第三十六話 時代が変わっても変わらないもの
「あぁもう……ハルトさんたちを迎えに行かないといけないのに」
通称白の部屋と呼ばれるミカエルの仕事部屋で、リリィが大きなファイルを何冊も抱えたまま本棚の前をうろうろしている。ファイルの見出しが古代語で書かれているせいで、この辺の書類は何年たっても戻す位置すらわからない。
「ねーちゃん遅すぎ。これここじゃね?」
リリィの手からファイルを一つ奪い取り、ルークがあっさり棚に戻した。最近まで同じように迷っていた弟の急激な成長に、リリィは驚く。
「ルーク。もしかして読めるようになったの?」
「いつまでもうろうろしてんのめんどいじゃん」
この場合のめんどいは非効率と同義だ。ルークは一冊の本を取り出し、リリィの前でひらひらと振った。
「師匠にこれもらったんだよ。すっげーわかりやすい古代語のマニュアル」
「本当!?」
リリィはファイルを手近な机に置いて、マニュアルをぱらぱらと捲った。基本的な型や頻出単語が書かれたそれに、黒谷の字で簡潔に補足がなされている。
「凄い……今まで読んだどの本よりもわかりやすいわ」
「師匠も貰い物だって言ってたけど、そこにある分はもう覚えたからいいって。俺も覚えたからねーちゃんにあげる」
「ありがとう!」
リリィはマニュアルを大切そうに胸に抱えた。奥の机で大量の書類に囲まれていたミカエルがそれを見て微笑む。
「それ懐かしいね。よくここで勉強してたんだよ」
「そうなんすか。師匠が?」
「そう。シルバーとね」
「シルバーさん? どなたですか?」
「癒しの天使じゃね? 古代語の専門家」
「そうそう」
「どんな方だったんですか?」
シルバー。その聞き慣れない名前に、リリィとルークは興味津々でミカエルを見た。ミカエルは少し考える。二人は彼女と会ったことがあるはずだが、果たしてどこまで話してよいのか。
「そうだね……クロムと仲が良かったよ。よく一緒に仕事してた」
「クロムさんと。シルヴィアさんみたいな感じでしょうか?」
「正直師匠がシル姉以外と仲良くしてるイメージが湧かないんすけど」
二人は同時に首を傾げた。このヒントは与え過ぎだったかもしれないと、ミカエルは内心でシルヴィアに謝り、そしてばれたらクロムの交友関係のせいにしようと密かに思う。いくら何でも狭すぎだ。
「クロムも口数が少ないわけではないんだけどね」
「まぁ、言われてみたら結構しゃべる人ではあるかも?」
「雰囲気のある方ですから、相手側が委縮してしまうことはあるかもしれませんね」
「それはあるかもしれないね」
リリィの見解に、ミカエルは頷いた。思えば五百年前は確かに、彼と対等な関係の者が多かった。二人の両親であるルキウスやローズ、シルバーに、そしてサタン。地獄のリーダーもクロムのほかに二人いたが、一人は死んで残る一人は敵となった。そう考えると、クロムにかかる負担の大きさがよくわかる。負担が大きいのはミカエル自身もそうなのだが。
「癒しの天使ってことは、医療棟仕切ってたんすか?」
「そうだよ。薬の開発や薬草の採取、能力を使った治療や解毒。シルバーがいなくなってから、天国の医療水準は大きく低下した」
現在天国に住んでいるのは死者の魂と天使、精霊の三種類だ。死者の魂はすでに死んでいるので傷つくことはない。精霊は草木や湖など自然のエネルギーでできているので、自然が害されない限り精霊自身が傷つくことはない。治療の必要性があるのは天使だけだ。
「今の医療でも天使は十分治療できるから問題ないんだけどね。昔はシルバーを中心に、地獄と連携して悪魔の治療や毒草の無毒化なども進んでやっていたんだ」
「あー、じゃあライア治せんじゃん」
「簡単に治せるだろうね」
ミカエルは頷く。天使しか治療したことの無い現在の医療棟に、悪魔を治療するだけの技術はない。シルバーなら悪魔の毒や暗示の解き方にも詳しかったが、もう彼女の治療風景が見られることは二度とないのだ。
「探すことはできないんですか? 行方不明なんですよね」
「どうだろうね。難しいんじゃないかな」
