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第七十一話 天使と人間、悪魔と人間

「魔王様と勇者……そんな事が」


 煉獄の扉が開く少し前。カウンター席の端から(わず)かに身を乗り出したまま、瑠奈は考え込むように視線を落とした。少し離れたソファー席では、シルヴィアが聖夜と話し込んでいる。聖夜の気をひく作戦のはずだが普通に盛り上がっていて、楽しそうな笑い声が店内に響いていた。


「でも確かに、そうなると色々と()に落ちますわね」

「お前は勘が鋭いから、不審に思うことも色々あったろう。きちんと説明していなくて悪かったな」


 今日こんな風に集まるくらいなら昨夜のうちに説明しておけばよかったと、クロムは申し訳なさそうに瑠奈を見た。先程から聖夜を意識して会話は若干の小声だ。


「とんでもない。(わたくし)などの事を気にかける必要はありませんわ」


 瑠奈はぶんぶんと首を振った。しかし、今の話を聞いて数々の疑問点が線となって繋がったのは事実だ。


「浅黄の背後にクレハという悪魔がいたのは、おそらく勇者を育成するため。そうですわね、ハルトさん」

「僕もそう思いました」

「浅黄……勇者になりたいと言っていた奴だな」


 以前白の部屋でハルトから聞いた情報と合わせて、クロムは少し考えた。おそらくだいぶ早い段階でクレハの接触があり、時間をかけて勇者候補に仕上げたのだろう。しかしこちらに攻め込んでこないという事は、まだ聖剣を手にしてはいないようだ、


「浅黄が勇者になってしまったら厄介だな」


 ただの一般人が勇者になるのと敵に育成された勇者候補が勇者になるのとでは天国と地獄ほどの差がある。五百年前まんまと敵に利用された先代勇者の凶行が思い出され、クロムは盛大に眉を寄せた。聖剣相手に善戦は厳しい。相討ち覚悟で全ての力を使っても、サタンのように地獄やそこで普通に働いている悪魔たちを守り切れるかは自信がなかった。


「すみません。僕が至らず……あともうちょっとな気がするんですけど」

「今はまだ必要な時ではないだけだ」


 聖剣を出すにはおそらく心からその必要性を願わなければならないのだろうというのが、先代勇者の記憶と白の部屋で読み漁った書物を(あわ)せたクロムの見解だ。百パーセントの確証はないが、しかし洋菓子店でのんびりお茶を飲みながら出すようなものではないのは間違いない。申し訳なさそうに眉を下げるハルトの隣では、瑠奈が涼しい顔でグラスについた水滴を拭っていた。


「危機感が足りないということですわね。おそらく、ハルトさんを地獄の下層付近にでも置いてくれば聖剣も出るのでは?」

「下層付近……」

「リスクが大きい割に意味がないだろう。悪魔大虐殺犯を継がせる気か」

「そんな事しませんよ!」

「地獄に置き去りにされる事よりも虐殺犯扱いの方に激しく反応するあたり、やはりあなたは(まれ)にみる善人ですわね」


 瑠奈は机の上に置かれたハルトの数字(カウンター)を見て溜息をついた。度重なる天国での修行や天使との関わりで、以前よりも随分とマイナス分は減ってきているがプラスにはまだ遠い。しかし内面を知れば知るほどに、ハルトが地獄に相応しくないのがよくわかる。


「心配ない。天秤が完成すれば、ハルトのこの数字も消える」

「あぁ、そうでしたね」


 クロムが同じくハルトの左手を見た。ハルトも自分の数字をじっと見る。最近、ハルトは数字(カウンター)を意識して見てはいない。それよりも遥かに大切なものがあるのだと知った時から、彼の中でそれは全く意味を持たないただの記号になっていた。


「天国行きか地獄行きかなんて、もう今は結構どうでもよくて。それよりもどう生きるか(・・・・)の方に集中したいなって。もし天国に行けるんだとしても、魂だけになっちゃったら何もできませんから」

「……魂だけになったら、おまえはどうするつもりだ」

「え?」


 あくまで人間として生を終えることを重要視するハルトの言葉に、クロムが問いかける。人間の一生は天使や悪魔にとってはほんの一瞬、火花が散るように短い。


「魂だけに、なったら……」


 何か出来るのだろうか。天秤で裁かれて、傾いた方に連れていかれて。多くの死者たちと同じように、天国か地獄のどちらかで半透明になって。そこまで考えたハルトの背筋を、ぞわりとした寒気が襲った。天国には何度も行ったし、地獄の話も散々聞いた。しかし、今初めてハルトは本当に死を意識した気がした。


「お前がどんなに長く生きたとしても、残りの時間は百年にも満たない。今後の事についても考えておけ」


 ハルトは頷いた。今後の事が何を指すかは聞かなくてもわかっている。輝く金髪と蒼い瞳、疲れも悩みも溶かしてくれる優しい笑顔。彼女の背には、白い翼が生えている。ハルトが年をとっても、魂になっても、彼女は何も変わらず今のままだ。人間と天使の恋は禁止ではない。人間のために翼を捨てた天使もいるという。しかし。


「……リリィから翼を奪ってしまうのだけは、嫌なんです」


 眉を下げて下を向きながら、ハルトはぼそりと呟くように言った。とんでもない我儘を言っている自覚はある。一生大切にするといいながら、自分の一生は彼女にとっては一瞬なのだ。思い悩んでいる様子のハルトに、クロムは優し気な視線を向ける。ふたりの恋路を応援している者はたくさんいるが、誰もリリィから翼を奪うという未来は想定していない。


「お前らについては、ルークが口を挟む気満々だ。おそらくミカエル様も協力してくださるだろうし、落ち着いたらいくつか提案があるかもしれん。だが最終的な選択はいつだって本人が決めるものだ。心の準備はしておけ」

「はい!」

「難儀な恋ですわね」


 瑠奈が氷が溶けて少し薄くなったアイスコーヒーを飲みながらハルトを見た。瑠奈は人間そのものは好きだが、恋愛対象にしようとは思っていない。そのどこか他人事のような冷めた目を見て、ハルトは聖夜の絶望的な片思いの行く末を思い心の中で合掌した。


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