、新しい発想が全く出て来なくなってしまったのだ。
前までは、どこをどう壊せばアイツらが苦しむかなんて、目を瞑るだけでいくらでも脳裏に浮かんで来たっていうのに――。
……繰り返すが、状況はあまり良くは無い。
メールによると、これ以上目立った業績が挙げられない様であれば視察団を寄越して、その報告いかんによっては僕を解雇する事も視野に入れているらしい。
――まあ、流石にこれはよっぽどのケースだろうけど。
問題なのは、メールの後半に申し訳程度に書かれた報告。
どうやら警察の中にも、たまには暑苦しい熱血漢がしぶとく生き残っているらしく、そいつが中心になって消えた犯罪者の行方を追っているらしいという事であった。
下手をすると、これまた数日中に、ここに警察が踏み込んでくる可能性だってあるらしい。
……まったく、なんて正義感に溢れる人たちなのやら。
僕を追う程の気力と人材があるって言うんなら、その分を他の犯罪者の逮捕に向けた方が、よっぽど世の中の為になると思うのに――。
彼らも世間体と点数稼ぎに血眼だって事なのかな。
「……ま、仕方ないか」
――そう。
悩んだって、どうにかなるような事じゃない。
僕は軽く伸びをしてから、カサブタが出来始めた左手を気遣いつつ、返信の為のメールを認めた。
『――誠に申し訳ありませんでした。この所、非常に致死性の高い細菌を開発いたしまして、実験台から目が離せない日々が続いておる次第でございます。開発は滞りなく進んでおりますので心配はございませんし、仮に視察団を派遣されました場合、安全は保障いたしかねますので、何卒もうしばらくお待ち下さいますようお願い申し上げます』
嘘八百のメールを送信し、僕はベッと舌を出した。
――さて。自分で自分を追い詰めたことだし、ここからが正念場かな。
あとは何日か徹夜してでも、今まで以上のクオリティーの兵器だけを仕上げてやれば、誰にも文句は――、
「――?」
職員を臨時で招集して、これからのハードスケジュールについて鼓舞しようかと、気合を入れた時。
――ふと。
デスクの資料に紛れている、大量の封筒の存在に気が付いた。
とっくに見慣れたその封筒の、中身は――、
「う……そ……だろ?」
――辞表だった。
現在研究所に残っている筈の、全職員。
その数とピッタリ一致するだけの辞表が、まるで僕から隠れるように、コッソリとそこに並んでいた。
「ははは……。
まったく、みんな冗談がきついな」
真っ白になってしまった頭の中。
麻痺したように動きが鈍い眼球で、僕はそれらの中身を少しずつ読み始めた。
――書かれている内容は、大体みんな同じ。
“聞いてしまった聞いてしまった聞いてしまった”
“彼らは人間だ”
“悪魔はどっちだろう?”
「はは、ははは。
まったく、みんな何を言っているんだ?
そんな――、
そんな事、言いだしたら……。まるで、僕が――」
――真っ白だった。
――何も、考えようとは思えなかった。
なのに、不思議と怒りは湧いてこない。
――それは、たぶん。
僕もどこかで、彼らの気持ちが分かっているから――。
「やめろ!!」
ダメだ!! 認めるな!!!!
これを認めたら、僕はもう犯罪者を殺せなくなる。
自分の今までの行為を、全部否定する事になるんだぞ!?
だって、犯罪者は悪魔なんだ。
奈菜を奪った悪魔なんだ。
これは、彼女への弔い。
僕は、それを――。
それだけを信じて、今まで、こんなやりたくも無い仕事を続けて来たんじゃないか!!
「? やりたく、ない……?」
――それで。
やっと、気が付いた。
――ああ、そうか。
僕は、こんな事なんかやりたくなかったんだ。
あの夏の日に、奈菜を失って。
ついた傷は決して癒えず、心に空いた穴は塞がらず、復讐も救済も許さない理不尽な法に吐き気がした。
――憎くて、憎くて。
彼女を守れなかった自分も含めて、何もかもが憎くて、何をすれば良いのかすらも分からなくなった。
何度も自分に言い聞かせてきた。
――犯罪者は悪魔だ。
――彼らは人間じゃない。
――彼らを殺す事こそが彼女の為。
……本当は、分かっていた。
彼らが何かなんて分かっていた。
でも、彼女を失った僕には。
それを無視して、ソレが彼女の為だと信じる事以外に、自分を保つ術が無かったんだ。
本当は――。
本当は、彼女はそんな事を望むわけが無いってことくらい、僕は誰よりもよく分かっていたはずなのに――!!!!
「はは……、なんだよ、それ。
いまさら――、いまさら、何なんだよ!!!!」
気付いた時には、デスクを強く叩いていた。
何度も、何度も――。
強く、強く――。
いつの間にか僕の頬を伝っていた涙は、流血のように延々とデスクにこぼれ落ちて、白けた辞表に沢山の染みを作っていた。
無理矢理表面だけ縫い合わせた傷口から、止めどなく中身が漏れ出て行くように――。
「ふざ、けんなよ……。
だって、もう……。いまさら、僕は……」
――もう、後には引けない。
沢山の人間を殺してきた。
老若男女の区別も無く、富めるか貧するかも考慮せず、泣いても喚いても容赦無く皆殺しにして来た。
僕は、いまさら元には戻れない。
だってここで引いたら、僕は本当に僕ではなくなってしまう。
……、でも、こんな。
こんな事に気づいてしまった後じゃ、もう前に進む事だって――。
「!?」
――そこで、気付いたのだ。
ニヤリ、と。
醜く口元を緩めながら――。
「そうだ――」
全ての始まりとなった、原初の思い付きに――。
「そうだ、忘れてしまえばいい」
グチャグチャに掻き回されたような頭の中には。
ただ、そのシンプルな考えだけがリフレインしていた――。




