第百六話 不思議生物過ぎる
本陣への急襲により一時勢いを失った魔王軍だったが、魔王蛸髭の一喝によりすぐに混乱は収拾された。貴重な「髭」が何体も倒され、蛸髭本人も手傷を負ったが戦闘継続に支障はない。
北門は引き続き優勢であり、東西の門を狙った別働隊ももうしばらくで攻撃を開始するはずだ。そうなれば限界寸前の戦況で踏みとどまっている人間の軍勢は一気に崩れるだろう。少々の想定外はあったが、ほぼ事前の思惑通りに戦いは決する。
――はずだった。
火を噴く何かが飛んできたと思えば、凄まじい爆音とともに数百のゴブリンたちが吹き飛ばされ、原型を留めない姿に変わった。
何体ものゴブリンを一度に飲み込める太さの光条が走り、その通り道にいたものは一瞬で黒焦げの炭になった。
巨大な足が一歩進むたびに、地響きが起き、また何十体ものゴブリンたちが押しつぶされ、大地の染みにされた。
(こんなものが現れることなど、どう予想しろというのだ!!)
蛸髭はなりふり構わず逃走をしていた。もはや軍の統制も何もあったものではない。ゴブリンたちは散り散りに逃げ回り、蛸髭を見かけると助けを求めてすがってくる。それらに対し、蛸髭はとにかく逃げろと怒鳴りつけることしかできなかった。
蛸髭はちらりと振り返り、この惨状の原因となったものを見上げる。かなり走ったはずなのに、まるで離れた気がしない。あまりにも馬鹿げた大きさのため距離感がまったくつかめないのだ。
そこには、過去この世界のどんな人間が作った巨大な建物よりも、さらに巨大な人型の何かがいた。
人質の人間を取り逃した後、西の雷鳴が轟くとともにそれは現れた。はるか天空からゴブリンの軍勢の背後に降り立ったのだ。後背を突かれる形ではあったが、正面から戦ったところでどうにもならないだろう。それほどの力の差があった。
突如現れた石と鉄でできた巨人は、爆発する弾を無数に撃ち出し、地上に太陽が落ちてきたのかと思うほどの熱線を放った。一瞬で何百、何千ものゴブリンたちが死に、軍勢は崩壊した。
人間たちの隠し玉だったのかと思えば、そんなこともないようだ。城壁の上では放心した守備兵たちが矢を放つのも忘れて巨人に向かって祈りを捧げている。身なりのいい連中が「勇者様の奇跡だ! 『鉄の棺の勇者』様の祈りが神に聞き届けられたぞ!」などと叫んでいるが、そんな馬鹿げた話があるか!
王国認定勇者とかいう連中なら何人も狩ってきたが、どれも「普通の人間よりはずっと強い」程度のものだった。こんなふざけた力を持っているのならとっくに使っているはずだ。あの巨人の出現は人間どもにとっても予想外の事態に違いない。
必死に足を動かしながら、逃走経路について考える。あの巨人は街の人間どもが直接使役しているものではないにせよ、我々の敵であり、人間どもの味方であると見てよさそうだ。その証拠に、巨人の攻撃はゴブリンのみに向かっており、人間どもに向かうことがない。
人間を巻き込むことを嫌っているのなら、いっそ街の真ん中を突っ切って反対側に抜けるか? いや、さすがにそれは無謀が過ぎる。人間兵の十人や二十人は相手にもならないが、それ以上の数に囲まれては厳しい。
また、人間どもの中にはまれに強力な力を持つものがいる。エルフの森で「髭」の一本を屠ったものなどだ。ああいう手合にぶつかってしまっては苦戦は免れない。
城壁にぎりぎりまで近づき、それに沿って走るのが良策か。城壁の上には守備兵が何人もいる。それを巻き込んでの攻撃はそうそうしてこないだろう。
『最優先目標、魔王発見!』
『見敵必殺! 見敵必殺!』
『我が恨み晴らさでおくべきかっ! 超必殺……』
『やや、最大火力はまずいって』
『あ、街ごと吹っ飛んじゃうね』
『5%ぐらいで十分なんじゃない?』
『うーん、じゃあ、<瑪瑙色に輝くサンライトイエロービーム・弱>発射ぁ!』
巨人から妙な言葉が発せられた直後、蛸髭の視界は真っ白に染まった。吹き飛ばされ、地面を何回も転がる。何か攻撃を受けたようだが幸いにして意識はある。再び立ち上がって逃げ出そうとするが、足が動かない。いや、足の感覚がない。
地面に倒れたまま下半身を見ると、両腿から下が無くなっていた。
