第三十五話 悪役が悪いとは限らない
「魔王……様……」
魔王。マスターと呼ぶよりもしっくりくるその呼び名を、ハルトは納得して繰り返した。先程よりも少し緊張感が薄れたのは、心配ないと伝えるように肩を優しく叩いてくれる黒谷のおかげだろう。二人はどんな関係なのだろうか。その疑問を聞くより先に、黒谷の少し呆れを含んだ声が暗闇に響いた。
「サタン様。ハルトが怖がっているでしょう」
「あ? まだ自己紹介しただけだろぉが」
「何もしてなくてもオーラが怖いんですから自重してください」
「背の高さで威圧してるお前に言われたくねぇよ。相変わらずでけぇなおい」
思ったよりも砕けた会話がいきなり始まって、張りつめた緊張の糸がばっさり切れた。
(あれ? 魔王ってこんな感じ?)
ハルトは二人を交互に見た。目が慣れてきた今は、闇の中にうかぶように二人の姿だけがはっきりと見える。
「やっと会えたな。地獄はどうだ?」
「サタン様が最悪な状態で丸投げしたので何とも」
「仕方ねぇだろ。なんだ、まだ拗ねてんのか?」
「拗ねてはいませんが、迷惑しています」
「…………わかったって……悪かったよ」
(魔王が黒谷さんに怒られてる……)
意外な光景に、ハルトの恐怖がすっかりとんだ。黒谷が敬語だという事は、おそらくサタンの方が格上なのだろう。しかし彼は黒谷の不躾な物言いを不快に思う素振りもないどころか少し押され気味で、頬を引き攣らせながら謝っていた。
(なんか、イメージと違うな)
サタンが親しみやすいのか、サタンとほぼ対等に会話できる黒谷が凄いのか、ハルトにはよくわからない。しかし少なくとも魔王は初対面の相手を殺したり、恐怖に怯える顔を見て喜んだりはしないのだろう。浅黄に教えてやりたい。
「ハルトというのか。うちのクロムが世話になっているようだな」
そんなサタンに気さくに話しかけられて、ハルトは取り繕う間もなく普通に受け答えを始めた。
「あ、いえ……日頃からお世話になっているのは僕の方なので」
「世話をしているつもりはないが」
「え? あれ無意識だったんですか!?」
最初にリーダー会議に連れて行ってくれたのは部下がやらかした責任を取る意味もあったかもしれないが、会議前に宿題まで教えてくれるのは世話焼き体質の賜物と言わずしてなんなのか。素で驚いたハルトを見て、サタンがククッと笑う。
「お前良いな。クロムと対等に話せる奴は珍しい。こいつは俺が特別に信頼して地獄を託した大事な部下だ。仲良くしてやってくれよ」
「いや対等なんて恐れ多くて」
「どの口が言うか」
黒谷は呆れた。ハルトはなかなか観察眼が鋭い。黒谷が畏怖されるのを好まず、歯に衣着せぬ物言いも悪意がなければ受け入れるタイプだと知って、日に日に遠慮が無くなっているのは事実だ。そしてそんなハルトの変化を、黒谷は心地よく思っている。
そんな二人を見て、サタンは心から可笑しそうに笑った。
「ははっ、クロムに人間の友人ができるとはな。指輪に魂突っ込んだ甲斐があった」
「魂なんですか?」
「そう、これは俺の魂の一部だ。本体は封印されてるから、長くここにはいられない」
「封印ってどこに」
「煉獄だ。天秤が直り次第、迎えに行く」
黒谷の言葉には強い意志が感じられた。彼が本当に取り戻したいのは、天秤のシステムというよりは魔王の方なのだろうと、ハルトは何となく思った。
「さて。消える前にさっさと状況を把握しないとな」
サタンは打って変わって真面目な表情で黒谷を見た。
「何年ぶりだ?」
「五百年です」
「そうか、よく頑張った。今どんな感じだ?」
「天秤は完成まであと少し、金印は現状維持、地獄は……」
金の瞳が褒めるように緩む。そのまま流れるように、ハルトを挟んで報告会が始まった。
「……成程。カウンター制度か」
報告をあらかた聞き終わったサタンは、おもむろにハルトを指さした。
「こいつが地獄行きはねぇだろ」
「だから天秤の復活を急いでいます。サタン様が改正印を盗まれたせいで制度の改正が困難なので」
「それは悪かったっつってんだろ。あそこで鯉が出てくるとは思わねぇだろうが」
「鯉が仕方なかったように、こっちも縛りがある中でのシステム変更はこれが限界だったんです。文句言わないでください」
(鯉?)
