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第三十八話 医療棟の混乱(前編)

 天国は広く、その大半が自然である。


 空はいつも快晴、木々は果実を豊富に実らせ草は青々と茂り、何万もの種類の花が色とりどりの絨毯のように咲き乱れている。そんな中でも多くの死者たちや天使が快適に暮らすため、その自然を邪魔しない程度にいくつかの街が点在していた。


 中でも最も大きな街の中心にあるのが、多くの天使が住み込みで働いている白亜の城。そしてその隣にそびえる天国で最も高い塔が、癒しの能力を持った中でも特に優れた治癒力を持つ天使のみが足を踏み入れることができる憧れの職場、医療棟である。



「新しいリーダーだって? 冗談じゃねーよ!」


 バン、と机を叩き、精悍(せいかん)な男の天使が叫んだ。彼のデスク周りに集まっていた部下たちが口々に言う。


「僕も文句を言いに行ったんですけど、変更はないの一点張りで」

上層部(うえ)はいつも無茶ばかり言うんですよ」

「この前も悪魔を治せだなんて、いきなり運んできて。出来るわけないのに」

「天使に悪魔が治せるわけねーだろ。常識で考えろっつーんだ」


 男は乱暴に足を組んだ。ここは医療棟の精鋭が集まる最上階。見晴らしがよく、研究設備も棟の中で最もいいものが揃っている。中でも最上級に居心地が良いこの大きな机は、優秀な人材が集まるこのフロアの中で、最も優れた癒しの力の使い手である彼に与えられた誇りだ。


「この場所は絶対渡さねーからな」


 男は腕を組んで宙を(にら)んだ。ここにいる多くの者と違い、彼は生まれながらの天使ではない。生前多くの人を助けた医療の功績をかって、ミカエル自らがスカウトしてきた元人間だ。かつて天才医師と呼ばれた才能と努力を惜しまない性格、優れた適応力を武器に、彼は数百年かけてここまでのぼり詰めてきた。そう簡単に明け渡すわけにはいかない。


「ここのボスはファルコさんしかいないですよ」

「追い出してやりましょう!」


 男の部下たちが一斉にこぶしを握る。ファルコと呼ばれたこの男が天使になりたてでこの棟に来た時から、彼らはともに学んできた。数百年の間に紆余曲折はあったが、天使になったばかりにもかかわらず誰よりも癒しの力を使いこなし、昼夜問わず勉学に励んで新たな治療法を模索するこの男は、今や医療棟を支える大黒柱(ボス)としてなくてはならない存在である。


「で、そいつはどんな野郎なんだ?」


 まだ見ぬリーダーに闘志をめらめらと燃やしながら、ファルコは癒しの天使の情報が書かれた書類に目を通した。そこに書かれている名前を見てフンと鼻を鳴らす。


「シルヴィア? 女かよ」


 名前を見ただけで、彼は書類を放り投げた。


 治癒は天使の能力の中でも特に体力の消耗が激しいため、医療の精鋭陣の中に女性は一人もいない。薬草の仕分けや薬品の生成を行う部署ならまだしも、棟全体を指揮するのは男の仕事だ。


 特に連日泊まり込みで急患の治療や深夜の巡回を行いながら空いた時間で最先端の医療法の研究を行う最上階の『研究室』は、明確な規則はないものの女人禁制が暗黙の了解だった。


「でも、五百年前はその天使がボスだったんですよね」

「どうせのんびり薬草育ててるだけだったんだろ。平和ボケしてっから皆死んじまったんだよ」

「行方不明っていうのも、怖くて逃げてただけかもですしね」

「臆病者の出戻り女なんかに偉そうな顔されてたまるかってんだ」



「あら。随分な事を言うじゃないの」


 突然の聞き慣れない声の主を探して、男たちは研究室の入り口付近に首を回した。銀髪を緩く巻いた一人の美女が、何かの鉢植えを持ってにっこり微笑んでいる。男しかいない医療棟にもう何日も泊まり込んでいる彼らは、見るだけで心が癒されるような天使の微笑みに全員釘付けになった。

 

「あ……」

「どうも。シルヴィアよ」

「あ、どうも……じゃねー!」


 ファルコはぶんぶんと首を振った。危うく一目で(ほだ)されるところだ。女とは恐ろしいものだと思いながら、立ちあがって背筋を伸ばし、大股で入口まで歩いていく。


「あんたが癒しの天使か? 女の癖に偉そうな口を……ん?」

 

 ファルコはシルヴィアの前まで来て、その違和感に気がついた。自分よりも高い背丈、細身だが意外にしっかりした骨格。先程少し遠くから見た時は完全に女性だと思っていたが、近づくほどに違和感が(つの)る。


「……あんた本当に女か?」

「女だったら何なのよ?」


 特に気分を害する事なく首を傾げたシルヴィアから、ふわりと甘い匂いがした。ファルコは半ば無意識に一歩近づいたが、そうすると今度は身長差で目線がシルヴィアの平らな胸の辺りにきてしまう。この胸板はやはり男のものではと、ファルコは一歩下がってシルヴィアの顔を再び見た。


「やっぱ男なんじゃねーか」

「男だったら何なのよ?」


 先程と変わらないシルヴィアの表情からは、やはり怒りも困惑も読み取れない。おそらく純粋な疑問だ。ファルコは片手で無精髭をザリザリと掻きながらシルヴィアを睨んだ。


最上階(ここ)は女人禁制だ」

「そうなの? なぜ?」

「体力のない女に治療は任せられねーんだよ」

「体力があればいいの?」

「そーゆ―事じゃねーんだよ」

「どーゆー事よ」

「だから、あんたがもし女だったら……」


(女だったら?)


