第26話 ララ・ヴァレンタインの計算と誤算
テラ・テルマエの朝は、極上の「もふもふタイム」から始まる。
「ほらシロ、じっとしてろよ。そこが絡まってるんだ」
「くぅ〜ん……」
居住ユニットのテラスで、俺は愛犬シロのブラッシングに精を出していた。
マザー特製の獣毛用ブラシを滑らせると、銀色の毛並みが波打ち、キラキラと朝露のような光を放つ。
先日のお風呂でピカピカになった毛は、驚くほど柔らかく、そして密度が高い。
指を埋めると、第二関節までスッポリと隠れてしまうほどだ。
「わふっ!」
シロが気持ちよさそうに身をよじり、俺の膝の上に顎を乗せてくる。
上目遣いで見つめてくる瞳はクリクリとしていて、吸い込まれそうなほど純粋だ。
俺はブラシを置き、両手でシロの頬を包み込んだ。
ふにふにとした感触。そして温かい体温。
顔を埋めて深呼吸すると、日向の匂いと、微かなミルクの香りが鼻腔を満たす。
「……最高だ」
俺は陶然とした。
この至福の時間のためなら、どんな激務にも耐えられる気がする。
シロも喉をゴロゴロと鳴らし、俺の手をペロペロと舐め返してくる。
『マスター。朝のスキンシップおよび精神安定は終了です。そろそろお客様がお待ちですよ』
マザーの無粋なアナウンスが、現実へと引き戻した。
そうだった。今日は大事な商談があるんだった。
「分かってるよ。……よし、シロ。行ってくるな」
俺は名残惜しくシロのお腹をひと撫でしてから、立ち上がった。
シロは「行ってらっしゃい」と言うように尻尾をパタパタと振り、テラスの定位置で二度寝の態勢に入った。
あざとい。そして可愛い。
集会場として使っている大型のログハウスに入ると、そこにはすでに商会『金色の風』のエリアマネージャー、ララ・ヴァレンタインが待っていた。
昨日の旅装とは違い、今日は商談用のきっちりとしたドレスを着ている。
だが、その目は獲物を狙う猛禽類のように鋭く、そしてギラギラと輝いていた。
「おはようございます、領主様! さあ、お金の話をしましょうか!」
挨拶もそこそこに、彼女はテーブルの上に分厚い羊皮紙の束と、魔石で動く小型の計算機をドンと置いた。
「おはよう、ララ。随分と気が早いな」
「時は金なり、よ。この領地を一通り見させてもらったけど……正直、震えが止まらないわ」
ララは興奮気味にまくし立てた。
「まずはあの野菜! エーテル水で育ったトマトやキャベツ、あれはもはや『薬』よ! 鑑定スキルで見たら、栄養価が通常の5倍、魔力回復効果まで付いてたわ。王都の貴族なら、一個で金貨一枚払ってでも欲しがるレベルね」
彼女の指が、目にも止まらぬ速さで計算機を叩く。
パチパチパチパチッ! という音が小気味よい。
「次に温泉! あれはダメよ、反則。私の護衛たちが、一晩入っただけで古傷が治ったって泣いて喜んでたわ。あの湯ノ花だけでも、高級入浴剤として飛ぶように売れるわね」
パチパチパチッ!
「そして極めつけは、あなたが作ったミスリル製品! フライパンに包丁!? 呆れて言葉も出ないけど、実用性は最高ね。一生モノの調理器具として売り出せば、料理人たちが殺到するわ」
ララは計算機の結果を表示させ、ニヤリと笑った。
「ざっと見積もって、初期投資だけで商会の年間利益を超えるわ。……ねえ、アルドさん。私と契約しましょう? 悪いようにはしないわ」
提示された金額は、俺が王宮で働いていた時の年収の、およそ100倍だった。
桁がおかしい。
「……確かに魅力的な数字だが、俺たちはまだ生産体制が整っていない。野菜は自分たちが食べる分が優先だし、ミスリル製品も俺の手作りだ。大量生産はできないぞ」
俺が冷静に指摘すると、ララは「チッ」と舌打ちしそうな顔を一瞬見せたが、すぐに営業用の甘い笑顔に切り替えた。
「あら、そんなの些細な問題よ。私が人を手配するわ。職人も、農夫も、輸送部隊も。あなたはここで、どーんと構えて指示を出してくれればいいの」
ララは立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出してきた。
ふわりと、香水の甘い香りが漂う。
胸元の開いたドレスから、豊かな谷間が強調される。
「ねえ、アルドさん。……私と組めば、世界中の富が手に入るわよ? お金だけじゃない。名声も、地位も」
彼女の手が、俺の手に重ねられる。
すべすべとした、手入れの行き届いた指先。
上目遣いで、潤んだ瞳を向けてくる。
「それに……私、仕事ができる男性って大好きなの。パートナーになれば、公私ともに『深い』お付き合いができるかもしれないわよ?」
あからさまな色仕掛けだ。
22歳の若さでエリアマネージャーまで上り詰めただけあって、自分の武器を熟知している。
普通の男なら、この笑顔と甘い声にコロリと騙されるのかもしれない。
だが。
「……ララ。その爪、手入れが行き届いてないな」
「へ?」
ララの甘い表情が凍りついた。
「爪の甘皮処理が雑だ。それに、指先にインクの染みと、計算機を叩きすぎたタコができている。……商談の前に徹夜で資料を作っていたのか?」
