第十話 一難去って
「ルーン、ルーンッ! しっかりするです!」
アリスが、私の肩を揺らしていた。
私は目を開く。
すぐそこに、アリスの心配そうな顔があった。
えっと、私は、確か……何かから、逃げていて……。
そこまで考えて顔を上げて、アリスの背後にある、巨大芋虫の死骸が視界に入った。
それでようやく、私は思い出した。
……あの《次元の杖》を使いこなせて、それであの芋虫の頭を吹き飛ばしたのだ。
夢と違って、小鳥は一体しか出てこなかったけれど、それでも凄まじい威力があった。
あの大きな芋虫の頭を、丸々削り飛ばせるとは思わなかった。
思い返せば、夢でもあれくらいの規模はあった気がする。
身体が痛いが、頭がそれ以上に痛かった。
頭の中で複数の数式や文字列がぐちゃぐちゃに走り回っていて、そのせいで脳が熱くなっているような感覚だった。
これは、知恵熱だろうか。
「つう……」
私は額を手で押さえる。
「ルーン? 痛いですか?」
「アリス……無事だったんだね。よかった」
「倒れてきた木に巻き込まれて死にかけたですが……ボクは、丈夫ですから」
「そ、そう……」
誇張でなければ、本当に危うい状態だったのではなかろうか。
確かに巨大虫が暴れて木々を薙ぎ倒していたので、アリスがそういう状況に陥っていてもおかしくはない。
「ルーン、この化け物は、どうやったです……? こんな外傷、普通じゃないです……」
「……リシェル、リシェルはどこ? それより、リシェルが……」
「そう、ですね。アレを回収しないとです」
アリスが目を細め、嫌そうに口にした。
やはり、どうにもアリスは、今のリシェルが好きになれないらしい。
嫌悪を覚えているようにも見える。
アリスの気持ちもわかる。
私が、あの半端に元の面影が残る廃墟を、だからこそ忌避するように、アリスのリシェルへの想いも、似たようなものなのだろう。
だが、しかし……それでも私は、リシェルを見捨てたくない。
望みを捨てたくない。
私はアリスの手を借り、リシェルの元へと行った。
リシェルは地面の上に座り込んで、いつも通り隻眼で宙を見つめていた。
「……いっそ、死んでればよかったです」
アリスの呟きに、私は目をやる。
アリスは困ったように眉間に皺を寄せ、それから目線を逸らした。
私は、アリスに身体に包帯を巻いてもらった。
噛まれたときに、ざっくりと背中に牙を突き立てられていたようだった。
もう少し深ければ、本当に動くことさえままならなくなっていただろう。
「……それで、あの芋虫がすぐそこまで来ていた時に、《次元の杖》を使いこなせたみたいなの。小鳥がシュッと出てきて……あの芋虫に飛んで行って、バーンッて……」
「シュッと出て、バーン……ですか」
「ご、ごめん、わかりにくかったかな?」
「いえ、まあ、雰囲気は伝わりましたです」
アリスが遠慮がちに頷いた。
「……信じられないですけど、あの芋虫を見ると……そうせざるを得ないです」
アリスがちらりと、芋虫を見る。
顔が綺麗に抉れている。
「これさえあれば……あの大兎だって、もう怖くないはず」
銃弾を撃ち込まれても死ななかった大兎も、《次元の杖》で身体の大部分を抉り飛ばされれば、さすがに死に至るはずだ。
「……続けるです、この旅を? こんな傷を負って、次は、死ぬかもです」
「私は……そうしたい。あの廃墟に戻って、また都合のいい夢を見られるのを待ち続けるなんて……そんなの、死んでるのと変わらないって、私はそう思う」
「そう……ですか」
「何故だか知らないけど……この《次元の杖》の扱い方を、私は知ってる。もう、アリスとリシェルを、危ない目に合わせたりなんかしないから」
私は地面に置いた《次元の杖》へと目をやる。
……あの夢は……私が《次元の杖》で一方的に兵士を殺していた夢は、現実だったのだろうか。
「……そう気負わないで欲しいです。ルーンがやるなら、ボクも全力で助けるです。……ボクは、アレを守ろうとは思えないですが」
……アレ、というのはリシェルのことだろう。
私は頷く。
アリスが大事に思えないものを、命懸けで守れだとか、友達として扱えだなんて、私には言えない。
アリスが無情な子じゃないことは、私も知っている。
今のリシェルをリシェルと思って接してほしいと強要するのは、それはそれで残酷なことでもある。
何より、今がどういう状態であるのか、私達は何も掴めていない。
私とリシェルの想い出がどこまで本物だといえるのか、全くわからないのだから。
「……巻けましたよ、ルーン。でも、傷は深かったです。頭も痛む、という話でしたね」
「うん……」
私は頷く。
ルーンは鞄から、地図を取り出した。
「この先にはいずれ建物があるようなので、そこに入ってしまえば安全かもしれないです。ただ、ここからどれだけ距離があるかはわからないです。出発前に、少し、長めに休憩を取った方がいいかもしれないです」
建物……もしかすれば、他にも人間がいるかもしれない。
そうすれば、この世界の異常な状況や、私達を森近くの廃墟に閉じ込めた犯人もわかってくるはずだ。
ちょっとはまともなものだって、食べられるかもしれない。




