第四十三話 死後の世界は魂とともに(前編)
私は、人間が好きだ。
限りある時間の中で役目を全うし、短い寿命を精一杯生きようと努力している人間の生命力は眩しく見えるしそれだけで尊い。確かにどうしようも無い悪というのも時々は存在するが、大抵の人は一度きりの人生を清く正しく生きようと頑張っている。
だから、そうやって人生を全うした人間には最期にご褒美をあげたいのだ。もう苦しい事も、怖いことも無い。死の恐怖に直面したばかりの死者にただ幸福感と安心感を与え、一緒に天の国へ昇ることができるあの真っ白な翼に、私は強く憧れていた。
「———で、説明は以上だ。聞いていたか?」
目の前で強面の上司が眉を寄せる。いや、正確にはもう上司ではなく同僚、いや先輩というべきか。それにしても大きいなと、ルナは首を上に向けてようやく初対面を果たしたクロムの顔を見た。
つい三百年ほど前の戦争で亡くなったらしいリーダーの跡継ぎに指名され、今日が初の顔合わせ。しかし同じ立場になったとはいえ、もう何千年もリーダーとして地獄を背負って立っている彼の貫禄はやはり段違いだ。見た目から受ける印象としてはこれ程悪魔らしい悪魔というのもなかなかいないだろうと思うが、対面した印象は真面目そのものだった。
「はい、わかりました。よろしくお願い致します」
考え事の途中ではあったが、一応説明は頭に入っている。折り目正しく頭を下げたルナにクロムは軽く頷き、くるりと背を向けて歩き出した。
「最下層は限られた悪魔しか入れん。最下層行きの死者は積極的に案内するように」
「はい」
「分かりずらいが、入口は二箇所ある。あっちの炎を通った方が近道だが、油断したら翼が焦げるかもしれん。多少面倒だがこっちの道に沿って行った方が良いだろう」
「はい。そうしますわ」
説明を受けながら、最下層への長い階段を歩く。飛んでいった方が早いのだが、道幅が狭いので歩いた方がしっかり話を聞ける。しかし、クロムは歩くのが早かった。脚の長さが違うので仕方ないのかもしれないが、普通にゆったりと歩いているように見えるクロムの少し後ろで、ルナは翼をパタパタ動かしながら半分飛ぶように歩いていた。
「あの……少し、待ってくださ……きゃっ」
「おい」
急カーブに対応し切れず石壁に激突しそうになったルナをクロムが片手で止めた。壁から僅か数センチの場所にあるルナの額が大きな手で覆われている。そのままポンポンと前髪を撫でるように動かして、手はあっさりと離れた。
「悪かったな。ペースが早かったか」
「……いえ。私が遅かったのですわ。お手をわずらわせてしまい申し訳ありません」
ルナはほとんど無表情で頭を下げた。生まれつき魅了の特性が強い彼女は優しくされるのは慣れているので、特に何を思う事も無い。しかしこの先輩はたとえ石壁に激突して頭が割れようとも平気で見捨てて通り過ぎそうな見た目をしているというのに、内面は意外と紳士的なようだ。
(やはり直感の方が当たり……悪い方ではなさそうですわね)
先程よりも緩くなったペースはもう翼の力を借りなくてもついていける。ルナは気を引き締め、一足先に歩き始めた大きな背中を追いかけた。
「最下層は重罪人が来るところだ。一人抜け出しただけで大事になる。炎の中の様子も確認しないとな」
「はい」
ルナは辺りを見回した。どちらを向いても視界いっぱいに炎が広がり、何処に何があるかも全く分からない。上から見ようと高く飛ぶと、あちこちから上がる炎の中に、人間の魂が焼かれているのがよく見えた。
――ウゥー タスケテ ウワァァァ モウ ヤメテ――――――
呻き声が響く。地獄の何処にいてもこのような声は聞こえるが、この最下層は特に酷い。絶望に塗れた魂の叫びを、ルナは胸が裂かれるような思いで聞いていた。
(嫌な仕事だわ。人が苦しんでいるところを見ていないといけないなんて)
視界の隅にばさばさ揺れる目障りな黒い翼を引きちぎりたい衝動に駆られ、ルナは一度目を閉じた。この翼が白かったら、死者を天国に案内する事が出来るのだろう。なのに何故、自分は地獄の最下層で業火に焼かれる罪人を監視なんかしているのか。好きで悪魔に産まれたわけではないのに不公平すぎる。
