第六十九話 他人の恋路は面白い
――――ジュワァ
「うっ……あぁぁああ―――!!」
「えっ!?」
黒い煙が脚からあがる。すぐにハンカチを離し、ハルトは下がった。何が起きたのか、突然の事で理解が追い付かない。
「すいませんっ!」
反射的に謝罪の言葉を叫びながら、紺色のハンカチを見る。知らぬ間に聖水が劇薬に進化したのだろうかと混乱した頭で思い、おそるおそる触れてみたが変化はない。
(やっぱり普通の聖水だよね……?)
ひんやりと水分が含まれたハンカチを触りながらそんな事を思い、そして遅れて気がついた。聖水は悪魔を祓う。つまり目の前の女性は……
「悪魔……?」
聖水を脚に押し当ててから数秒、ハルトはやっと女性の方を見た。しかしそこには既に人の姿はなかった。まるで夢でも見ていたかのように、なんの気配も感じられない。
(もういない……って、こんなことしてる場合じゃ!)
もしかしたら、いやもしかしなくても、様子を見にきた敵の悪魔だ。呑気に手当なんかしている場合ではなかったと、ハルトは急いで店へと向かう。
「黒谷さんっ! 大変です! ……っと、あれ?」
階段を駆け上がり、クロムとシルヴィア、そしておそらく瑠奈もいるであろう二階のドアを開けたハルトは、思わず報告を忘れて立ち止まった。思わぬ人が立っている。
「……聖夜さん?」
「あ。ハルト君だ! こんにちは」
「こんにちは」
以前と変わらぬ爽やかスマイルを浴びながら、ハルトは軽く会釈した。聖夜は普通の人間だと思っていたが、なぜここにいるのだろうか。質問しようと口を開く前に、聖夜の方から近づいてきた。
「話は聞いたよ。悪魔祓いの手伝いしてるんだって?」
「え……?」
「あれ? 違うの?」
「違うな。ハルトはただの手伝いじゃない。こう見えて腕利きの悪魔祓いだ」
「あっ、ごめ……失礼しました。君、凄いんだね!」
「……はい」
今度は聖夜の感心しきった眼差しを受けた。なぜそんなことになっているのかはわからないが、余計な事を言うなとクロムの表情が告げている。ならば今は話を合わせる時だと、ハルトは頷いた。この瞬間から悪魔祓いに転職だ。
「えぇと……あ! 悪魔を見たんです。この店とクリニックの間の通りで」
「悪魔?」
「はい。途中で消えちゃいましたけど」
早速報告しなくてはと、ハルトはクロムを見て言った。悪魔祓いの話をしているのなら、悪魔について話すのは不自然ではないはずだ。その報告を聞いてクロムは眉を寄せる。消える、という能力には心当たりがある。以前ライアを襲った悪魔を取り逃がしたのは、途中で消えたからだ。
「まさか、ショートカットで赤い口紅の女じゃないだろうな」
ピンポイントで外見の特徴を口にしたクロムに、ハルトは驚いた。なぜ知っているのだろうと思いながらも強く頷く。
「そうです!」
「クレハさんそこにいたんだ!」
「クレハさん? え、あの人が?」
「兄さんに電話したんだけど繋がらなくてさ」
「兄さん?」
「浅黄ですわ」
「え、浅黄先生の弟さんだったの!?」
衝撃の新事実がテンポよく攻めてきて、リアクションが追い付かない。混乱するハルトの背中を、シルヴィアが優しく押した。
「まぁまぁ。まずは座ってお茶でも飲みなさい。みんなも座って! ちょっと状況を整理しましょ」
そんな場合ではないだろうと言いたげにクロムはシルヴィアをちらりと見たが、彼女は視線を合わせなかった。このまま立ち話を続けていても混乱するばかりだし、クレハが消えてしまったのならすぐに追いかけても見つからないだろう。情報を共有して作戦を立て直す方が良い。
「ほら、あんたは調理側」
「わかっている」
「瑠奈ちゃんここ座ろ」
「あなたの隣は嫌ですわよ」
「そう言わずに」
「ルークは……まだ聞こえてないわね」
「ルークいたの!?」
「今のあいつは置物と思え」
クロムが素早く人数分のグラスに氷を入れ、シルヴィアが飲み物を注ぐ。変わったメンバーではあるが、ようやくいつもの空気を取り戻した店内で、情報交換は緩やかにスタートした。
◇
「聖水で手当てしようとするとはな……」
クロムは呆れ顔でハルトを見た。シルヴィアから聖水に癒し効果を加える話は聞いていたが、こんな展開になるとは予想外だ。ハルトに危険がなくてよかったと思うべきか、笑顔で突然聖水を押し当てられたクレハに同情すべきか。
「名案だと思ったんですよね」
「悪魔じゃなければね」
「見分けられないなんて三流ですわ」
「瑠奈ちゃんはどうやって見分けてるの?」
