第九十六話 白い翼で守る天国
「えーと……あ、あったあった!」
天国の空高く聳える医療棟。四十階の特別室のベッドで上半身だけを起こした状態で、ルークは分厚い本に目を落としていた。隣では、滅多にここに立ち寄ることのないミカエルが、立った状態で少し屈み、ルークの指さした文面をのぞきこんでいる。
「どれだい?」
「これっす」
「えぇと……武器の使用についてのとこだね」
二人が見ていたのは、天国法の武器の扱いについてだ。リリィが何者かに攫われたという話を聞き、ルークが真っ先に確認しようと思ったのがこの法である。
「天国法第三十五条『武器の使用には『対価』を差し出さなければならない』……めんどいっすね。何でこんなのあるんすか?」
「天使は誰も傷つけない。やむを得ず誰かを傷つける必要がある時には、自分も同じだけ傷つく覚悟がなければならない。天使とは、そういうものだ」
「まぁそれはわかるっすけど……あ、だからハルトに水鉄砲貸したんすか?」
「いや、あれは彼の身の安全のためだ。天使の代わりに戦ってもらおうなんて、昔も今も思っていないよ」
「完全に巻き込まれただけっすもんね。ハルトいい奴すぎんだよなぁー」
自身の地獄行きをどうにかするだけの話だったのにいまやすっかり上層部に欠かせない存在になった上、勇者として聖剣まで出した一人の人間。彼を思い出し、ルークは溜息をついた。今頃リリィを助けるために地獄の底で戦っているのだろう。サタンやクロムもついているので万が一にも命を落とすことはないと信じているが、何か自分も役に立てる事は無いのか、ルークは考えを巡らせていた。
「本当はおれも行きたいっすけど、まだ力が戻ってねーし」
「安静にしていなさい」
「ねーちゃんの生死かかってんのにじっとしてらんねーっすよ。せめて援護できれば……あ、そういえば武器って、あの槍は含まないんすか?」
ルークが思い出したのは、工房に置いてあった短めの槍の事だ。天国の各家庭にお守りのように置いてあるもので、先は丸く殺傷力はほとんどない。しかし形状は紛れもなく武器ではないのかと不思議に思ったルークに、ミカエルが答える。
「武器の「対価」は「殺傷力」に比例する。確か法律書の次のページに」
「あ。ほんとだ」
空色の瞳が細かな文字を追い、ルークは納得したように頷いた。つまり、相手に直接ダメージを与えなければ対価は無いに等しいのかもしれない。
「ね、マスター。無殺傷ならセーフ?」
何か考えが浮かんだのか。にやりと上がった口角に、ミカエルは大きく頷いた。
「私が責任もって、無問題だと断言しよう」
「よっしゃ!」
ガッツポーズをしたルークは、すぐに呼鈴を鳴らす。凛とした鈴の音が響き、すぐにファルコが飛んできた。数時間ぶりにこの特別室に足を踏み入れた彼は、思わぬ来訪者の姿に固まる。
「あ……あなたは……」
この天の国最高位のマスター。しかも彼はベッドの横に立っている。少し離れたところには豪華な応接セットもあるが、患者であるルークは絶対安静。横に椅子を持って来るという発想もなかったのかもしれないと、ファルコは焦った。
「す、すみません気がつかず!」
「無許可で済まないね。お邪魔しているよ」
「は、はいっ、どうぞ……あの、今椅子を持ってくるので」
「椅子より取ってきてほしいもんあんだけど。あーマスター、ちょっと話長くなるからベッド座って」
「椅子より先に? って、このベッドにマスターが!? いや、さすがにそれは……」
「いいね。上等な寝具だ」
「座った!?」
ルークに言われるがままにベッドの端に腰かけたミカエルに、思わずファルコは突っ込んだ。しかし当の本人はどこか楽しそうにのんびりと寝具の感触を楽しんでいる。
(いやダメだろ、マスターあんなとこに座らせちゃ……椅子持ってきたらダメなのか? や、でもなんか楽しそうだし、いいのか? マスターの考える事なんかわかんねーからなぁ)
「ねぇ、聞いてる?」
