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綿あめのきみ  作者: うわの空
第五話
10/14

幸せを絞め殺すひと

 幸せな家族が欲しかった、というのが『父親』の言い分だった。妻がいて、子供がいて、家があって、笑顔がある。そういう幸せがたまらなく欲しかったのだ、と。

 初めてそれを知った時、『幸せな家族というのは、子供がいないと駄目なのだろうか』と思った。いまでも思うし、答えはわからない。たとえば、私と湊には子供がいない。では、私と湊は他人なのだろうか。夫婦と呼べても、家族とは言えないのだろうか。だから皆、次はベビちゃんだのなんだの言うのか。

 結婚の話が出た時、私は子供を産みたくないとはっきり言った。彼は笑って頷いてくれて、それでも毎月『催促』の電話は鳴る。

 ――喧嘩したなら仲直りして、できるだけ早く。これを言う私こそが、喧嘩の火種かもしれないのに。

 ガジュマルはいつだって、隣に誰かが来るのを待っている。



「今日の晩ご飯、たけのこにしようかなあ」


 ゴールデンウィークあけの朝、スーパーのチラシを見ながら湊が言った。


「たけのこご飯か、若竹煮か、天ぷらか。どれがいい?」

「……ぜんぶ」


 たけのこづくしか、と湊は笑った。それじゃあたけのこのスイーツも調べておくよ、と笑いながらも誠実な声で付け足す。恐らく本当に作るつもりだろう。まさか『たけのこアイス』だとか『たけのこパフェ』なんかが出てきたりするのだろうか。


「……楽しみにしてるわ」


 ブラックコーヒーを飲んで、玄関でお弁当箱を受け取る。もう二度と会えないかもしれないと思いながら湊の笑顔を見て、扉を開ける。

 もしかすれば、これに慣れてしまっていたのかもしれない。『二度と会えないかも』なんて思いながら、心の隅では『帰宅すれば湊がいる』とも思っていた。もう二度と、という想いが習慣化してしまうと、きっと次があるという希望的観測がうまれる。

 朝のコーヒーも、手の込んだお弁当も、彼の笑顔も。そのすべてを当然だと思い込み、明日も明後日も続くものだと安心してしまっている自分がいた。

 私はそれに、気づけていなかった。



 電話がかかってきたのは、昼休みの最中だった。見たこともない市外局番が画面に表示され、スマートフォンを震わせる。一緒に昼食を摂っていたジェルネイルの後輩が、指をさした。


「取らないんですか?」

「知らない番号だから」

「あー。間違い電話ってたまにきますよねえ。私、『社長ですか?』って電話が半年に一回くらいくるんですよ。どっかの社長の電話番号と似てるみたいで」


 間違い電話で思い出したんですけど、という後輩の話を適当に聞き流す。卵焼きはいつもより少し甘い。日によって味が若干変わる卵焼きが、手作りだと主張しているようだった。そしてそれが、好きだった。

 昼休憩の間に、電話は二回鳴った。

 私が異常を察知したのは勤務終了後。ロッカールームでスマートフォンを確認した時だった。

 ――不在着信、三十八件。

 四時間で三十八件、それもすべて同じ番号からだった。さすがにおかしい。私の携帯には留守電機能も転送機能もないため、相手からのメッセージはない。ただ、尋常ではない着信件数が、普通ではないと告げていた。

 こちらから、かけてみるべきか。それともこの調子なら、また相手からかかってくるだろうか。最後の着信は五分前だ。

 考えあぐねながらも公園で煙草を吸っていると、スマートフォンが振動した。番号はやはり、昼にかかってきたものと同じだ。

 まだ長い煙草を携帯灰皿の底に押しつけ、スマートフォンを耳にあてた。


『――もしもし? あんた、円堂亜衣さん?』


 早口で、イライラとした女性の声だった。どこか威圧的な声は、短気なお客様によく似ている。


『こちら、円堂亜衣さんの携帯よね?』


 いまは高倉亜衣だと思ったけれど、訂正はしなかった。そうですけど、どちら様でしょうか。


『私、高倉湊の母親ですけどね。――あんた、どうやって湊をそそのかしたの』


 面識のない湊の母親から電話が来たことにまず驚いた。彼は、私の番号を教えていたのだろうか。ならどうして、今まで一度もかかってこなかったのだろう。

 そそのかす、という単語の意味を考える。あまりいい意味ではない。湊の母親は怒っていて、荒い息遣いがこちらまで聞こえてくる。


「……どういうことでしょうか」

『どうもこうもないわ。おかしいと思ったの。いつまで経っても挨拶しに来ないし、子供を作ろうともしないし。だから、あんたのことを調べてもらったのよ。そしたら何? あんた、とんでもない殺人鬼の子供じゃない』