「見ればわかりますわよ」
「へぇ! 凄いね!」
「それ全然参考にならないんですけど……」
ハルトは水鉄砲を取り出し眺めた。天使や悪魔の翼はオーラの塊らしく、実体化していれば見えるし触れるが隠していれば分からない。未熟な悪魔は翼を隠すのが下手なのでうっすら見えることもあるらしいが、ハルトには全く見えなかった。
しかしヒントは他にもあると、クロムがハルトの左手を指す。
「数字がなかったろ」
「なんか包帯いっぱい巻いてて」
「包帯? カムフラージュか」
「向こうも考えてくるわね」
「いや、そんな感じもしなかったんですけど……?」
グラスがカランと音を立てる。氷の溶けかけたオレンジジュースを一口飲んで、ハルトはクレハを思い出した。左手だけならともかく、包帯は全身に巻かれていた。人間に見せかけるためではないだろう。
「そういえば、全身に火傷を負ったと言っていましたわね」
瑠奈が浅黄の言葉を思い出し、鋭く目を細めた。聖夜が驚いた顔をする。
「紅葉さんが火傷を? 悪魔にやられたのかな。心配だな……」
「面倒だな」
クロムが聖夜を見る。悪意がないのはわかっているが、事情を公にできない者が混ざっているせいで話し合いが進まない。クレハがもう近くにいないのが分かった以上、この人間から得られるものもないだろう。
「ここから先は危険だ。お前は帰れ」
「いいえ、最後まで手伝います」
しかし聖夜はきっぱりと言ってクロムを正面から見た。悪魔祓いというのは予想外だったが、ここについてきた時点で危険は覚悟していたのだ。それに、ライバルに有利な状況を作るわけにはいかない。瑠奈がクロムに心酔しているのは、この数時間のやり取りや表情を見ても明らかだった。
「黒谷さん。僕はあなたを色々誤解していたので、それは謝ります。今日僕から見たあなたは、とても冷静で頼りになる親切な人だ。瑠奈ちゃんが好きになるのもわかります……でも、僕は負けません!」
「何だいきなり」
ビシッと人差し指をつき付けられて、クロムは困惑した。何の勝負をした覚えもないので、何に対しての宣戦布告かよくわからない。代わりに瑠奈が、机をバンと叩いて腰を浮かせて聖夜を睨む。本当に余計な事ばかりする男だ。
「ちょっと! あなたもう帰ってくださらない?」
「だめだよ。瑠奈ちゃん守るって決めたんだから」
「何もできないくせに」
「うっ、それは……とにかくっ、あなたに瑠奈ちゃんは渡さない! 僕だって頑張るんですから!」
「聖夜さんって浅黄先生に似てますね……」
ハルトは聖夜を見ながら浅黄玲央を思い出していた。熱いところと強引なところ、思いこみが激しいところが特に似ている。調理側ではシルヴィアが、クロムを揶揄うように見ていた。
「熱いわねー。ライバル宣言ですってよ。あんたどうすんのよ」
「どうすると言われてもな……」
クロムは瑠奈と聖夜を交互に見た。言うまでもなく瑠奈とはただの同僚以外の何物でもない間柄だ。正体がバレて面倒なことにさえならなければ、好きにすればいい。少し悩んで、クロムは聖夜に視線を向けたまま、瑠奈に手のひらを差し出した。
「……どうぞ?」
「……あんたそれはないわよ」
「ならどうすればいいんだ」
「いいんです! 貴方はそのままでいてくだされば」
「瑠奈ちゃんそんな。塩対応にもときめくファンみたいに」
「あなたまだいたの? 早く帰ってくださらない?」
「うわ酷っ! 帰んないけど」
「塩対応にもときめくファンってあんたの事でしょ」
「すっかりハマっちゃって……うわ危なっ!」
瑠奈から飛んできた小さなナイフのようなものを避けながら、聖夜は立ちあがった。瑠奈の反対隣りでは、ハルトがのんびりとストローに口をつけている。だんだんコメディ映画を見ているような気分になってきた。完全に他人事だ。
「えぇと……これなんの時間でしたっけ?」
「天秤待ちだ」
「そっか。今日中にできるって」
「できたらリリィが迎えに来るわよ」
「了解です」
天国ではミカエルが天秤の最終調整に入っている。完成次第リリィが迎えに来て、全員で煉獄に入り素早く魔王の復活に向かう手筈だった。しかし予想外にメンバーが増えてしまったので、計画は練り直しだ。特に部外者をどうするかは悩ましいところである。
「完成までにはもう少しかかると思うが……何とかしないとな」
クロムが壁の時計を見ると同時にチリンと店舗の鈴が鳴ったが、騒がしい二階にいる誰の耳にも、その音は聞こえていなかった。




