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2 セーリオ帝国の第9夫人ソニア

 セーリオ帝国までの移動中はほとんどの時間を寝て過ごしていた。睡眠時間を削って引き継ぎの準備をしていた反動がきてしまったようで、ベッドに入るとすぐに眠ってしまったのだ。

 頭に浮かんでくるのは過去のことばかりで、今後について考える時間がほとんどないままセーリオ帝国に到着し、気が付いたら後宮入りしていた。


 案内された部屋はルーティ国で使っていた時の私室と比べると数倍の広さがあり、既に美しく整えられていた。足を踏み入れるのが躊躇われたけれど、フェリシアに促されて応接用のソファに腰を下ろす。


「ソニア様、入浴の準備が出来ております」


 荷解きをするほどの荷物が無かったので侍女の紹介をされたあとはソファに座ったまま固まっていた。この場所で何をすれば良いのか分からずにいると、入浴の準備が出来たと告げられる。


 バスルームに案内されたのに何故かフェリシアが出て行ってくれない。それにバスルームの中にも2名の侍女が待機しているように見えた。ルーティ国に居た頃はメイドに「入浴の時間です」と告げられて、あとは一人で着替えまで済ませていたのだけれどセーリオ帝国では違うのだろうか?


「あの……?」

「ソニア様?」

「ひ、一人で入れるわ」

「ソニア様、どうかお世話をさせてくださいませ」


 断れずにいるとワンピースを脱がされてバスルームに連行されてしまった。フェリシアは年上だし、私よりも気品があって貴族らしい雰囲気なので断りにくい。


 貧相な身体を見られた事で慌てていてもお構いなしで、フェリシアを含む侍女3名に身体を洗われ、髪を洗われ、マッサージをされ……なんとか入浴が終わった。着替えも一人で出来ると訴えたけれど、やたらと薄くてヒラヒラした服に着替えさせられてしまった。


(とても疲れたわ……)


 部屋に戻ると一瞬で甘い香りに包まれた。資料で見たことがあるけどセーリオ帝国ではお香の文化が浸透していて平民にまで広く愛されているようだった。


(頭が、くらくらする……)


 慣れない香りに頭痛がしてきた。


「ソニア様、初夜の前にこちらの説明をしてもよろしいでしょうか?」


 午後のお茶の時間辺りで後宮入りしたはずなのに、入浴や着替えをしていたらあっという間に夜になっていた。食欲がなくて夕食が食べられなかったせいか胃の辺りが少し気持ち悪い。


「初夜……」

「間もなく皇帝陛下がいらっしゃいます」


 ベッドサイドテーブルに置かれた3つの水差しは皇帝陛下が好んでいるお酒、水、どうしても緊張が解けないときに飲むお酒だそうだ。嬉しそうにしているフェリシアに説明されたけれど、耳に入ってくる言葉はどこか他人事のように聞こえてしまう。


 侍女たちが一礼して部屋から下がっていったあと、心臓が早鐘を打ち始めた。


 初夜? これから? 男性の姿をまともに見たのは謁見室で平和協定が結ばれたときだ。これまでの人生でメイドとしか関りを持たなかった私が、閨を?


 「はぁっ、はぁ……!」


 うまく息ができない。

 ルーティ国の図書室には『男性との話し方や接し方』の本は無かった。

 ルーティ国の図書室には『閨の作法』の本は無かった。

 ルーティ国の図書室には『9番目の妻になった女性がすべきこと』の本は無かった。


 どうすればいい?

 本で習っていないことは、どうやって動くのが正解だ?