「はい!?」
ルークに声をかけられ、ファルコは上擦った声を出した。ベッドの反対端に立ち、ルークの指示を聞く。天国の存続に関わる一大事があるのだと、既に話は聞いていた。出来ることがあるのなら何でもするつもりだ。
「そんなことならお安い御用ですが……何に使用する予定で?」
「ちょっと秘密兵器を作ろうと思って。ちょっと工房に工具袋取りにいきたいんすけど」
「絶対安静です。リーダーである前に患者なんですから、許可できません」
「えー」
ルークは残念そうに枕に凭れた。ミカエルが微笑み、立ちあがる。
「なら私が取りに行こう」
「や、さすがにマスターパシリにはできないっすよ。おれが……」
「俺が行きます! マスターは休んで……」
「あんたは仕事あるっしょ。だから……」
「いや私が……」
数分揉めた後、工具袋は結局ミカエルが取りに行った。
◇
「もっと花摘んできて!」
「おい、こっちも足りねぇ」
「もっとしっかり潰してください」
「一滴も零すんじゃねーぞ」
それから間もなく。医療棟最上階では、医師や薬師が忙しく走り回る様子がみられた。天国のみに咲くある特定の花をかき集め、擂り潰して液状にした後特別室に運ぶ。そして特別室ではルークとミカエルが、野球のボールほどの大きさの特殊な球体にそれを詰めていた。ベッド横の大きな籠には球体が山となっているが、ルークはまだまだ足りないという。
「どのくらい作るんだい?」
「作れるだけたくさん。たぶん、いくらあっても足りないから」
「それは大変だね。応援を呼ばないと」
大きなスプーンで液体を量りながら、ミカエルは頷いた。この花はそれほど特殊な花ではないので材料の調達には事欠かないが、人手が圧倒的に足りない。医療棟全員の協力があっても、今日中には終わらないだろう。
「応援って誰呼ぶんすか?」
「一般天使達に呼びかけてみよう」
「協力してくれっかな……」
「きっと大丈夫だ」
ミカエルはそう言って、手のひらを上に向けて念じた。瞬く間に数羽の白い鳩が現れ、窓から外に飛んでいく。伝書鳩と呼ばれる、天国に昔から伝わる最速で確実な伝達手段だ。
「五百年前、私を含めリーダーたちは皆、天使たちを守ることに必死だった。犠牲者を一人でも減らしたい一心で、天使たちを城に隠し、自分たちが盾になろうとした……でも、それは必ずしも正しい方法ではなかったと思う。天使の数は、悪魔よりも遥かに多いのだからね」
窓の外に広がる空は、もうすっかり暗くなっている。暗闇に光る無数の星を眺めながら微笑んだミカエルを見て、ルークは無言で頷いた。助けを求めることの大切さと難しさは、彼もよく知っている。
「みんなで守る天国か。実現できたら最高っすね」
天使は弱くて臆病だ。普通に考えたら、悪魔に勝てるわけがない。しかし、知恵を絞って助け合えば不可能に思えることも達成できる。そんな理想を思い描いたミカエルとルークのもとに、ひとつ、またひとつと白い翼が集まってきた。
医療棟が手狭になるほどの協力者があらわれた頃には場所を広場に移して、天使たちは皆、自分の国を守るために動き回る。なかでも一際熱心なのは、リリィの非公式ファンクラブの面々だ。
「リリィ様を誘拐なんて許せねぇ話だ! 急いで花を集めてくるぞ」
「でもこれ何に使うんすかね?」
「知るか! でもルーク様が言うんだからなんかこう……頭いい感じの事やってんだろ」
「ルーク様の知恵は凄いっすからね」
肝心のルークが絶対安静のため、この作業にどんな意味があるのかまでは伝わり切れず、何もわからないまま手伝っている天使たちも多かった。しかしリリィの人気とルークの賢さに対する信頼は絶大だ。「ルークがリリィを攫った敵を倒すために何かをやっている」と、これだけ伝われば十分だった。
「こっち足りないぞ!」
「花弁取ったらこっち回して!」
「急げ! リリィ様のピンチだ」
「こっち手足りないの、何人か……」