(駄目よ。出来ない事をいくら嘆いても無駄……今は、私に出来る事をしないと)
いくら考えても、翼の色を変えることなんて無理に決まっている。それに、最下層の炎の中に入れるのは地獄の中でもたった数名、名誉な事だ。与えられた力の分しっかり仕事をしなくてはと思い直し、ルナは監視を再開した。
「終わったか。問題ないな。次は……そうだな、お前が先に歩け」
「あの。申し訳ありませんが道が……」
「だからだ。最下層は分かりづらい。俺がいるうちに出来るだけ慣れておけ」
クロムの次の指示は、最下層を自分の足で歩いて方向感覚をつかむ事だった。ルナも地理を把握するのは得意な方だが、ここはどこを見ても同じ景色なので本当に分かりにくい。手探りで進んでいると、やがて後ろから声がかかった。
「そっちは気をつけた方がいい」
「え?」
クロムの何かを警戒するような普段よりも一層低い声に余程危険なものでもあるのかと身構えると、彼は囁くような小声で言った。
「(黒の玉座がある)」
ルナは無言で頷いた。黒の玉座はマスターの定位置だ。まだ数回しか顔を合わせた事がないが、ルナは彼に全く良い印象を持っていない。
一方クロムは、ルナが心得たように遠回りするのを意外に思って見ていた。戦争後、死んだことになっている魔王について語るものはおらず、策略の悪魔はまるでずっと前からマスターの座にいたかのように玉座に座っている。あの戦争の記憶のないまだ産まれて数百年の悪魔達から見ると、彼は紛れもなく地獄一の権力を持った悪魔であり、隙あらば媚びを売りたい存在であるはずだ。
「(意外だな)」
「(何がですの?)」
「(挨拶に行きたがると思っていたが)」
「(何故です?)」
玉座から大きく遠ざかった事を確認して、クロムは会話を再開した。通常の声量でもここまで距離があれば聞こえないはずだが、小声なのは用心のためだ。ルナはその質問こそが意外だというように大きな瞳を瞬かせてクロムを見上げる。そして少し考えるように視線をさ迷わせると、やがてぽつりと口にした。
「(彼はマスターの器とはとても思えませんもの。おそらく何かの間違いでは?)」
その答えを聞いて、驚いたクロムの足が止まる。若い悪魔たちの間で何か自分の知らない噂が回っているのだろうか。いや、そんな話は聞いていない。何も知らないはずだ。立ち止まったまま思考にふけるクロムを見て、ルナが付け加えた。
「(何度か顔を合わせてそう思っただけですわ。お気になさらず)」
「(奴について何を知っている)」
「(マスターなのでしょう? それだけです)」
「(今相応しくないと言ったな)」
「(貴方もそう思っているから、彼をマスターと呼ばないのでは?)」
クロムは一度黙った。彼女はまだ若い悪魔だと思っていたが随分と勘が鋭いようだ。敵ではないが油断は禁物だと気を引き締め、少し考えてから再び口を開く。
「(……俺がどう考えていようが、奴は玉座に座っているだろう。それが全てだ)」
「(目に見えるものだけが全てでは無いと私は思いますわ。それに、中身に相応しくない器というものは存在しますもの)」
「(お前の目から見てどの辺が相応しくないと?)」
「(私がマスターに意見などとんでもありませんわ。ですが……玉座に座っていることが仕事だと思っている点については物申したいですわね)」
「(……ふっ……っくくっ……なるほどな……っ)」
クロムは込み上げる笑いに肩を震わせた。任命は厳選に厳選を重ね慎重にしたつもりだったが、予想以上に上手くいったようだ。一方でルナはそんなクロムを見て、常に無表情を崩さない彼でも笑うことがあるのかと驚いていた。
「ふっ……悪い、行くぞ。次の仕事だ」
「あっ、待ってください! 切り替えが速すぎますわよ」
ひとしきり笑った後で急に歩き出したクロムの後を、ルナが慌ててついていく。その後も順調に説明は進んでいき、二つの翼は下層に向けて並んで飛んだ。