「……ソニア?」

「皇帝陛下に、ご挨拶を……」


 いつの間にか皇帝陛下が部屋に到着していた。慌てて立ち上がり、挨拶をしようとしたけれどすぐにベッドに座るよう指示される。


「どうした? 息が出来ぬか?」


 大丈夫、と返事をしたいのに、言葉が出てこない。


「ソニア、いまここに何が見える?」

「……? 水差しが、3つ……」

「そうだ。これの中身は?」

「皇帝陛下が、お好きな、お酒です……」

「これは?」

「緊張が解けないときに、飲むお酒、だと……」


 皇帝陛下の問いかけに応えていると、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。


「息を吸って、ゆっくり吐けるか?」


 すぅっ、と息を吸い、数秒かけて息を吐く。皇帝陛下の言うとおりに深い呼吸を繰り返していくと、ようやくいつもの自分に戻ることができた気がする。


「皇帝陛下にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした……」

「ソニアが育った環境については報告を受けている。気にするな」


 私が座っている場所から一人分のスペースをあけたところに皇帝陛下が腰を下ろした。その気遣いに心が温まる。


「ソニアは私の妻となった。名を呼ぶことを許そう」

「ジェスレーン様、ありがたき幸せにございます」


 まるで自分が欠陥品のように思えてくる。

 こんな私に『(人質)』としての価値はあるのだろうか。


「あっ……私が……」

「これくらいは自分でできるぞ。ソニアはこれを飲んでおいた方が良いだろう」


 ジェスレーン様がグラスにお酒を注いでいる。そして、私用のグラスには『緊張が解けないときに飲むお酒』を注いでくれた。


「セーリオ帝国の未来に」

「セーリオ帝国の未来に……」


 グラスを合わせると、キン、という高い音がした。

 お酒を飲むのが初めてだったせいもあって喉を通り過ぎていく液体に思わずむせてしまいそうになる。味は確かに甘いけれど、喉が焼けるような感覚があった。


「ん……」

「ソニア、少し横になろう」

「よこに……?」


 グラスを取り上げられた。


 部屋を包み込むような甘い匂い。

 喉を焼くような甘いお酒。


 なぜだろう、

 頭がくらくらする。


 ふわふわとした未経験の感覚に戸惑っているとベッドに優しく押し倒された。頭を支えてくれるジェスレーン様の大きな手が、温かかった。


「ジェスレーン様……」

「どうした?」

「わたし、こわい……」

「そうだな、初めての事ばかりで怖いだろう」

「ごめんなさい……」

「目を瞑ると良い」

「……いいの?」

「全て終わらせておく。安心して身を任せなさい」


 その言葉に導かれるようにして目を閉じた。






「ソニア様、おはようございます」


 目を開けるとフェリシアに声を掛けられる。

 慌てて飛び起きると侍女たちが駆け寄ってきた。


「ソニア様、まだ寝ていて良いのですよ」

「お身体に痛むところはございませんか?」


 ジェスレーン様とお酒を飲んでからの記憶がない。まさか、あのまま、眠って……?


「ジェスレーン様は……?」


 初夜を執り行わないまま寝落ちしてしまったなんて……!


「明け方に戻られました。ソニア様に無理をさせたから自然に目覚めるまでは起こさないようにとおっしゃっておりましたよ」

「汗をかいて気持ち悪くはありませんか? 一度お着替えされますか?」


 目線を落としてみるとシーツが乱れていて血の跡があった。昨夜の私の様子から判断して寝ている間に初夜を済ませてくれたのだろう。


「あのお酒を飲んだの。少し、頭が痛い、かも」

「まぁ! すぐにシーツの交換を致しますので今日はこのままお休みになってください」


 フェリシアの指示で瞬く間にベッド周りが整えられていく。明日からハーレムにいる夫人たちへの挨拶回りが予定されているので今日だけはこのまま休ませてもらうことにした。


 挨拶回りの際は『人質』として後宮入りしたことを示したおかげで大きなトラブルもなく帰ってくることができた。全員と話をしたけれど第1夫人のエディリアーナ様の存在感が圧倒的で、正妃になるのは彼女だろうという確信があった。


 第2夫人のユーリエ様はエディリアーナ様の話を延々としていたからお相手が楽だったけれど、第3夫人から第5夫人は派閥が違うようでそれぞれに正妃を目指しているようだった。


 第6夫人から第8夫人は私と同じ立場で平和協定のために嫁いできた女性だからか親近感があった。3人とも王女や上級貴族の娘だった人達なので少し気後れしてしまったが表面上は穏やかな時間を過ごせたと思う。



 挨拶回りの終盤でジェスレーン様と閨を過ごす日がやってきた。今度こそは、と思うのに身体が震えて、また呼吸ができなくなってしまう。


「ソニア、心と身体を壊してしまえば元には戻れぬ。決して無理はするな、時間はいくらでもある」


 ジェスレーン様はそう言って会話をするだけの時間に変更してくれただけでなく、私の体調を見ながら1時間か2時間ほどで部屋を後にする。閨が行われていないのは明らかなのに、侍女たちは何も言わなかった。それどころか優しく見守ってくれている。


