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第八十話 そのうち役に立つ男

「ね。今なんかやばい悪魔出てきたんじゃない?」


「……そうですわね」


 煉獄の大広間から渡り廊下で繋がっている別エリア。救護室や事務室など数多くの部屋があるそこで、ふたりは同時に顔をあげた。魔王の復活をはっきりと感じたルナは、急いで合流しなければと入り口の扉に手をかける。


(最悪ですわ……よりによって聖夜(こいつ)と一緒だなんて)


 ルナは聖夜をチラリと見た。彼は壁一面の大きな本棚から数冊本を抜き出し、先程から熱心に読み進めていた途中のページを指で挟んでルナの方を見ている。突然瞬間移動で見知らぬ場所に来たにしては落ち着いた態度だ。むしろ堂々としすぎていて不自然ですらある。


「よく平静でいられますわね」

「え? そうかな。結構ドキドキしてるよ?」


 聖夜はパタンと本を閉じて、ぐるりと辺りを見回した。本棚にぎっしり詰まった本と幾つものファイル。簡素な長机と椅子。学校の図書室に似ているが、こんな場所は見たことがない。


「だって、まさかこんな場所に来るとは思わないじゃん?」


 そう、二人がここにいるのは偶然だった。クロムの店から出たところで聖夜が靴紐を結ぶためにしゃがみ込み、待っていたら突然この部屋に飛ばされたのだ。おかげで苦労して店から出した聖夜まで巻き込まれてしまった。リリィに会ったら、瞬間移動の範囲指定について小一時間は問い詰めたいとルナは思っている。


「とにかく行きますわよ」

「連れてってくれるんだ」

「こんなところに一人で残して何かあったら嫌ですもの」

「心配してくれるの?」

「あなたがいる事で計画が狂うのが何よりも心配ですわ」

「まぁ、確かに僕は部外者だけどさ」


 聖夜は二冊持っていた本のうち一冊を鞄に入れ、一冊を手に持ち直した。ルナの不審者を見るような視線を受けて笑う。


「もしかしたら、結構役に立つかもしれないよ」


 彼が先程鞄に入れた本のタイトルは「煉獄の仕組み」。ここ煉獄について詳しく書かれているその本の内容は、彼はほとんど読めていない。


 しかし中に書いてある資料室の図がこの部屋と一致している事に気づいてから、最初のページにあったこの世界全体の見取り図を、聖夜はしっかり頭に入れていた。彼は恐ろしく勘と要領のいい男だ。そして、それをよく自覚している。


「あなたが何の役に立つと?」


 しかし、ルナは冷めた目で聖夜を見た。今はまだいいが、そのうち大規模な戦いになるかもしれないのだ。浅黄が勇者となって攻めてくる可能性もある。


(聖剣は、人間を殺せるのかしら)


 ルナは今更ながら考えた。聖剣は悪魔を祓う聖なるオーラの塊だ。故に天使は傷つけられない。では人間はどうなのだろう。それにより、聖夜を守る事にどれほど意識を割かなければならないかが変わる気がする。


(確認が必要ですわね)


「ねぇ。瑠奈ちゃんは、どうやって悪魔と戦うの?」


 いつのまにか聖夜がすぐ近くまで来ていた。ルナは扉から手を離し、聖夜の顔を見上げる。代わりに彼女の細い身体を覆うように、聖夜の片手が扉にかけられた。


「ちょっとは動揺してくれてもいいのに」

「何がですの?」

「うーん。壁ドンってやつ?」

「あなたに壁が破壊できるとは思えませんが」

「そのつもりで言ったんじゃないけど、今は破壊できればいいのになって思ってるよ」


 聖夜は残念そうに溜息をついた。これから悪魔祓いの仕事についていこうとしているのに、聖夜には戦う術がない。せめて素手で壁を破壊できれば戦力として彼女の視界にくらいは入るかもしれないと、彼は思っている。


「それで、瑠奈ちゃんはどんな戦い方をするの?」

「あなたには関係ありませんわ」

「こんなところまで来たんだし、もう立派に関係者だよ。ねぇ、武器とかないの?」

「あったところで、あなたに持たせるつもりはありませんわ」

 

 ルナは能力を使うことなく聖夜の瞳をじっと見つめた。


 目を見つめれば思考を奪い、頬に唇を寄せれば支配でき、唇を合わせれば魂を抜くことができると言われる「魅惑の力」。


 ルナはこれでも、地獄に今いる悪魔たちの中ではこの力に適性がある方だ。しかし、真面目な性格の彼女とは酷く相性の悪いこの力を、使いこなしているとはとても言えない。


「そんなに見つめられると照れるんだけど」

「あら。慣れていらっしゃるのでは?」

「そんなの、君に初めて会った瞬間に全部忘れちゃったよ」

「調子のいい記憶力ですわね」


 ルナは呆れて聖夜を見た。本当の事なのにな、と聖夜は内心ため息をつく。彼女に恋をしてから、聖夜は自発的に全ての女性と連絡を断っている。しかし悲しいことに、長年染み付いた軽い調子の口説き文句が無意識に口から出てくるせいで、説得力は全く無い。


