第一〇八章:悪党
「さて、もう分かっただろう?
私は一度も件の抗ウイルス剤とやらを打っていない。
にも関わらず、この通りピンピンしている」
「…………」
淡々と、誇るでも無く。
氷室は、自分が発症のリスクとは無縁であることを示した。
――今の言葉が意味するところは、実験体連中にとって限りなく大きい。
これからは、反乱が起きる可能性だって視野に入れなくてはならないだろう。
ただ、その前に――。
「……なるほどね。よく分かったよ。
それで? どうしてアンタは、わざわざそれを僕に教えるのかな?」
「ほう? と、言うと?」
氷室は、針金のような肩をわざとらしく竦める。
――まったく、白々しいことこの上ない。
「その方法で助かるのは、注射器を持っているアンタだけだ。
……例えばの話だけど。僕が自分が助かる為に、ここでアンタから注射器を奪おうとする、なんて事は考えなかったのかな?」
「体格的には私の方が勝っている。
貴様一人では私から注射器を破損させずに奪うのは難しく、また貴様はそんな下策を使うほど馬鹿でも無いと判断した」
「……、僕がアンタの話を研究員側にリークして、その対価として自分の待遇改善を要求する可能性は?」
「現状では未だ私一人が薬の投与を逃れているだけに過ぎず、その情報に貴様の待遇改善に応じる程の価値があるとは思わん。
……私と貴様を、両方とも“処分”すれば済むだけの話だからな。
それに、今から私が提示する情報と条件は、貴様がいま挙げた二つの方針の、どちらよりも大きな利点を供する事が出来ると約束できる」
朗々と、氷室は僕を値踏みするように言った。
――情報と条件だって?
この上、コイツは何を企んでいるっていうのか……。
「都合の良い“条件”を飲ませる為に、予めバイアスの掛かった“情報”を流してくれるっていう意味かな? はは、ずいぶんと親切で商売上手なんだね。
ここから出られたら、似非健康グッズでも売り出してみるっていうのはどうかな?」
「ククク、流石はその歳で爆弾テロを企てただけの事はあるな。
頭の中身まで吹き飛んでいるとは、やれやれ筋金入りだ」
軽薄に笑って、お互いにわざと軽口を叩き合う。
ちなみに爆弾テロというのは、一応僕の罪状という事になっている。
……もちろん、嘘八百ではあるのだが。
「……、それじゃ、先ずは情報から聞こうか。
アンタが自分だけ得してるっていう意外に、何か僕に役に立つ事でもあるのかな?」
「――毎週、注射を打つ毎に我々が書かされているレポート」
僕の問いを無視するように、でも明らかに頭の中を整理しながら彼は続ける。
現状の綻びを、一つ一つ解いていくように――。
「素人の寄せ集めに過ぎない実験台連中に、大切な研究のレポートを書かせる。
――おかしいとは思わんか?
我々を追い詰めるのが目的なら分かる。しかし奴らの本来の目的は、我々の処刑では無く細菌兵器の開発の筈だろう?
……研究という視点から考えれば、完全に手段と目的が逆になっていると言わざるを得ない。
にも関わらず、毎回完成するレポートは、辛うじてとはいえ実用に耐えるレベルの物――これは、何故だろうな」
「……僕たちの中に、ある程度レポートを仕上げる技術を持った人間が混じっている?」
「……それだけ、だとは思っていないだろうな?」
「…………」
――この問いは、明らかに僕を試した物だろう。
なら、ここで下手にぼかして言うのは得策じゃない。
「……僕たちの中に施設側の人間が紛れていて、それとなくフォローを入れている。こんなところじゃないかな?」
「ああ、そうだ。それが問題なのだ!!」
問題を解いた生徒を見る家庭教師のように、“よく出来ました”といった顔で囃し立てる氷室。
……随分と楽しそうじゃないか。
いや、この男のことだ。もしかしたら、本当にこの状況を楽しんでいるのかもしれないが――。
「連中は、何故そんな回りくどい事をしているのか?
可能性は幾つか考えられるが――恐らくは、人が居ないのだ。
素人丸出しの物資班入員に、加速度的に凶悪になっていく細菌兵器。加えてこの状況が生み出された直前の連中の態度を見ていれば、大方の事情など一目瞭然だろう。
……ククク、こんな杜撰な状況だ。連中の人材は、かなり危機的状況にあると見て良いだろうな」
「…………」
……なるほどね。
この男が提示する“条件”とやらが、少し見えてきた。
「――ふん、察したようだな」
「まあね。要するにアンタは、僕たちの中に紛れた施設側のスパイを探すのを手伝え、って言いたいんだろ?