 これがルーティ国だったらメイド達に「ソニア様は本当に役立たずだわ」「こんな欠陥品が妻だなんて」「皇帝陛下のために頑張ろうと思わないのですか?」と罵倒されていただろう。


 それから1ヶ月が過ぎた頃、イメラ王国との平和協定のためにジェスレーン様がしばらく帝国を留守にすることが分かった。ジェスレーン様には申し訳なかったけれど、閨の重圧から解放されたおかげで少し食欲が湧いた。体重が増えて、痩せた身体に少しのお肉がついたことでフェリシアが大喜びしていた。




「イメラ王国から参りました。アリシャと申します」


 第10夫人となったアリシャ様は美しい人だった。私は公に出ることを許されていなかったからお会いした事は無かったけれど、イメラ王国の王妃候補として優秀な人物であるという事はよく知っていた。アリシャ様は美しいだけでなく教養も兼ね備えていて、上級貴族の娘ではなく王妃の風格さえ感じられる。


 セーリオ帝国の正妃候補に名乗りを上げるのだろうと思っていたけれど、アリシャ様は正妃になるつもりはなく、人質として読書三昧の日々を過ごすのだと話してくれた。そのキラキラとした笑顔が年相応に見えて、とても可愛らしかった。



 ジェスレーン様が帝国に戻ってきたということは閨が再開されるわけで……相変わらず、ジェスレーン様と会話をするだけの時間を過ごしていた。


 そのときにジェスレーン様のお話の中でアリシャ様のお名前が出てくることが増えてきた。ジェスレーン様は気が付いていないと思うけど、アリシャ様の話をするときにとても優しい表情をしているのだ。



「皇帝陛下、昨夜はアリシャ様のお部屋に行ったそうよ」

「今までは夫人の都合が合わないと自室で過ごされていたのに……もしかしたら寵妃が誕生するかもしれないわね」


 隣室にいる侍女たちの噂話が漏れ聞こえてきて、なるほど、と納得した。閨が行えていなくてジェスレーン様には申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、私にしかできない方法で恩返しができそうだ。


 閨が再開されたことへの重圧で食欲が無くなり、さらに優しく接してくれる侍女たちに戸惑っている間に体重はどんどん減ってきていた。フェリシアに『体調不良で閨を辞退したい』と訴えると『私もソニア様のお身体が心配です』と、すぐにベッドに押し込まれてしまい、自分がついた嘘に激しく後悔することになった。


 夜になるとジェスレーン様が見舞いに来てくれた。


「これはアリシャが提案してエディリアーナが商品化したボードゲームで『リバーシ』というものだ」

「リバーシ?」

「ここでの気晴らしになるだろう。アリシャを呼んで教えてもらうと良い」

「ジェスレーン様、ありがとう存じます」


 食欲もなくて、体重も落ちていて、体調不良というのは本当だったけれど、いつもの会話ができないわけではなかった。ジェスレーン様の訪れを辞退したのは初めてだったせいか侍女たちは誰もが心配して声をかけてくれた。


 嘘をついてしまった、心配させてごめんなさいと謝りたかった。でも、私が罪悪感から解放されるための謝罪では意味がない。私の立場で謝罪をすれば、侍女たちは許さないといけなくなってしまう。自分への戒めのためにも、このまま胸に仕舞いこんでおこうと心に決めた。


 ジェスレーン様への恩返しになると思って初めてついた『嘘』は私の心に重い影を落とした。10日後、ジェスレーン様が訪れる日は本当に体調不良で起き上がることが出来なくて……また辞退することになってしまった。


「ソニア様、お休みのところ申し訳ありません」

「どうしたの……?」

「アリシャ様が明日の午後にお見舞いをしたいとおっしゃっているそうです。お断りしましょうか?」


 ジェスレーン様はアリシャ様の部屋に行って私のことを話したのだろう。きっとアリシャ様に『ソニアの様子を見てくれ』と頼んだに違いない。断ればアリシャ様の顔に泥を塗ることになってしまう。それに、私なんかのためにわざわざお見舞いに来てくれることが純粋に嬉しかった。


「午後なら大丈夫、お迎えするとお返事してちょうだい」


 フェリシアは心配そうにしていたけれど「かしこまりました」と返事をしてベッドから離れていった。

 リバーシのルールブックは覚えたものの、まだ実際に使ってはいない。アリシャ様が来てくださるのなら、一緒にやってもらえないか聞いてみよう。


(アリシャ様、お会いできるのが楽しみだわ……)


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