「行きますわよ。早く合流しないと」

「黒谷さんのとこかー。なんか悔しいけど仕方ないか」


 聖夜はため息混じりに扉を開けた。ルナを先に通して扉を閉めると、少しも迷わず左側に進む。おそらく集合場所は最も広い大広間だろう。「嫌な予感」を感じる場所と一致するし、たぶん間違いない。


「こっちだよ」

「どうしてあなたが」

「いいから。ほら、あっちの方から変な感じするし。なんか魔王って感じの」


 聖夜が道を知っているのは、本で見取り図を見たからに他ならない。しかし適当に言った「魔王」の単語にルナは反応した。何故この男は、ピンポイントで鋭い事を口にするのか。


「……あなたが魔王様を知っているとは思いませんでしたわ」

「いや、兄さんがよく言ってたからさ。聖剣で魔王倒すんだって」

「信じるんですの?」

「だってこんな不思議な世界にいきなり来たりしちゃうんだし。悪魔がいるなら魔王もいるでしょ」


 白い廊下を歩きながら、聖夜は事も無げに言った。そしてそれから、不思議そうに首を傾げる。


「でもなんか、思ったより怖い感じじゃないんだよなー。凄いって感じはするけど」

「あなた、本当に人間ですの?」


 ルナは思わず立ち止まった。その反応を見て、聖夜は自分の感覚が的外れではない事を感じる。


「ただの人間だよ」


 ただの人間。それ以上でも以下でもない。しかし、聖夜は人間以外の存在を信じている。普通の人間には見えない世界が、確かに存在することを知っている。


(僕には知らない事がたくさんある。知らない世界も。魔王の事だって、まだ何も知らないんだ)


 魔王は敵だと兄が言った。しかし自分の目で見たわけではない。それに目の前にいる少女もそうだ。彼女は自分が人間だと、一言だって口にしていない。


「ねぇ。悪魔ってさ。死んだらどこ行くのか知ってる?」


 再び歩き出したルナに、聖夜は並んだ。考え始めたら色々気になる。彼女はどれだけ答えてくれるだろうか。


「悪魔に死後の世界などありませんわ。死んだら魔のオーラに還り、地獄の一部となるのです。罪を犯した悪魔は、地獄に堕ちて罰を受けることもありますけど」


 ルナの返答はやけに具体的で、それがただの想像では無いように思えた。聖夜は続けて質問する。


「やっぱり、悪魔は天国には行けないのかな」


 ルナの肩がピクリと動いた。天国はルナの夢だ。黒い翼を持ちながらあの穢れのない場所に憧れるのは、やはり異質なことなのだろう。しかし。


「……天国に行くまでは、死ねませんわ。私の生きる目標ですもの」

「そっか。良かった」


 聖夜は微笑んでルナを見た。目標のために死ぬのではなく、生きるための目標ならば、何の憂いもなく応援できるのだ。


(悪魔祓い……か。気を遣って嘘つかなくても良かったのに)


 道が二手に分かれた。聖夜は右を指し、ルナがそっちに曲がる。その横にふわふわ浮いている黒い猫のような形をした塊が、先程から聖夜には見えていた。そして目を凝らすとうっすらと、彼女の背中に影のように見える、黒いコウモリのような翼。それがコスプレなんかではないと、とっくに聖夜は知っていた。


「きっと天国にも行けるよ、瑠奈ちゃんなら」


 そっと呟いた励ましの言葉は届かなかったようで、彼女は振り返らず歩いていく。しばらくその背中を見て、聖夜も続いた。自分の意思で邪悪な気配に向かって進んでいくのは初めてだが、不思議と怖くはない。


(悪魔って何が好きなんだろ。人間の感覚で話しても大丈夫かな……瑠奈ちゃんはケーキが地雷だったけど、本拠地ケーキ屋さんだしなー)


 コミュ力には自信がある。悪魔とだって魔王とだって仲良くなってみせると聖夜は意志を固め、手に持ったままだったもう一冊の本を鞄にしまう。誰も手に取らないような隅にあったその本は、未だ解明されていない謎が多いためか酷く薄っぺらい。


(魔王様に会ったら、ちょっとアピールしてみようかな。この本も僕も、そのうち役に立つかもしれないし。ね)


 数多くの資料の中で聖夜の興味を最も惹いたそれは、後先考えない者を誘う罠。軽薄そうな表情に浮かぶ決意はどれほどのものか、彼自身にもまだ、はっきりとはわかっていないのだった。

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