第九十一話 強制的な復讐
目が覚めると、真っ暗闇が広がっていた。
「う……ん……?」
リリィはゆっくりと身体を起こした。地面が熱い。血と肉が腐ったような濃い匂いがして、苦し気な呻き声が絶えず耳に届く。もっと目を開こうと瞼を動かすと、布が擦れる感触がした。目隠しをされているらしいと気がつくが、両手首には重りがついていて上手く動かせない。
「……地獄?」
何も見えていないにもかかわらず、リリィは現在地を確かめようと首を動かした。周囲が何も見えなくても、地獄の奥に来たのだと感覚でわかる。気を失う直前に羽根を一枚階段に置いてきたことに、仲間は気づいてくれただろうか。
そんな事を考えていると、背後から声が聞こえた。
「起きたか」
「誰!?」
やはり見えないのに、リリィは振り向いた。聞いたことのない声だが、それはそうだろう。リリィは普段悪魔とは関わらない。男性悪魔で声を聞いたことがあるのは、サタンとクロムのふたりだけだ。
「あなたは、誰?」
「さてな」
再び聞いたが、声は名乗らなかった。コツコツと靴音が聞こえる方向から、男がリリィの正面にくるのがわかる。濃い悪魔の気配から、かなりの力の強さを感じた。
「お前はルキウスとローズの娘だろう。やはりよく似ている」
「ケルベス……さん?」
「知っているのか」
名を呼ばれるとは思わなかったのか、男は驚いた声をあげた。しかしそれも一瞬。すぐに平静に戻る。
「そうか……どうせクロムに聞いたのだろう。ろくでなしの仮王だと、あいつは思っているだろうからな」
「え?」
今度はリリィが驚いた。ケルベスと言葉を交わしたのは初めてだが、そんな事を言うとは思わなかったのだ。リリィはいつか空色の手帳を見ながらクロムに話を聞いたことを思い出した。
「……あなたは、以前は天使を好んでいたと」
「だが天使は俺たちを見捨てた!」
ビリビリと鼓膜が揺れるほどの剣幕で、ケルベスは叫んだ。身を縮ませるリリィに構わず、彼は話を続ける。
「天使は冷酷で矛盾だらけの生きものだ。誰にでも優しいふりをしながら、建前さえあれば傷つけることを少しも躊躇わない」
「そんなこと……」
リリィはすぐに否定しようと思って、言葉に詰まった。天使は誰も傷つけない。誰に言われなくてもそういうものだと思っているし、そう心がけてもいる。しかし、心当たりも無くはない。天使が本当に誰も傷つけないのなら、天国に武器はひとつもないはずなのだから。
「……ルシファーさんという天使と婚約していたと聞きました」
リリィは少し話題を変えた。思い出しているのはルキウスの似顔絵にあった、栗色の髪と濃緑の瞳。あの時クロムは多くを語らなかったが、天使と結婚するつもりだった彼がこれほどまでに天使を憎むのには、何か理由があったに違いない。
「何があったんですか?」
「ルシファーは死んだ」
少し考えるような間があって、あらゆる感情を押し殺したような冷たい声が聞こえた。
「天使に嵌められ、天使に責められ、天使に殺された。彼女は何の非もない、誇り高き善良な天使だった……ちょうど、お前のような」
ケルベスがそう言って、パチンと指を鳴らした。目隠しが外される。リリィは目をパチパチさせて周囲を見回したが、前も後も横も闇の中だ。
「これは……?」
目を凝らすと闇の中に、ぼんやりと青く光る一輪の花が浮かんできた。宝石のように美しく透き通った花弁は触れると硝子のように硬いが、薄くて儚い印象を受ける。
「獄炎花という花だ。花弁を破壊すれば青い炎を噴き出す危険な花。天使には馴染みがないだろうが、下層ではたまにこんな花が咲く」
カツン、と闇の中で靴音が響き、リリィの手に獄炎花が握らされた。リリィは手のひらを広げて、慎重にそれを持った。手首の重りが外れて自由になる。しかし、周囲の景色も見えず危険な花を持たされている状況では、やはりどこにも動くことはできない。
サファイアのように煌めく花弁に魅入られているリリィに、ケルベスは語り始めた。
「……きっかけは、些細な口論だった。ある天使が苛立ち交じりにほんの軽い気持ちでそれを蹴り飛ばした。花から噴き出した炎は多くの天使や悪魔を焼き殺し、周囲は騒然となった。そして、怖くなった天使は近くにいたルシファーに罪を擦り付けたんだ。彼女が違うと叫んでも、周囲の天使たちは聞く耳を持たず彼女を責めた。天使は誰も殺さない。ルシファーに、天使の資格はないと」
こみあげる感情を抑えるように静かに、ケルベスは言った。リリィは身動き一つせず、静かにそれを聞き続けた。彼は、ずっと誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。何となくそう思ったのだ。
「ルシファーは心優しい天使だった。仲間だと思っていた天使に罪を擦りつけられ罵倒され責められて、平気なわけがなかった……そして、傷ついた彼女の翼は黒く染まった」
「黒く? そんな事が……」