 ――指先が一気に冷たくなった。心臓に血液が集中したような感覚があって、酸欠になった脳が働くのをやめる。余計なことを考えない分、相手の声はよく聞こえた。受話器からバサバサと紙の音が聞こえ、そこに書かれた罪状が朗読される。


薄田すすきだ被告は幼少の頃から小動物を虐待しており、高校生になる頃には公園にいる鳩や野良猫を殺害していた。近所の飼い犬を自宅に連れ帰り、包丁でめった刺しにしたこともある。成人になってからは誰とも連絡をとらず、一人でマンションにこもっていたという。そして、二十一歳から二十四歳までの三年間で、三人もの女性を監禁、強姦したのちに殺害。……この時もまだ猫を殺してたんですって? それも、被害者たちの目の前で。なんて恐ろしいの』


 私が握っている包丁を、あるいは抱きかかえている猫を見て、酷く怯えていた母を思い出す。猫を見る目も、私に向けられる目も同じ色をしていた。それが怖くて、「猫は嫌いか」と母に何度も訊ねたことがある。猫を飼えないのは団地のせい? 本当に「嫌い」じゃない?

 そういう目で私を見るのはやっぱり、「嫌い」だから?

 バサバサ。電話の向こうで紙が笑う。


『四人目の被害者は、犯人の自宅で発見・保護された。――これがあんたの母親なんでしょう』


 最低だわ、と湊の母親は言った。


『四番目に拉致されたのは、十五歳の少女。少女は約八か月もの間、監禁・暴行されていた。犯人は、二人の間に子供を作ろうと思っていたという。……それで、できたのがあんたって訳ね。妊娠についてはテレビでは伏せられてたみたいだけど、ちょっと調べればわかるんだから』


 ――機能不全家族内で育った犯人は『幸せな家族』というものに憧れ、女性を監禁しては家族になろうとした。が、自分の言うことを聞かない女性は衝動的に包丁で刺し殺した。四人目の少女は『包丁』や『小動物』での脅しが効いたのか、大人しく従順であったため、家族になれると信じていた――。


『気持ち悪い』


 新聞か週刊誌の文章を読み上げた湊の母親は、吐き捨てるように言った。


『湊には隠してるんでしょうけど、調べれば全部わかるのよ。あの子は優しいから、きっと騙されてるのね』

「……湊には結婚する前に、すべて教えています」

『嘘おっしゃい。誘拐殺人犯の子供なんかと、誰がすすんで結婚するの』


 湊は、私のことを一切話していなかったのだとようやく知る。ああそういえば、「親に隠す」とは言っていなかったけど、「話す」とも言っていなかった。私の「父親」が三人もの女性を拉致殺害したことも、母は四人目の被害者であったことも、加害者と被害者の間に生まれたのが円堂亜衣であることも、すべて黙っていたのだ。それなら、私の父が死刑となったことも刑が執行されたことも、母子家庭で育った母が祖母の死後、女手一つで大変な思いをしながら私を育ててくれたことも、教えていないのだろう。

