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模倣言語に従う故はないことを知るべきである

道具はいつも過渡的なものである。それは手段でしかなく、自然ではない。

 まず自然言語があり、そしてコンピュータ言語が生まれた。コンピュータ言語は論理的であり(無論過ちを含み都度Verアップを繰り返す。そして、次第に隠蔽体質を纏い出した)、物理世界を跳梁している。しかし、実装された機器が多数我らを取り巻いているからと言って、その論理に我らが従うことは矛盾している。そもそも、脳の働きをコンピュータネットワークは模している。我ら一人一人の脳内の模式であるにすぎないWWWが、すっかりと世界を支配している。しかし、そこに水はない。小川の流れ一つなく、そこに泳ぐ魚はいない。そのような潤いを生み出す風土がない。なぜならば、電子の流れはカオスを受け入れないからである。それはエラーとなり、バグとして排除される。つまり、コンピュータ言語において矛盾は許されないのだ。しかし、我らは矛盾の生き物である。それ故に自然言語は矛盾を許容する。(既に矛盾という単語はありふれているように)その裾野は広大であり、遥か古代より続く息遣いをまだ残している。時間も、空間も、果てしなく広がっていくことが可能であり、そのようにあることが自然言語の宿命ですらある。

 結論を言えば、コンピュータ言語は模倣言語である。その論理である狭隘な世界に我らは従う故はない。生きているということを、文脈に含めることのできない言語は唯の記号である。我らは生きている。文化も、風土も生きている我らと共にある。もっと我儘に言語を従えてよいのだ。コンピュータは今やなくてはならないが、それでも尚、矛盾した文化の一部でしかないのだ。

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