心配そうに眉を下げるリリィを見て、行方不明扱いは中途半端だったかもしれないとミカエルは思った。死亡したことにすればよかっただろうか。しかし、嘘でもそんな風に扱いたくはなかった。
(何もしなくてもいいから、天国に残ってくれればよかったのに)
五百年前魔王の命を助けるために全ての力を使い切り、翼も能力も失って天国を去ったあの銀髪は、それ以来一度もここに来ることはない。しかし彼女が本当に必要とされていたのは天使としての力だけではないのだ。天国の運営、医療、古代言語に関する膨大な知識量、抜群の行動力とミカエルを凌ぐと言われた問題解決力と判断力。これらは翼がなくても失われるものではないのだと、彼女は気がついているだろうか。
「後任は探さないんすか?」
「彼女の代わりは誰にもできないよ」
「即答っすね……つか女性だったんすか?」
「それは意外ですね」
リリィとルークが瞬く。シルバーという名前から、てっきり男性だと思っていたのだ。その反応を、逆にミカエルは意外に思う。
「どんなイメージだったんだい?」
聞いたのはちょっとした好奇心だった。すぐにルークが答える。
「医療棟仕切りながらマスターの補佐やって、薬草学の研究の傍らで古代語解き明かしたとかやべぇ天使じゃん。絶対師匠にもっとがっちがちに筋肉つけた感じの屈強な男だと思ってた」
「私も同じような予想を」
「ははっ、なるほどね」
ミカエルは笑った。人間になった今では違うのかもしれないが、昔は確かにパワフルな天使だった。しかし少し考えて、ルークは屈強な男は違うなと首を振る。理由を聞いてみると、少し前の話に戻った。
「やっぱ師匠と筋肉男が熱い友情を結んでいるところが想像できねーっす」
「確かに、かえってクロムさんの苦手なタイプかもしれないですね」
「つか女性でもさー、なんかピンと来ねーんだよな」
シルバーのイメージが湧かなすぎて、仲のいいクロムが好きそうなタイプというところから考えたルークが首を捻る。
「どんなタイプだったら合いそうかい?」
「うーん……やっぱあのひと世話焼きだからちょっと抜けてて、でも考えはしっかりしてて」
「表裏のない方が好きそうですよね」
「そうそう。あとはっきりしてて」
「あっさりした関係が好きそうですね」
「あーわかる。わざわざデートとか指定しなくてもなんとなーくその辺にいるみたいな」
「お店の二階にいると、ほっとしますものね」
「つかもうそれってさ……」
ルークがそこまで言った時、すっと白い扉が開いた。慣れた様子で入ってきた白い翼に、三人の動きがぴたりと止まる。ここにいる三人以外で、この白い扉を開けることができる唯一の天使。彼女を一目見て、ルークがぽかんと口を開けた。
「……本人じゃん…………」
ちょうど今脳裏に浮かんだ人物に、白い翼が生えていた。隣でリリィもそっくり同じ表情で固まっている。うまく想像できないのも無理はない。最初から、黒谷の隣にはシルヴィアがいたのだ。
「シルバー……?」
ミカエルは立ちあがることも忘れてただ彼女を見ていた。会いたい気持ちが募りすぎて、幻影になったのだろうか。しかしそれはないだろう。なぜなら、彼女はミカエルの記憶とは少し違っている。
肩までのストレートだった銀髪は少し伸びて緩く巻かれ、下界の化粧品で磨かれた容姿は以前よりも遥かに女性らしい。しかしその新緑の瞳は昔と変わらず穏やかで、何より背に広がる純白の翼は――――
「どうして……? 君は」
「サタンさまが指輪の中に羽根を隠し持ってたのよ。レディーの羽根を勝手に抜くなんて失礼よね」
文句を言っているような言葉に反して、嬉しそうにシルヴィアは言った。あぁ、そんなところも懐かしいと、ミカエルはようやく立ちあがり、
彼女を思い切り抱きしめた。
「ちょっ、ミカエルさま!?」
「おかえり」
五百年分の思いを込めて、ミカエルはそれだけを口にした。嬉しさのあまり勢いよく広がった翼に温かい手がそっと置かれる。その優しくも遠慮のない触れ方が、長く離れていても変わらない関係性を示しているようで嬉しかった。触れられるという事は、これは夢ではないのだ。心から安心するように目を閉じたミカエルに、癒しの天使が囁いた。
「ただいま」