――もうすぐ、死ぬ。
蛸髭の生涯の中で、これほど自らの死を目の前まで迫ったものとして感じたことはなかった。まだ蛸髭がいまのような力を身につける前、他のゴブリン氏族との争いに負けて瘴気領域を何日も彷徨ったときもこれほど追い込まれた感情はおぼえなかった。
『あ、まだ生きてるみたいだよ』
『うーん、出力絞りすぎたかなあ』
『ま、動けないみたいだから、次はよく狙って撃てば大丈夫でしょ』
『よし、それじゃ少し足を止めるね』
――もうすぐ、殺される。
巨人から聞こえる会話は知らない言語で交わされていたが、蛸髭は間違いなく自分へのとどめの算段だと確信した。何の緊張感もなく、まるで虫けらを殺すかのような調子だ。ふざけやがって。こんな理不尽な力があってたまるか。かつて、人間の軍勢に惨敗を喫した際にも感じなかったほどの怒りが沸き上がってくる。
蛸髭は手に提げていた革袋を漁る。高価な宝石や装飾品、魔具などを詰め込んだものだ。とっさにこれを持ち出せていたのは我ながら大したものだ。財貨があれば軍勢の立て直しはやりやすくなる。
『ターゲット、ロックオン!』
『これなら確実にいけそうだね』
『ちょっと待って。技名がまだ思いつかなくて』
『まじかー。色シリーズから離れてみたらどう?』
革袋を漁る手に一冊の本が触れる。『或るゴブリンの一生』の最終巻だ。長らく蛸髭にとって家宝に等しいものだったが、いまはこれに用はない。また、『或るゴブ』の主人公のように失意のうちに一生を終えるつもりもない。本を引き出し、放り捨てる。
『天空の……稲妻……いや、地獄の灼熱の……』
『とりあえず撃ってから必殺技名をつぶやくとかもカッコいいんじゃない?』
『あー、そういうパターンもあるかあ』
革袋をまさぐる蛸髭の指が硬質の瓶を捕らえた。それを取り出し、中身を一気に飲み干す。これの効能についてはシックルの報告で理解している。シックルによれば、これを飲んだギガーズは瘴気領域の主に変じたが、なお意識を残し身を挺してシックルの逃走を助けたということだった。
液体が胃の腑に届いた瞬間、全身を不快な感覚が駆け巡る。皮膚の下を小さな虫が這い回るような、体の内側からざらざらとした布でこすられるような。目の奥が熱くなり、眼窩からどろりとした液体が溢れ出る。歯茎がかゆくなり、牙が伸びる。頭が猛烈に痛くなり、無数の角が生え、不規則に伸びる。
全身が痙攣し、腿の傷口から真っ黒な髪のようなものが飛び出す。それはうねうねと蠢きながら地面を這い、周辺に倒れていた無数のゴブリンたちの死骸を覆っていく。
また一体、また一体とその髪がゴブリンの死骸を覆うたびに、蛸髭は身体に力がみなぎるのを感じていた。それと同時に、まったく異質な何かも流れ込んでくる。
――死ニタクナイ! 死ニタクナイ!
――コワイ! コワイ!
――イタイ! イタイ!
――助ケテ! 蛸髭サマ、助ケテ!
ゴブリンたちの断末魔が頭蓋の中で乱反射する。恐怖、絶望、恨み……そして怒りが蛸髭の身体に充満していく。そうだ、我も死にたくない。我も怖い。我も痛い。そして、何より我とその同胞をこんな目に合わせる人間どもが憎い!!
『あれ? なんか変なことになってるよ?』
『逃げられたらやだし……ええっと、じゃあとりあえずビーム!』
『雑っ!』
地に伏した蛸髭の全身を再び閃光が包む。蛸髭は文字通り身を焦がす苦痛に悲鳴を上げた。恨みと、怒りと、呪いを込めた絶叫だった。叫べば叫ぶほど、苦痛が和らぐ気がした。
否、気のせいではない。蛸髭の絶叫と共に発せられた黒い何かが、閃光を散らし、押し返していたのだ。
蛸髭は雄叫びを上げながら、その2本の足で立ち上がった。黒く長い毛で覆われているが、その内側には大地を踏みしめる力強い足が戻ってきていた。
蛸髭は流れ込んでくる力と思念に身を委ねる。地面がぐんぐんと遠ざかっている。まるで宙を飛んでいるようだ。だが違う。そんな軽やかな感覚ではない。身のうちの肉が鋼線に作り変えられていくような、力の重みを感じる。
『なに……これ……』
『……不思議生物過ぎる』
そこには、メガネチャンダイオーをも上回る巨体へと変貌した魔王蛸髭がそびえ立っていた。