――なるほど、名案だよ。
そんな状況の上に、ウイルスも投与されていないって言うんじゃ、確かに反乱を起こせば成る可能性が高いからね。でも、予めスパイを特定しておかなきゃ怖くて身動きが取れない。
だからアンタは、自分が反乱を起こす為に――」
そこまで言ったところで、僕は口を噤まざるを得なかった。
氷室が呆気にとられたような顔で、僕を見ていたから――。
「? 何を言っているのだ?」
氷室は、僕の言っている事が本当に分からないといった態度で――。
「何故私が、反乱など首謀しなくてはならない?」
――はっきりと、そう断じた。
「――、なんだって?」
「考えてもみろ。
この状況、私だけは絶対に毎週の投薬を生き延びる事が出来るのだぞ?
切羽詰まっているのは私では無い。――貴様だよ」
「――っ」
――、コイツ、まさか。
「……、僕を、利用するつもりなのかな?
反乱の、首謀者として――」
「利用とは人聞きが悪い。
私はいずれ死ななくてはならん貴様に、生存の為の策をやろうと言ったのだ。
感謝される事こそあれ、恨まれる筋合いなど微塵も無いぞ?」
「…………」
――なるほどね。
いつもいつも、本当に、アンタはなんとも分かりやすい建前を言う男だよ。
自分の利益を出す為に、他人をまるで駒のように扱って、しかし自分だけは一切のリスクを負う事が無い。
今こうして、僕にこの話を持ちかけているのだって、
――注射器を破損させずに奪う程の腕力差が無い。
――逆上するような性格では無く、感情よりも利益を取るタイプ。
――医学部を卒業したような年齢では無い→研究員では無い。
それらの条件や推論を総合的に判断した上で、僕が一番扱いやすそうに見えたからなんだろう?
――まったく、なんとも汚いやり口だ。
本当に、つくづくアンタらしいよ。
……、…………。
……、でも、残念だったね。
アンタ本当に、同情するほど運が無いよ――。
「――よく分かったよ。それで? アンタが声を掛けたのは、僕だけかな?
はは、随分と信用されているみたいだね。嬉しくって涙が出るよ」
「残念だが貴様で二人目さ。
一人目は、そうだな。確か、トロそうな黒髪の女だった。
進行状況は分からんが、数時間ほど姿が見えなくなった、怪しい男に目をつけたとも言っていたな」
「……、そうか。
それなら、僕はその彼女と協力するべきなんだね。
その人の罪状が詐欺じゃ無い事を祈ってるよ」
――先ずは、この情報を握っているのが何人なのか正確に把握する必要があるな。
それと、この男はいつでも殺せる状態にしておきたい。
さて、今回はどんな風に抹殺してやるのが面白いかな。
歪みそうになる口元を引き結んで、酷薄な笑みを噛み殺しながら、僕はその場を去ろうとして――、
「確か殺人補助だと聞いたが――、まあ、大して気にする事でもなかろう。
別段、法を犯した人間がみな悪党という訳でも無いのだからな」
「っ!! なん……、だって?」
――何か、虫酸が走るような言葉を聞いた気がした。
沸騰しそうになる血液を深呼吸で鎮めて、目眩で歪みそうな視界を押しとどめる。
「……、犯罪っていうのは、絶対悪のことだろう?
そっち側のアンタは、自分を正当化したいのかもしれないけどね。
最低限、そこは認めなくちゃいけないんじゃないかな?
悪党なら罪を認めて、ちゃんと反省しないと――」
「――はっ、なんともお目出度い思考だな。
それほど単純に善悪が決められるのなら、一体どれほど楽なことか――」
「――っ」
――、抑えろ。
ここでは、僕は犯罪者側の人間だ。
ここでこの男を殴りつける意味も無ければ、そもそもそんな意思を抱く事すらおかしい。
「――犯罪者は悪か? 法さえ守ればそれで正義か? 笑わせる。
法律とはな、“国”を守る為にあるのだ。
それは断じて我々を、ましてや弱者や一個人の保護を優先してくれるような、都合の良い物では無い。
……この世に、絶対的な正義など存在しないのだ。
我々がどれ程の人間を殺そうとも、それが絶対的な“悪”になどなりはしないように、な」
「…………」
――氷室は、何かを論じた。
それはまるで、僕の精神を抉るように。
或いは僕の矛盾を賛美するように。
確固たる信念を持って、彼は僕に何かを諭していた。
――きっと、それは。
もしかしたら、彼自身の――、
「……、よく分かった。
アンタは、正しいよ」
氷室と視線すら合わせずに、僕は彼とすれ違う。
――、そうだな。確か時限式のキャリアが実験段階だった筈だから、それを試してみる事にしようか。
――ああ、なんていうことだ。
この男は、本当に正しかったらしい。
だって、確かに。
彼の言う通り、例え法に触れるような事をしているのだとしても。
僕は、“悪”なんかじゃ無いのだから――。