リリィは驚きのあまり獄炎花を落としそうになって、慌てて持ち直した。衝撃を与えないようにそっと床に置く。
「やはりミカエルは何も話していないんだな」
暗闇に落とされたのは、失望の溜息。その意味をリリィが問うより先に、抑えられない怒りが声に乗った。
「ルシファーは冤罪で堕天した。そしてそんな彼女を、ミカエルは撃ち殺したんだ」
「そ、それはきっと……平和を守るために……」
「守るため? 違うだろう、天使は臆病なだけだ」
首筋に、ひんやりと冷たいものがあたった。リリィは身体を固くして、逃げる方法を探す。瞬間移動で逃げられれば良いのだが、方向がわからない。迷っていると、感情を抑えた冷たい声が聞こえた。
「瞬間移動は、方向がわかっていないとできないはずだ。近くにはマグマの滝や最下層へ繋がる階段もある。当てずっぽうで移動すると、せっかくの白い翼が焦げてしまうかもしれないな」
翼に触れられた感触がした瞬間、リリィの全身を蛇が這うような感覚が襲った。瞬時に白い翼を消した天使の首に当たっているのは一本のペンに過ぎないのだが、見えない恐怖が鋭い刃先を連想させる。
動けないでいるリリィの耳元で、ケルベスが囁いた。
「瞬間移動でみるといい。間違えて最下層に行ってその自慢の翼を焦がせば、かつての父親とお揃いになれるぞ」
「……!」
思わず息を呑んだリリィ。その反応を見て、ケルベスは低く嗤った。
「知らないのか? なら教えてやろう。お前は金印と交換する大事な人質だが、ただ待っているのも退屈だろうからな。ちょうど余興を用意していたところだ」
首筋に押し付けられたものが離れた。再びパチンと指が鳴らされ、前方にひとりの悪魔の姿が映し出される。
しかし、その悪魔は明らかにケルベスではなさそうだった。瘦せていて顔色は悪く、翼も片方破れている。意識は朦朧としていて、魔のオーラもほとんど持っていなさそうだった。
「あの悪魔を見ろ」
後ろからケルベスの声が聞こえた。しかし振り向いてもケルベスの姿は見えず、声だけが聞こえてくる。今リリィの視界に映っているのはあの衰弱した悪魔だけ。誰だろうと無い記憶を辿ろうとするリリィに、ケルベスは、衝撃的な事実を口にした。
「あいつは父親の仇だ。五百年前、ちょうどこの近くにある階段の上からルキウスの背を押して、最下層へ突き落し翼を焦がした」
「そんな……」
リリィは真っ暗な視界が更に暗くなっていく感覚に陥った。心臓が跳ね、音が遠くなっていく気がする。言葉もなく目の前の悪魔を見つめるリリィに、彼は慌てて言った。
「ち、違う……おお俺は、よかれと思って」
「言い訳は見苦しいぞ」
「だって、戦争中だったんだ! お、俺は悪くないんだ」
男は縋るようにリリィを見た。
「あなたが……お父さんを……?」
震える声で、リリィはやっと口を開いた。父が五百年前の事件のときに亡くなったのは当然知っている。天国で大勢仲間を助けて天秤を守り、誇り高き天使として亡くなったのだ。
「お父さんは……天秤を守って亡くなったと」
「あのルキウスが、天秤を移動させたくらいで死ぬわけがないだろう」
ケルベスの呆れた声が聞こえた。
リリィも、膨大な聖なるオーラを持っていた父親が天秤を動かしただけで力尽きたと思っているわけではない。しかし自分から詳しく聞こうとはしなかった。父の最期を、具体的に想像したくなかったから。
「ルキウスが死んだのは、こいつが背中を押したからだ」
ケルベスの冷酷な声が繰り返したと同時に、目の前に置いたはずの獄炎花が浮き上がった。闇の中で一際存在感を放つ美しい花。再び釘付けになるリリィに、ケルベスが囁く。
「これをあいつに投げつければ、父の仇を討てるぞ」
しかし、リリィは少しも迷わず首を振った。
「そんなこと」
「怖くてできないんだろう。天使は弱くて臆病だからな」
ケルベスは意外にも、あっさり納得したようなことを言った。最初からリリィの答えが分かっていたような口ぶりだ。
「おまけにプライドが高く対面を気にする厄介な生きものだ。だから、俺が大義名分を与えてやろう」
次に暗闇に映し出されたのは、床に倒れている小柄な少年の姿だった。うつ伏せに倒れていて顔はよく見えないが、リリィにはそれが誰なのか一目でわかる。
「ハルトさんっ!」
叫びながら駆け出そうとしたリリィは、ハルトの身体の上に鋭い刃が刺さりそうになっているのを見て、中途半端に足を出した状態のまま固まった。
「賢明な判断だな」
褒めるようなケルベスの声がハルトのそばから聞こえた。ハルトの首を狙った黒い短剣とそれを握る手だけが不気味に浮かびあがり、声は無情な選択を迫る。
「お前があの悪魔に復讐できたら、ハルトは無傷で返してやろう」
短剣が、ぐっとハルトに近づいた。リリィはこみあげる涙を身体の奥に沈めるように深く長く息を吐き、恐怖に震える手を、ゆっくりと青い花に伸ばしていくのだった。




