1 婚約破棄から始まる快適な人妻ライフ
心の中の声だけ少し口が悪いです。
ダン! とテーブルを叩く音に驚いて慌てて顔を上げると見知らぬ人達がそこにいた。
「なんだ、その態度は!」
「えーっと……何の話でしたっけ?」
金髪碧眼の美青年が激怒している。いまにも頭の血管がブチ切れてしまいそうなぐらい激怒している。
「ここは……?」
さっきまで会社で残業していたはずなのに……辺りを見回してみても分かることが何もない。
「この期に及んで白を切るつもりか!」
残業していたら急に胸が痛くなって、それで、机に積み上げた書類をなぎ倒しながら床にダイブした事は思い出せたんだけど……
「ま、まさか……」
「さっきから何をブツブツ言っているのだ!?」
「私、過労死しちゃったの?」
「カロウシ!? なんだ、それは!」
さっきからうるさいな! こいつ! イケメンだからって何やっても許されると思うなよ!
「ブラックな会社だとは思っていたけど……」
激務すぎていつか死ぬかもしれないとは思っていたけど、本当に死ぬとは思わなかった。入社前の説明会では福利厚生に健康診断が含まれていたはずなのに、いつの間にかそれも無くなっていて結局は一度も健康診断を受けたことがなかった。それに人間ドックに行くほどの時間とお金の余裕もなかったし……
そうか、私は死んだのか……
「私の声が聞こえないのか! 何様のつもりだ!」
「会社で死んで良かった~」
自宅で突然死&発見が遅れちゃったら腐乱臭が原因で周辺にお住いの皆様の嗅覚を殺す所だったし、大家さんや両親にも迷惑をかける所だったし、事故物件を増やしてしまう所だった。ギリギリセーフといった所だ。
いや、死んでるから完全アウトだわ。
「カイシャ・デ・シンデ!? 誰のことだ? まさか帝国との婚姻から逃れるつもりではないだろうな!?」
「帝国?」
「もうじき到着される頃だ! イレーネを不当に虐げて婚約破棄されたお前を! わざわざ迎えにきて下さるのだぞ!」
金髪美青年が隣に座る美少女の肩をそっと抱き寄せた。その美少女の顔を見つめてみるとビクッと肩を揺らしてこちらの様子をうかがっている。怯えているように見えるけど、形の良い唇がわずかに弧を描いていた。
「いったいどうしたんだ、アリシャ」
アリシャ?
アリシャ……
あぁ、そうだった。
……いえ、そうでしたわね、アリシャは私の名前。
そして、目の前にいる人はこの国の第一王子であるセラス様。その隣にいるのは下級貴族のイレーネ嬢。先ほどの記憶は……以前の私、といえば良いのでしょうか。こことは違う場所である事は間違いないのですが、それでも私自身に起きた事だと理解することが出来るのです。
「お父様、私と殿下の婚約破棄の手続きはすでに終わっているはずですが……殿下の新たな婚約は認められたのでしょうか?」
「いや、まだ国王がお認めになっていない。結果が出るまでもうしばらくかかるだろう」
「そうでしょうねぇ」
イレーネ嬢の方を見ながらクスッと笑ってみせると彼女の頬がカッと赤くなった。
「何が言いたいんですか!」
「殿下の婚約者でもない下級貴族の娘がなぜこの場にいるのでしょう。国王陛下との謁見を終え次第、セーリオ帝国の皇帝陛下が私を迎えに来て下さるというのに……こんな非常識な方がこの場に同席するなんて我がイメラ王国の恥ですわ」
「くっ……! またそのような暴言でイレーネを傷つけるのか!」
暴言じゃない。正論。
「まぁ、来てしまったものは仕方がないですわね。そこの脳内お花畑嬢も同席していてもよろしくてよ」
お嬢様みたいに喋るの面倒くさいな。
心の中で考えることは誰にもバレないのだから……ありのままの私でいこう。婚約破棄されたって少しも寒くないわ。
ついでにこれまでのことを思い出してみよう。
脳内お花畑嬢ことイレーネ嬢は下級貴族というハンデをものともせず、可愛らしい容姿と天真爛漫な性格を武器に第一王子であるセラス様を筆頭に、宰相の息子、騎士団長の息子などの高位貴族の子息を次々に落としていき、見事に逆ハーレムを形成した。
……逆ハーレムを作ってる時点で天真爛漫じゃないよな?