俺は彼女の手を取り、職人の目線で観察した。
美しい手だが、そこには努力の痕跡が刻まれている。
「あと、目の下のクマ。化粧で隠してるけど、隠しきれてないぞ。ちゃんと寝てるか?」
「え、あ、いや……それは……」
「それと、さっきから香水で誤魔化してるけど、微かに湿布の匂いがする。腰痛か? 長時間の馬車移動と、根を詰めた机仕事のせいだな」
俺はズバズバと指摘した。
色気など感じている場合ではない。これは「整備不良」だ。
人間というマシンのメンテナンス不足。
職人として、見過ごせない。
「マザー! ……くそ、医者に見せたいところだが、ここにはいない! お前が診断してくれ!」
『了解しました。対象、ララ・ヴァレンタイン。疲労蓄積レベルB。腰椎に軽度の炎症あり。推奨:温泉治療およびマッサージ』
「だそうだ。色仕掛けなんてしてる場合じゃないぞ、お嬢さん。まずは体を直せ」
俺はララの手を離し、呆れたように言った。
ララは口をパクパクさせ、顔を真っ赤にして震え出した。
「な、なによそれぇぇぇ!!」
彼女は計算機を叩きつけた。
「せっかく! 私が! 必死に! 女の武器を使って交渉しようとしたのに! なんで爪の甘皮とか腰痛の話になるのよ! この朴念仁! 機械オタク! 工具フェチ!」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてないわよ!!」
ララは髪を振り乱して叫んだ。
その様子を見て、俺は思わず笑ってしまった。
取り繕った営業スマイルよりも、今の素の表情の方がずっと人間らしくて好感が持てる。
「はぁ……。もういいわ。負けよ、負け」
ララはガックリと肩を落とし、椅子に座り込んだ。
「分かったわよ。あなたの言う通り、私は疲れてるわ。ここに来るまでも魔物に襲われるし、上司からは無茶な上納金を課されるし……もう限界よ」
「なら、まずは休め。契約の話はその後だ」
俺は立ち上がり、彼女に手を差し出した。
「温泉に入って、美味いもん食って、ふかふかのベッドで寝ろ。金の話は、頭がスッキリしてからだ」
ララは俺の手を見つめ、それから小さくため息をついて、その手を取った。
「……商売人失格ね、私。相手に気を使わせるなんて」
「いいパートナーになりたいなら、まずは対等なコンディションじゃないとな」
こうして、ララの色仕掛け作戦は完全に失敗に終わった。
だが、その代わりに俺たちは、腹を割って話せる「対等な関係」を築くきっかけを得たようだった。
その日の午後。
温泉から上がり、マザー特製のマッサージチェアで揉みほぐされたララは、別人のようにツヤツヤしていた。
「あー……極楽。本当に死ぬかと思ったわ」
テラスで冷たい果実水を飲みながら、彼女はだらしなく伸びている。
そこへ、昼寝から目覚めたシロがトテトテとやってきた。
「あら、ワンちゃん。いい毛並みね」
ララが手を伸ばすと、シロは警戒することなく近づき、彼女の手に鼻を押し付けた。
そして、コロンと転がって「撫でて」のポーズ。
「わふっ」
「きゃあ! 何この子、すっごく手触りがいい!」
ララはシロの銀毛に指を埋め、その感触に驚愕した。
「この毛……最高級のシルク以上よ! これ、抜け毛を集めて織物にしたら……いや、毛並みを整える専門店を開業して……」
すぐに商売に結びつけようとするのは職業病だろうか。
だが、シロはそんな計算高いララの心を見透かしているのか、ただ無邪気に彼女の手を甘噛みし、じゃれついている。
「ふふっ、くすぐったいわよ。……あなた、いい子ね」
ララがシロを抱きしめ、その顔を埋めた。
シロのもふもふに顔を埋めるララの表情は、計算も野心もない、ただの少女のものだった。
「……癒やされるわぁ」
その光景を見ながら、俺は思った。
この商魂たくましい少女も、ここではただの一人の住人になれるのかもしれない。
シロが懐いているのが何よりの証拠だ。動物は、人間の本質を見抜くというからな。
「さて、アルドさん」
ララがシロを抱いたまま、俺に向き直った。
その目は澄んでいて、先ほどのようなギラつきはない。
「リフレッシュさせてもらったお礼に、最高の契約書を作らせてもらうわ。あなたたちが損をしない、そして私もしっかり儲かる、互いに利益のある関係をね」
「ああ、頼むよ。俺は数字に弱いからな」
「知ってるわよ。……でも、人を見る目はあるみたいね」
彼女は悪戯っぽく笑い、シロの肉球をプニプニと押した。
「よろしくね、私の新しい『お得意様』たち」
こうして、テラ・テルマエは、大陸一の商会とのコネクションを得た。
ララの計算高さと、俺の技術、そしてマザーの生産力。
これらが組み合わさった時、この辺境の地は、世界経済すら揺るがす一大拠点へと変貌していくことになるのだが――それはまた、別の話だ。
今はただ、もふもふのシロを挟んで、新しい仲間と乾杯しよう。
俺たちの前途は、黄金色の温泉のように明るいのだから。




