第一一〇章:傷跡
「…………」
顔が洗い終わった。
バカみたいに真っ白なフェイスタオルを使って、顔面の皮膚に付着した水滴を拭い取る。
――リフレッシュはしたが、気分は最悪。
そんな自分の感情を誤魔化すように。僕は髭の剃り残しが無いかを確認する為、目の前に聳える鏡の中を覗き込んだ。
「――――!!!!」
そして、呼吸が止まった。
窓から差し込む朝日に照らされた、少し薄暗い洗面室の光景。
鏡の中に広がる、その景色の中に。
――悪魔が、居たのだ。
目の下に大きな隈を作り、死人のように蒼白な顔をしたナニか。
――酷い顔だ。
暗く沈んだ色を湛えた瞳の中は、毎日イヤという程見ている悪魔たちと、全く同じで虚ろだった。
――“何が違う”、と。
鏡の中のソイツは、聞こえない声で、でもハッキリと僕を問い詰めてくる。
――“お前と、アイツらと、何が違う”と。
「……ち、違う!!
だって、アイツらは悪魔じゃないか!!
そうだ、そうだよ!! 僕は正しい事をしているんだ!! 僕が正義なんだ!!
だって、僕は――、僕は悪魔は殺しても、アイツらみたいに人を殺した事は一度も無いじゃないか!!!!」
必死になって、支離滅裂に、鏡の中の悪魔に反駁する。
――、でも。
アイツらは、見れば見るほど。
あまりにも、●●らしくって――。
「……めろ」
――もしも、あいつらが●●だとしたら、
僕が――、
僕が、今まで、してきた事は――、
「やめろッ!!!!」
――気が付くと、僕は目の前の鏡を粉々に叩き割っていた。
耳触りな音と共に、脳を突き刺すジクジクとした痛み。
色が変わるくらい握り締めた左拳には、破片が深々と突き刺さっていて、ポタポタと赤い血液を滴らせ続けている。
……、なんだ。
「……はは。な、なんだ。
やっぱり僕は人間じゃないか。
だって、こんなに――。
こんなに、赤い血が流れるんだ……」
ガラス片が食い込んだ左拳は、酷く痛い。
目眩がするほど痛いのに、それを眺めていると、胸の奥から妙な安心感が込み上げてきた。
――ああ、そうだ。
僕は人間だ。
「……しまったな」
そこで、ハタと冷静になった。
よく考えてみると、これは少々マズイ失態だ。
だって地下に監禁されている筈の僕が、一人だけこんな傷を負ってしまうのはおかしい。
……さて、どうやって誤魔化したものかな。
「……、仕方ない。
面倒だけど、また何人か日雇いで寄越してもらうかな」
もちろん、毎週のように物資の搬入に使っている“彼ら”のことである。
正体は、この会社の他の部署の人間。
正式な研究員のような専門知識は無いものの、情報漏洩の心配も無く色々な雑用をさせられるので、割りと重宝した。
ま、連中にとっても良いお小遣い稼ぎくらいにはなるだろうしね。
――さて、そうなると後は簡単だ。
連中に犯罪者どもを眠らさせて、全員の左手に僕と同じような傷を付けてもらえばいい。
あとは臨時で適当な検査を行ったとでも言っておけば、みんなこの傷は検査でついた物だとでも思って納得するだろう。
「……まったく、面倒な仕事を増やしちゃったな」
軽口を叩いてから腕にタオルを巻いて。
僕は、地上に出てきた本来の目的たる、会社への提示報告へと向かった。




