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第八十九話 人生は予想外の連続(前編)

 流れる空気に緊張感を残して、それぞれが役割を果たすため散っていったあとの煉獄。温暖な気温は先ほどと変わらないのに急に寒くなったように感じて、聖夜は鞄から薄手のカーディガンを取り出した。


「瑠奈ちゃん。これ着てなよ」

「何故ですの?」

「寒くない?」

「寒く感じるとすれば、あなたのせいですわね」


 ルナはツンと横を向いた。しかし聖夜は彼女のそんな態度にはすっかり慣れている。むしろ彼女の美しい横顔を存分に眺められる機会だと、微笑みながらルナを見つめていた。


「……あなた、本当に人間ですの?」

「人間じゃなかったら何に見える?」

「最初は天使に見えましたが、今は魔物だと言われても納得できますわ」

「魔物って瑠奈ちゃんの横に浮いてる猫みたいな?」

「これは(わたくし)の使い魔です」

「おっと」


 猫のような形の影から大鎌が降ってきて、聖夜は大きく仰け反った。ルナは鎌を肩に担いで聖夜を睨むが、聖夜はそのルナのスタイルが何かに似ていると呑気に考えている。


「わかった、死神だ!」

「悪魔ですわよ」


 ポンと手を打った聖夜に、ルナは呆れた視線を向ける。仲間の命が懸かっている危険な状況だというのに、何故彼からは髪の毛一本ほどの緊張感も感じないのか。


「あなたは、この状況が恐ろしくないんですの?」


 ルナは心底疑問に思っていたことを口にした。彼は死後の世界に来るのも、天使や悪魔を見たのも今日が初めてのはずだ。いきなり別の世界に連れてこられて数時間のうちに魔王との対面も果たし、仲間と兄が剣を合わせる場面を目撃したのも、初めての経験のはずだ。なのに、聖夜は少しも動じた様子はない。ただの人間にしては、肝が据わりすぎているのだ。


「……僕は人間だけど、同じ世界に人間以外の種族がいる事を知ってるんだ」

 

 少し考えを纏めるだけの間をあけて、聖夜がぼそりと口を開いた。ルナは視線を合わせないまま静かに耳を傾けた。この男の話す事に興味を持ったのは初めてかもしれない。


「この世には普通の人間が生涯関わらないようなものがたくさんあって、それが思いもよらない形で突然目の前に現れたりする。左手の数字とか、背中に翼の生えた女の子とかね」


 聖夜はルナの横顔を見て微笑んだ。彼女から何も返事が返ってこないのを気にせずに続ける。


「だから僕は、人生にはどんな予想外も起こって当然(・・)と思ってる。出来れば死にたくないから避けれる危険は避けたいけどね。でも将来っていってもあと何年生きるかわかんないんだし、そもそも死ぬまで人間でいるかだって怪しい。流石に死ぬ前に死後の世界に来るとは思わなかったけど、一応僕は僕のままだし、起きたらカエルになってたとかよりマシでしょ」

「蛙になったことが?」

「無いけど」


 首を振る聖夜を見て、ルナは納得したように頷く。成程、日頃から突然蛙になる未来予測(シュミレーション)までしているならば、確かに動じることは少なそうだ。


「……あなたなら、蛙になっても平然としているんでしょうね」

「どうかな? 流石にびっくりはすると思うけど」

「数分後にはきっと(ハエ)を食べていると思いますわ」

「蛙になったら食べるかもね。美味しく感じるかもしれないし」


 普通の人間なら盛大に顔を顰めるであろう例え話に、聖夜は平然と頷いている。


 ルナは聖夜が心底苦手だ。最初は彼の軽薄な雰囲気に嫌悪感を感じていたが、今は彼と話をするたびに、自分が「人間」というものを何も理解していないのだと思い知らされるような気がして少し落ち込む。それほど、彼はルナの思う人間像とはかけ離れていた。


「あなたは人間らしくありませんわね」

「瑠奈ちゃんだって、悪魔らしくないでしょ」


 天国に憧れてるんだから、と聖夜は笑う。悪魔が「らしくない」。悪魔なら誰もが怒り狂うであろう禁句だ。しかし、聖夜が伝えたいのはそれだけではない。


「不思議だよね。らしくない事言ってる割に、その黒い翼、すっごく似合ってるんだからさ」


 ルナは大鎌を担いだまま、背中の翼をちらりと見た。悪魔は「らしくない」といった癖に、黒い翼は「似合っている」。意味が解らないと最初は呆れたが、なぜかその言葉は時が経つほどにじわりとルナの心に沁みていった。黒い翼を誇りながら地獄より天国に憧れる、どうしようもないその矛盾こそが、まさしく自分なのだ。