会話の中に謎の単語が混ざっていることに、ハルトは首を傾げた。実際はサタンが地獄でマグマの滝を登る鯉の幻影に気を取られたことが原因で金印を半分盗まれたのだが、それをハルトに説明する人はいない。
(それにしても、何だろう……仲良しだなぁ)
黒谷と話をするサタンはどこか楽しそうで、言葉の端々に黒谷への確かな信頼感を感じる。そしていつも地獄の管理は自分の担当だといって多くを語りたがらない黒谷が、逆にサタンには仕事の大変さを訴え文句を言っている。
もしかしたらサタンと黒谷は、五百年前はこうして二人で地獄を管理していたのかもしれないと、リアルに想像できる光景だった。
「他にも勢いに押されてマイナスで死んじまったやつとかいるんじゃねーの?」
「おそらく。何しろ減点基準を決めたのが五百年前で、そこから改正できていませんから」
「だよな。でもまぁ、天秤なしで善悪を判断するとなるとそうなるのもわからなくはねぇな。丸投げした分際で文句も言えねぇか」
サタンは腰に手を当てて息を吐いた。
「わかった。そっちは俺が復活してからどうにかするわ。金印もな」
「頼みますよ。こっちは天秤と荒れ果てた地獄の通常業務で手一杯なんですから」
「だろうな。さて、『勇者候補』の方だが」
黒谷と話をしていたサタンが、急にハルトに視線を向けた。しかしなぜ自分が勇者と呼ばれているのか、ハルトにはよくわからない。
「勇者候補? いえ、人違いでは」
「指輪を壊したのは?」
「……僕です」
「なら人違いじゃねぇな」
サタンは金の瞳を鋭く細めてハルトを見た。値踏みするような視線に、ハルトの足が震える。決して理不尽に恐ろしい存在ではないのだとわかっても、正面から見られるとやはり怖い。
「お前はまだ勇者じゃねぇが、勇者になれる可能性を秘めてる」
「……勇者って……あの、虐殺犯の」
「やっぱイメージ悪ぃんだよな」
勇者になれると言われたハルトの複雑な表情を見て、サタンは苦笑した。勇者とは本来正義の象徴。なって悪いものではないはずだが、先代がやらかしたせいで大量虐殺犯のイメージが拭えない。
「ま、本来勇者はそんなに悪いもんじゃねぇよ。先代がたまたま馬鹿だっただけだ」
「僕、大丈夫でしょうか……」
「お前はしっかり考えて選べる奴だ。心配ない」
黒谷がハルトの頭にぽんと手を置く。信頼されているのだろうか。だとしたらこの上なく嬉しい事だと、ハルトは笑みをこぼした。先程シルヴィアの前で願ったことを思い出す。もし何もない人間ではなく、勇者という立場で役に立つ事ができるのなら。
「勇者になって皆の役に立てるのなら、僕は勇者になりたいです」
「その考え方なら問題ねぇだろ」
魔王の前で勇者になりたいと宣言したハルトに、魔王はあっさり頷いた。
「大事なのは勇者になる事じゃねぇ、勇者になって何を成すかだ。勇者とは、聖なる力で聖剣を創り出すことの出来る選ばれた者。守るだけならそれでもできるが、聖剣の威力は桁違いだからできることは格段に増える。」
魔王はハルトの腰の辺りを指した。そういえば水鉄砲を持っていたのだと、その時になってハルトは気がつく。こういうところから危機感が足りないのだと反省しながら、ハルトは水鉄砲を出した。
「これですか?」
「おー、勇者になる前にそれも練習しとけ。強ぇぞ。俺とクロムには効かねぇがな」
「効かなくて本当に良かったです」
誤射で味方を祓ってしまう危険性はないに越した事はないと頷くハルトを見て、五百年前の勇者がこの少年のようだったらと魔王は遠い昔に思いを馳せる。そしてこの少年が心苦しい思いをしないようにと、実感をこめたアドバイスを贈ることにした。
「水鉄砲を武器にしてる間は心配ねぇが……お前、勇者になるなら聖剣にはマジで気をつけろよ。あれ一振りで地獄消えるからな」
ハルトの目が点になった。
「地獄が消える……え? 冗談ですよね」
「いや至って真面目な話だ。何せサタン様が死にかけたんだからな」
「流石にあれは無理だわ。脳筋勇者があちこち振り回しやがって、こっちは被害防ぐのに必死だっつーのに」