「もっと応援連れてきます! 行くよ、ライア」
「えぇ」
天使たちに混ざり、大量の花を広場に置いたばかりのライアが黒い翼を広げ、オリバーとともに応援を呼びに向かった。もともとオリバーの交友関係は意外に広いのだ。特に最近は、リリィのドラマチックな創作話のおかげで魔王とクロムの存在が天国でも認められて来たので、ライアと一緒にいても前ほど冷たい目では見られなくなっていた。ハルトとリリィとシルヴィアとクロムに、彼らは計り知れない恩がある。
「あっちの村に友だちがいるんだ。応援頼もう」
「そうね。それから、この前ご挨拶した山奥の葡萄畑はどう?」
「いいね! あそこはライアにも優しかったし、きっと協力してくれるはずだ」
「早く行きましょ」
二人は連れ立って星の瞬く夜空を飛んだ。天使は朝が早い分、夜眠るのも早い。みんな夕食はとっくに終えて、眠りにつく時間だろう。できるだけ早く応援を集めなければならない。
「どんなに手伝っても、やった事が消えるわけじゃないけど……」
「でも、僕たちにできる精一杯をやるしかないよ」
たとえ自分たちの全力が、あの素晴らしきリーダー達の足元どころか靴の底にも及ばないとしても。ふたりはそれぞれ自分なりの「最高速度」で、天国の広い空を飛びまわった。
◇
「ルーク! いる?」
それから間もなくのことだった。突如特別室に現れた金髪の天使を見て、ルークは思わず立ち上がろうと腰を浮かせた。
「ねーちゃん! 無事だっ……あー、いって」
「ルーク、寝てなきゃダメじゃないの」
頭を両手で押さえたルークに、リリィが駆け寄る。ベッド脇に積み上げられた大量の球体に一瞬不思議そうな視線を向けたあと、リリィはルークを抱き締めた。
「心配かけてごめんね」
「魔王様も師匠もいるんだし、心配はしてねーけど……ほんとよかった」
心配してないといいながらも力強く腕を回すルークの桃花色の髪を、リリィはぽんぽんと撫でた。幼いころからずっと一緒に頑張ってきた、たったひとりの家族。普段の態度は素っ気なくても、大切に思う気持ちはいつも伝わっている。
「地獄どう?」
「みんな無事よ。えぇと、ケルベスさんがルシファーさんを復活させて……」
「待って待って。ルシファーって誰!? の前に、金印は」
「……取られちゃった」
気まずそうに横を向くリリィを見て、おそらく金印と引き換えに開放されたのだろうとルークは推測した。しかし、ハルトと魔王とクロムとシルヴィア、四人が満場一致でそれをよしとしたなら、挽回のチャンスはあるのだろう。
「わかった。もーちょい詳しく教えて」
「えぇ。あ、ファルコさんって方はいる? 頼みたいことがあるんだけれど」
ルークの空色の瞳が、虹色の栞に吸い寄せられる。
「これ何? あー待って。虹色のクローバーって、あの手帳のやつだ」
「そうなの。これの中身を取り出したくて」
「りょーかい」
ルークは呼鈴を押し、すぐに駆け付けたファルコに栞を託した。ほどなく戻ってきたミカエルも加え、ルークのベッドで報告会が始まる。
「ルシファーを復活させたのか」
「えぇ。ルシファーさんは、その……マスターが」
「そうだよ。私が撃ち殺した」
ミカエルは当時を思い出したのか、悲痛な面持ちで頷いた。しかし、リリィがケルベスとの会話の中で父親の死について聞いた話を伝えると、ミカエルはそれには首を振る。
「ルキウスの最期には、クロムが立ち会った。彼の話を聞いたんだけどね。ルキウスは、ただ転んだだけだと。そう言っていたそうだよ」
「転んだ?」
リリィが瞬いた。そして少し考えて、父の天より広い器と優しさを知る。自分の死はただ運命の悪戯で、誰のせいでもないのだと、そう伝えたかったのだろう。許すどころかなかった事にしていたのだ。
「ねーちゃんのドジって、先代似かな」
同じ事を考えていたであろうルークが、寂しそうに笑う。綺麗な笑顔で頷いたリリィの瞳から、涙が一筋零れ落ちた。
「そうかも」