 そこまで言って、突然ファルコは言葉に詰まった。目の前の天使が女を名乗れば即座に追い出そうと思っていたが、男だと言ったらどうするのか。男でも女でも結局は追い出すなら性別なんか、確かにどうでもいい気がする。


「ほら。やっぱりどっちでもいいんじゃないの」


 混乱して固まったファルコをすり抜けて、シルヴィアは研究室の中に入っていった。


「……あっ、こら! 勝手に……」

「今は何の研究をしてるの?」


 シルヴィアは窓際に持って来た鉢植えを置いて、近くの机に置いてある試験官に入った液体をじっと見た。たまたまそばにいた天使が、反射的に背筋を伸ばして口を開く。


「ばん……」

「そんな事教えてやる義理はねぇ!」


 ファルコは慌てて会話を遮り、大股でシルヴィアの元へ向かい試験官を背に隠すように立った。うっかり教えそうになってしまった部下も、その剣幕に慌てて口を閉じる。


 中に入っているのは『千年花(ミル・フラワー)の密』。天国で千年に一度しか咲かないと言われる幻の花だ。あらゆる薬草の効力を併せ持つといわれるこの花が先日偶然発見され、研究室は浮足立った。あとはこれを原料にして万能薬を作ることができれば、未だかつてない快挙となるだろう。


 しかし、それを今シルヴィアに知られてしまえば、彼女の功績となってしまうかもしれない。教えるわけにはいかないのだと、ファルコは視線で部下たちを黙らせた。


「そう。わかったわ」


 そんなファルコの態度にも特に気分を害する様子はなく、シルヴィアはいたってマイペースに棚に向かって、今度はファイルの見出しを確認しはじめた。


「そんなに怒ると翼がパサつくわよ」

「パサ……うるせーな! 男はそーゆーの気にしねーんだよ!」

「どうして? 綺麗な方が気持ちいいじゃないの」


 そんな事を言うシルヴィアの翼は、確かに少しの乱れもなく(つや)めいていた。


 天使の翼は聖なるオーラが実体化したものだ。その天使の能力や力の強さ、性格や精神状態までもがそのまま翼に現れ、翼を見れば本人の事がよくわかるとまで言われている。彼女の背に広がる純白を見て、非の打ち所の無い綺麗な翼だなと反射的に思ってしまったファルコは、もうシルヴィアの雰囲気に完全に吞まれていた。


「別にあんたたちの研究の邪魔をしに来たわけじゃないのよ、今の治療方法とか現状を知りたいだけだから。ちょっと治療記録を見せてくれる?」

「……嫌だと言ったら?」

「そうねぇ」


 シルヴィアは、人差し指を口元に当てて少し考えたあと、ファルコに初めて挑発的な視線を向けた。


「勝手に見るか、勝手に回って全部治しちゃうかも。あんたたちの仕事なくなっちゃっても知らないわよ」


「はっ! やってみろってんだ」


 出来もしない事を偉そうにと、ファルコは鼻で笑った。現在医療棟に泊まり込んでいる重症患者は五名。重度の火傷や毒による昏睡など、いずれも悪魔との小競り合いが原因だ。単なる怪我ならすぐに治せるが、悪魔の力による傷は簡単には治せない。どうしたものかと思っていたところ、ついに悪魔本体までもが運ばれてきたのだ。ここは天使のための医療棟だと何度も言ったが、上層部は何とか治せの一点張りだった。


(あぁ、その手があったか)


 難癖をつける材料がこんなところにあったと、ファルコはシルヴィアに話を持ち掛けた。


「あんたに見てもらいたい患者がいる。そいつを治せたら、治療記録どころかこの研究室ごと明け渡してやるよ。だが失敗したら、二度とここには来るな」

「いいのかしら、そんなこと言っちゃって。後悔するわよ」


 シルヴィアは自信たっぷりに笑った。引っ掛かったとファルコも笑う。


「ついてこい」


 さて、さっさと悪魔のところに案内して、シルヴィアの驚き困惑する顔を見て笑ってやろうか。そう思ったファルコが研究室のドアを開けようとしたその時。


「助けてください!!! だれか! お願いします!!」


 外側からドンドンとドアを叩く音とともに、若い青年の大きな叫び声が聞こえた。真っ先に反応したファルコが、内側からガンとドアを蹴って叫び返す。


「ぁあ? 誰だ、うるせぇぞ!」

「お願いします……たすけて……」


 ドア越しに聞こえる青年の声は切羽詰まっていた。どこかで聞いたことのある声に記憶を辿っていたシルヴィアが、やがて思い出した彼の名を呼びドアを開けた。


「オリバー?」

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