後ろで黒谷も頷いている。どうやら強いのは勇者ではなく、聖剣の方らしい。ハルトは頬を引き攣らせた。ハルトは天国だけでなく、地獄の方も守りたいと思っているのだ。もちろん個人的に行きたくはないが、本来地獄に行くべき魂が全部天国へ行くことになってしまうのはまずいと思っている。
何より黒谷や瑠奈、そして少し話しただけでも間違いなく人格者なこの魔王がこれだけ必死に管理しようとしている地獄は、おそらく天国と同じくらい必要なものなのだと確信していた。
しかし一振りで地獄が消滅する剣を持って、地獄を守るとはこれいかに。
「……肝に銘じます」
難しくなってきたので後で考えようと、ひとまずハルトは頷いた。魔王の姿が少し薄くなる。時間切れが近づいてきたのだ。
「よく覚えておけよ、剣を振り回すだけが勇者じゃねぇ。俺の指輪を壊したように、お前にしかできねぇ力の使い方があるはずだ」
サタンがハルトにそういって、ふと上を見た。
「手始めに仲間を救ってやれ。俺からのささやかな贈り物だ」
サタンの視線の先を追ってみると、闇の中に一枚の白い羽根が現れた。それを一目見て、黒谷が盛大に眉を寄せる。
「まさかそれ……」
「あいつの翼が消える寸前に一枚取って保管しておいた。力が戻るかは賭けだったが、大丈夫そうだな」
「全く聞いていないですが」
「使える保証がなかったから隠しといた。びっくりしたか?」
「ええ……思わず殺意を抱くほどに」
「……思ったより怒ってんな……」
「あの。この羽根ってもしかして」
黒谷がサタンに殺気を飛ばしている横で、ハルトはふわりと落ちてきた大きな羽根を受け止めた。羽根はハルトに触れると、すぐにガラス細工のように固くなる。リリィに羽根をもらったあの時にそっくりだが、その羽根はリリィのものとは大きく違った。
「しっかり持ってろ。それは俺には触れない」
黒谷に言われて、ハルトは頷いた。たった一枚の羽根にも関わらずそこから感じられる生命力は凄まじく、大きさも艶やかさもそして力強さも、リリィの羽根とは鷹とスズメくらいの違いを感じる。吸い寄せられるようにそれを見つめるハルトを見て、魔王はにやりと笑った。
「シルバーの翼は天国一綺麗だ。見たら驚くぞ。じゃあ、またな」
(シルバー?)
その聞き慣れない名前にハルトが首を傾げると同時に、魔王の身体が闇に溶けるように消えていく。入れ替わりに少し向こうに、シルヴィアの姿が浮かびあがった。
「シルヴィアさん!」
前も横もわからない闇の中で、彼女だけを見ながらハルトは駆け寄った。新緑の瞳は固く閉じられ、艶やかな銀髪が散らばっている。銀髪。彼女の事だと、ハルトは確信した。
ハルトは彼女の横に膝をつき、大きな白い羽根を掲げた。天国にも地獄にも行ける強い力。地獄のマスターである黒谷と対等な関係性。医師という職業は、行方不明の三人目と重なる。よく考えなくても、ヒントはこんなに揃っているのだ。
「シルヴィアさん。天国一綺麗な翼、見せてください」
ハルトはシルヴィアに語りかけ、彼女の胸の上にそっと羽根を置いた。羽根から出た白い光が瞬く間にシルヴィアを包み、そのまま部屋中に広がって闇を呑み込んでいく。
目が眩むほどの強い光はやがておさまり、ハルトはそろそろと目を開けた。
「ラッキーだったわね。なかなか見れないわよ、こんな翼は」
先程とは違い、すっかり元の調子を取り戻した彼女の声がフロアの中央から聞こえる。魔王が絶賛する翼とはどんなに綺麗なのだろうと期待していたハルトの口から、感嘆の息が零れた。
「本当に綺麗だ」
その翼は想像を超えていた。よく手入れされた彼女の銀髪のような羽根の一本一本まで艶やかな純白が、彼女の魅力を際立たせるように優しく、そしてどこかアンバランスな彼女の危うさを補完するように強くしなやかに広がっている。
それは確かに、ハルトが今まで見たどの天使の翼よりも、美しかった。
「あなたは……『癒しの天使』」
答えを口にしたハルトの前で、彼女は喜びが溢れて花が咲いたようにふわりと微笑んだ。そして離れたところからそれを見ていた黒谷も、彼女の喜びの一端が心の奥まで届いたように、人知れず瞳を緩めて静かに口角を上げたのだった。