 湊の母親が怒るのは当然だ。不安になるのも、私に怒鳴るのも、なんらおかしくない。彼を大切に想っているのなら。


『あんた、なにが目的なの? あの子に面倒見てもらうつもり? それともあんたの父親みたいに、家族が欲しかっただけ? それならどうしてあの子なの』

「……私は、湊の」

『あの子の名前を呼ばないで。気味が悪いわ』


 大体ね、と湊の母親は続けた。


『この記事だって、どこまでが本当なのか分かったもんじゃないわ』

「……どういう、ことですか」

『あんたの母親よ。これ、本当に被害者なの?』


 意味が、わからなかった。


「――なに言って」

『拉致されたとか書いてるけどね、十五歳でしょう? 本当は不良少女だったんじゃないの。で、そこら辺にいた男についていったんじゃない? 適当に遊んで妊娠して、そこで警察が来たから被害者ぶったんじゃないの。だっておかしいじゃない、堕ろさないなんて。もしも私が同じ立場なら、舌を噛み切って死ぬわ。その方が、犯罪者の子供を産むよりまだマシよ。……あんたも、あんたの母親も。よくもまあのうのうと生きてられるわね』


 湊の母親は、どうやって息継ぎしたのだろう。


『なんで堕ろさなかったのよ』


 私は、さっきまでどうやって呼吸していたのだろう。

 ――酷い、と思う。それは決して、湊の母親ではなくて。その言葉そのものが、酷いと思った。

 あの時、母はどういう気持ちでこの言葉を聞いたのだろう。私が叫んで、母が叫んで。母は部屋から出ていった。折れそうに細い身体。逃げるような物音。


 三日後、母はこの世界からいなくなった。


 自殺したのかもしれない。折れそうに細い身体で、逃げるような物音を立てて、トラックの前に飛び出したのかもしれない。もしもそうなら、原因は間違いなく私だ。だって私は言った。叫んだ。母に。

 謝る時間なんて、誰もくれなかったんだ。


 ――なにか買ってあげようか。


 あの時、どうして私はラムネを選んだのだろう。

 どうして言えなかったのだろう。

 お母さんとここに来れただけで幸せなのだと、どうして言わなかったのだろう。


『……人殺しの子供が、一般人を巻き込まないでちょうだい』


 湊の母親は少し落ち着いた口調で、けれど幾分低い声を出した。


『湊とさっさと離婚して。あの子から離れなさい。あなた、自分が人殺しの血を引いていると理解しているのかしら。蛙の子は蛙なの。分かる? 優しい人間につけこむ真似はやめなさい。いいわね』


 除霊されてるみたいだ、と遠いところで思った。私はいつの間に、怨霊になったのだろう。――ああ、違う。絞め殺すのか。

 ガジュマルは他の植物に寄生し、光を奪い、枯らしてしまう。近くにいる誰かを絞め殺して生長する木。誰かを、あるいは幸せを。

 触れたものを絞め殺す木。

 だから私は、母に触れることすら許されなかったのかもしれない。


 離婚届を貰いに行かないと。書くだけ書いて、彼の元へ送りつけようか。湊が離婚を嫌がっても、あの母親ならしっかりと見届けてくれそうだ。

 マンションにはもう戻らない方がいいように思う。貴重品はほとんど持ち歩いているし、個人的な家具はベッドとテーブルくらいしかなかった。取りに戻らなくても、どうとでもなる。

 ――ラムネのボトルを置きっぱなしだ。さすがにあれは捨てられてしまうかもしれない。

 知ってる。あんなの、本当はただのボトルだ。二十年も持ち続けるような貴重なものでもない。あんなプラスチックに固執している方がおかしいのだ。

 知っている。

 そういえば、今日の晩ご飯はたけのこづくしだと言っていた。たけのこご飯と、若竹煮と、天ぷらと。スイーツは結局どうなったのだろう。


「……食べられないわ、ごめん」


 私はいつから慣れてしまっていたのだろう。マンションで私を出迎えてくれる彼に。仕事終わりに公園で一本吸って、マンションへと戻る自分に。一年後の約束をできる、二人の関係に。

 それを普通だと思っていたのは、何故なのだろう。

 別れなんて、知らない間に始まっていて、気づいた時には終わっている。覚悟していたはずだ。日々の生活が普通なら、突然の別れもまた普通なのだから。

 そのために寝室を別々にしていたのに。彼のいない場所に慣れるために。眠る時、隣に誰もいない生活を普通だと思えるように。いつ、彼と別れてもおかしくないと思えるように。

 覚悟はしていた――でも、そうだな。

 今日、家を出る前に。


 いつもより三秒だけ長く、湊の顔を見ておけばよかった。


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