第百四話 精神が擦り切れたら繁殖に回せばいい
怒号、悲鳴、喚声、何かの焦げる匂い。立ち込める血臭。轟音、地鳴り、金属同士がぶつかり合う甲高い音。
魔王蛸髭は、顎の触手をねちゃねちゃと撫でながらそれらの音と漂う臭気を天幕の中で存分に楽しんでいた。
周辺には「髭」の中から選りすぐった眷属たちと、人質にした例の女を置いている。基本的に、人間に近い姿の眷属たちはすべて天幕の中だ。人間どもに顔を知られると今後の工作に差し障りが出る。
(戦争とは、こうでなくてはな)
都市に攻めかかる軍勢を眺めながら、蛸髭はそう思う。このところは戦線が広がってしまい、大軍を持って1箇所に攻め入るということができなかったのだ。
まとめれば容易く屠れるはずの小勢に苦戦を強いられる日々は蛸髭にとって苦痛以外の何物でもなかった。人間の下に組み敷かれることなど、本来は1日たりとも許せないのだ。
そのように戦線が広がっても、各地で独立した作戦行動を取れる人間たちの振る舞いも蛸髭には許しがたい事実だった。こちらも「髭」の指揮官によってかなりマシにはなったとはいえ、どう贔屓目に見たところでゴブリン側の方が拙い。
戦力では勝っているはずの状況で何度も敗北をさせられた。逆に、戦力で劣った状況で人間に勝てたことは一度してない。種としての強さの差を見せつけられているようで、腸が煮えるようだった。
(だが、違ったのだ)
目の前で繰り広げられている戦争を見て、蛸髭は新たな確信を得る。人間どもが個の強さ、個の賢さを誇るのであれば、ゴブリンにあるのは数の力だ。ゴブリンは食料さえあれば人間の数倍、数十倍の速度で数を増やせる。多少こちらの質が劣ろうとも、圧倒的な数の差で押し切ってしまえばいい。
支配地への未練を捨て、軍団をひとつにまとめたことでこれを理解したのは実に皮肉なことだった。しかし、本当はこれがゴブリンの真の生き方なのではないか?
土地に拘泥し、そこから得られる収穫に期待するなどまるで人間ではないか。我々はゴブリンだ。群れをなして人間どもを狩り、人間どもから奪い、人間どもを餌にして生きるのが本分なのではないか?
これは、『或るゴブリンの一生』でもついにたどり着かなかった真理なのではないか、と蛸髭は独り満足する。
大軍勢になったことで確かに補給は苦しくなった。そのため、南部の大瘴気領域へ逃れる途中にこの都市を襲って物資を奪う必要ができた。致命的でない範囲であれば戦死者もむしろ歓迎だ。無駄飯喰らいがいなくなるのはありがたい。
南部に拠点を移してからの戦略について思考を巡らす。拠点を定めず、人間の街や都市を次々に襲っていく方がよいのではないだろうか。南方連合は寄り合い所帯だ。皆、自分たちの縄張りを守るのに必死になり、我々を討てるほどの大軍勢を糾合することはないのではないか。
そうして南部を食い尽くしたら、さんざん煮え湯を飲ませてくれた王国と帝国の番だ。どちらを先に討つべきか……案外、我々魔王軍という眼の前の脅威が遠く離れれば、その間に勝手に戦争でもはじめてくれるかもしれない。人間同士の勢力が互いに削り合ってくれればこれに越したことはない。
ともあれ、そこまで先のことはいま考えてもわかることではない。思考を目の前の戦場に移す。
天幕を出て、移動式の物見台に登る。城門の突破には至っていないが、城壁を登っての侵入には成功しはじめているようだ。北側に攻撃を集中したことで、敵の防御も北門周辺に集中している。
(そろそろ、頃合いだな)
従卒に命じ、銅鑼を叩かせる。それを聞いた本陣後衛の精鋭隊が左右に分かれて移動を開始する。北に意識を集中させたうえでの東西からの横撃、これが蛸髭の本命の策であった。
かつて、人間の軍に大敗した記憶が蘇る。こちらの突撃を止められ、左右からの騎馬隊にいいように蹂躙された。野戦と籠城戦との違いはあるが、これはあのときの再現だ。ただし、蹂躙するのは人間ではなく、我々ゴブリンの側だ。
再び都市に視線を向ける。髭の一本であるシザースから報告を受けた女たちは鐘楼に立っていた。蛸髭の狙いは黒髪の女ひとりだったが、ご丁寧に仲間諸共あそこで待ってくれるようだ。あの人質は想像以上に有効だったらしい。
部下たちにはあの鐘楼には手を出すなと伝えてある。このまま街を攻め滅ぼしたら、南部の大瘴気領域へ渡るまでの間の暇つぶしにいたぶり尽くしてやろう。
人質の女はまだ無傷のままだ。再会の瞬間にはもう襤褸切れのようになっていた……というのも面白いが、目の前でじっくり拷問をしてやるのもよいだろう。
気が晴れるまで遊び尽くし、精神が擦り切れたら繁殖に回せばいい。とくにあの黒髪の女は髭の一本を殺すほどに腕が立つという。おそらく優秀な母体になってくれるはずだ。
自らの勝利が間近に迫っていることを確信し、蛸髭は満足げに髭をしごく。東西の挟撃がはじまれば、あの都市はもういくらも保つまい。蹂躙し、破壊し、奪い尽くしたら南に向けて出立する。のろまな人間どもの軍では追撃も叶うまい。
粘着質な笑みを浮かべて鐘楼を眺めていると、女たちが突然動き出し姿を消す。味方の苦戦を見かねて加勢をしようとしているのか、あるいは逃げ出そうとしているのか。
いずれにせよ、人質の女は価値がなくなったということだ。どうせ街が陥落するまでは退屈だ。あれを嬲って時間をつぶすことにしよう。
そう蛸髭が考え、物見台から降りようとしたとき、背後から何かとてつもなく重いものが地に落ちる音が聞こえた。
蛸髭が咄嗟に振り返ると、そこには天幕を押しつぶす、車輪のついた鉄の箱があった。鉄の箱の戸が開き、鐘楼にいたはずの女が飛び出して人質の女を抱えて箱の中へと舞い戻る。
唐突な出来事に硬直していた蛸髭だが、箱が蛸髭から離れるように動き出したのを見て我に返った。
「そいつらを逃がすなッ!」
蛸髭の命令に反応した近衛たちが鉄の箱の進路に立ちふさがる。しかし、聞いたこともない凄まじい破裂音が聞こえたかと思えば、全身から血を噴いて倒れていた。
(新式の魔術か!?)
未知の現象に蛸髭の警戒感が一気に高まる。人間の魔術には何度も手を焼いている。今度は箱から身を乗り出した黒髪の女が太い鉄棒を肩に担ぎ、こちらに向けている。
(あれはまずい!)
そう直感した蛸髭は咄嗟に物見台から飛び降りようとする。しかし、豪奢な外套の裾が荒い作りの物見台のささくれに引っかかり体勢を崩す。鉄棒の先端が火を噴き、凄まじい勢いでこちらに飛んでくる。身を捩ってかわすが、顎をかすめて数本の髭が引きちぎれる。
背後で凄まじい爆音。物見台から転げ落ちる。落下のさなか、視界に入ったのは吹き飛ばされた部下たちの死体と、立ち上る黒い煙だった。
どう、と地面に身体が叩きつけられる。大した高さではない。蛸髭はすぐさま跳ね起きる。側近たちが駆け寄ってくるのにもかまわず、見る間に遠ざかっていく鉄の箱をにらみ続けた。