「……あなたは本当に、人間らしくありませんわ」


 釣り合いの取れている金の天秤を見て、ルナは繰り返した。しかし聖夜からは珍しく返事がない。ルナが聖夜の視線の先を辿ると、彼は地獄への階段の先をじっと見ているようだった。


 やがて両手を軽く広げてルナを庇うような位置に立った聖夜に、彼女は冷ややかな視線を向けた。


「何のつもりですの?」

「盾にくらいはなれるかと思って」

「悪魔が平気で人間を盾にするものだと思っているなら、勘違いですわよ」

「そんな事思ってないよ……あ。でもちょっとやばいかも」

「え?」

「僕が盾になるくらいじゃ、無理そう」

 

 聖夜はルナの手を引いて、天秤の後ろに連れて行った。そこから様子を見ていると、十数名の悪魔たちが白いタイルに降り立った。おそらく力の弱い、上層付近にいた悪魔たちだ。数名はそこそこ強い悪魔も紛れているが、いずれにせよルナの敵ではない。隠れる必要もないのだが、有益な会話が聞けるかもしれないのでそのまま会話を聞くことにした。


「ここ何だ?」

「煉獄だろ。説明聞いてなかったのかよ」

「だってよくわかんねーし。逃げんのに必死だったし」

「あの『侵略者』って何なんだよ、只者じゃねーよ」

「クロムさ……クロムも一緒だったな」

「何故か人間を抱えた天使も一緒だし」

「でもやっぱ一番やべぇのはあの侵略者だよ。マスターよりすげ……」

「しっ! マスターに殺されるぞ」


 ルナと聖夜は顔を見合わせ頷き合った。彼らの言う「侵略者」がサタンの事を指しているのは明らかだ。どうやらもう地獄に着いて暴れているようだ。


「うわっ!」


 そのまま様子を見ていると、悪魔のひとりが驚いた声を出した。バサバサッと羽音が聞こえ、大量のコウモリのような魔物が現れる。そのあとからまた悪魔たちが現れ、やがて階段前は大量の悪魔とコウモリで溢れかえった。


「(どうする?)」

「(彼らが何もしないのなら、戦う必要はありませんわ。悪魔を殺すのは違法ではありませんが、大量に殺してしまうと働き手がいなくなってしまいますもの)」

「(なるほど)」


 聖夜は納得して頷いた。悪魔は地獄の働き手。更に言えば、ここにいるのは魔王に恐れをなして逃げてきた悪魔たちなので戦闘意欲も無さそうだ。戦わなくて済むならそれでいい。ならばしばらく隠れていようかと話し合っていたところに、気の強そうな女性の声が聞こえた。


「あなた達。こんなところまで逃げてきて、何をしているのかしら?」

「はんちょ……クレハ様!」


「クレハって……」

「(しっ! 聞こえますわよ)」


 クレハ、という名前に二人は素早く反応した。黒髪のショートカット、真っ赤な口紅の似合う悪魔が階段から飛んできて、眉を吊り上げながら白いタイルに降り立つ。


「さっきマスターに忠誠を誓ったばかりで、情けないにも程があるわ。地獄のためなら命を懸けるのではなかったの?」

「それは……」

「今すぐ戻りなさい!」


 クレハは階段を指さして叫んだ。ビリビリと空気が震える。上司の厳しい命令に従うしかない悪魔たちは階段の方に向かうが、出来る事なら地獄に戻りたくはないのだと恐怖に震えるその背中で訴えていた。


「ほら、早く戻ってマスターのお役に立つのよ。あなた達のような役立たずでも、壁にくらいはなれるかもしれないんだから」


 平気で仲間を盾にしようとしているクレハを見て、聖夜がルナに視線を向ける。


「(悪魔は仲間を盾にしないんじゃなかったっけ?)」

「(あの女が腐っているだけですわよ。高潔な悪魔の印象(イメージ)が台無しですわ)」


 ルナは眉を吊り上げてクレハを睨み、天秤の陰から出て行った。慌てて聖夜も後を追う。


「(ちょっ……! 瑠奈ちゃん、危ないって)」


「地獄へは行かせませんわよ」


 階段を下ろうとしていた黒い翼がぴたりと止まり、振り向いた。深紅の瞳がルナを見て驚いたように一度だけ瞬き、すぐに鋭く細められる。


「こんにちは。魅惑の悪魔(うらぎりもの)さん」

「ご機嫌よう。無能な仮王(ろくでなし)の手下さん」


 嫌味を嫌味で返し、ルナは大勢の悪魔たちの前に堂々と立った。黒い翼を大きく広げ、リーダーたる堂々とした佇まいでクレハを睨む。


 黒真珠の瞳は、今まで誰にも見せたことが無いほどに冷ややかだった。

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