貴族なら一般常識として身についているはずのマナーを無視した行動が目立っていたため、見かけるたびに注意をしていたら「アリシャ様にいじめられた」と殿下に泣きついたらしい。
婚約者の私の意見を聞くこともなく殿下から一方的に責められたので、それ以降はイレーネ嬢のことは無視していたのだけど……私のことを案じた友人たちがそれぞれに行動して常識の範囲内でイレーネ嬢を諌めていたらしい。それらも「悪質ないじめ」で「全てはアリシャが指示した」という事になってしまった。
幼少期から続いてきた厳しい王妃教育に耐えられたのは愛するイメラ王国のためだった。いずれは国母となってイメラ王国を統治していくのだと信じていた。ちょっと頼りなくて、おバカな所がある殿下を支えてこの国をより良いものにしていこうと思っていたのに……私の気持ちはセラス様に……殿下には伝わっていなかったらしい。
「その態度は何だ! 自分の立場が分かっているのか!」
「えぇ、もちろん。そこの脳内お花畑嬢を虐げたことを理由に婚約破棄をされ、セーリオ帝国との平和協定のために嫁ぐことも、それがただの人質であることも十分に理解しております」
セーリオ帝国は皇帝陛下が代替わりしてからの僅か数年で大陸を支配するほどの力を持つ大国となった。あちこちに戦争を仕掛けては次々と領土を広げていき、ついにはイメラ王国の順番になってしまった。
戦争を避けて平和協定を結ぶための婚姻。王家には適齢期の女性が居なかったため、その重大な役目に上位貴族の娘である私が選ばれた。殿下としてはイレーネ嬢を不当に虐げた私に対する嫌がらせのつもりだったのだろうけど……
実は、セーリオ帝国が隣国と開戦したときには既に、イメラ王国の順番になった場合は私が婚約を解消して人質になることが決定していた。その決定に異論は無かった。何故なら、それがイメラ王国の国民のためになると分かっていたからだ。戦争が始まればたくさんの人が死ぬ。負ければ全てが奪われてしまう。
「愛するイメラ王国の民を守るためです。勤めを果たしましょう」
「……分かっているのならそれで良い」
それからしばらくすると国王陛下との謁見が終わり、セーリオ帝国の皇帝陛下が到着されたという報告があった。
皇帝陛下は代替わりしたばかりで二十代後半だと聞いていたけど……短髪で筋骨隆々な褐色肌のイケメンが現れたのは予想外だった。セーリオ帝国は大陸の南側にあって別名が『太陽の国』といわれるだけあって従者の皆さんも漏れなく褐色肌の人ばかりだった。
「アリシャ。そなたは噂で聞いていた通りの美しい娘だな」
挨拶などを交わして婚姻の手続きを終えたあと、皇帝陛下……ジェスレーン様が話しかけてきた。
「まぁ……光栄にございます」
「あのっ、ジェスレーン様、アリシャ様はとっても意地悪な人なので……気をつけてくださいっ! 私も凄く辛い目にあって……」
脳内お花畑なだけじゃなくて無礼者かよ。帝国の皇帝陛下に、しかも『陛下』じゃなくて名前を呼んで声を掛けるとか無礼者の極みかよ。
「申し訳ございません。この者は礼儀というものを母親の胎内に忘れてきたようで……大変失礼いたしました」
「構わぬ。それに『意地悪』が出来るほど気が強いのであればハーレムでも上手くやっていけるであろう」
殿下とイレーネ嬢、そして私との間に起きたいざこざについては既に知っていたのだろう。ジェスレーン様はこの状況を楽しむように小さく微笑んでいた。10歳も年下の小娘たちがワチャワチャしてる、ぐらいの感覚なのかもしれない。
「ハーレム……」
「ジェスレーン様のハーレムには既に9人の女性がいらっしゃるんですよね」
何故か分からないけどイレーネ嬢が勝ち誇ったような表情で私を見つめている。
イメラ王国と同じように人質を出して平和協定を結んだ国は少なくない。それだけでなく、セーリオ帝国内の貴族から嫁いできた女性もいるはずだ。一夫一妻制であるイメラ王国とは違い、セーリオ帝国が一夫多妻制である事は貴族なら誰でも知っている。それがどうしたというのだ。
「まだ正妃も寵妃も決まっておらぬ」
お前にもチャンスがあるぞ? という意味だろうか。ジェスレーン様はさっきから声をかけまくっている無礼者を無視して私の反応だけを待っていた。
「それなら正妃教育は……」
「正妃に選ばれてから受けることになる。まぁ……そなたを含め、私の妻たちは皆そういった教育の基礎が出来ているから何も心配はしておらぬが」
「そ、それなら妻となった者は日々なにをして過ごしているのでしょうか……?」
子どもの頃から王妃教育、各種レッスン、勉強に追われて自由時間など皆無に等しかったせいか、それ以外に何をすれば良いのか想像ができない。殿下と結婚をした後も同じような日々がずっと続くのだと思っていたから余計に困惑してしまう。
「私の妻たちは茶会を開いたり、身体を磨いたり、商人を呼んで買い物をしたり、それぞれのやり方で過ごして居る。どうしてそのような事を聞く?」
「仕事は、ないのですか?……その、政治的なものとか、他国との外交とか……?」
「王族に限らず妻となった女性が無理に働く必要はない。我が国にとって女性は宝だ。だからこそ私が直々にそなたを迎えに来たのだ」
「ハタラク・ヒツヨウ・ガナイ? どこの国の言葉かしら……」
「私はそなたと同じ言語で話しているぞ」
だめだ、前世と現実がごちゃ混ぜになってきた。
「女性がいなければ子を授かる事も出来ぬからな。そなたの事も大切にするぞ」
「10番目の妻として、ですよね?」
さっきから何度も無礼者が割り込んでくるけど私もジェスレーン様も華麗にスルーを決め込んでいる。殿下は婚姻の手続きが終わってすっかり安心してしまったのか国王陛下や私のお父様と談笑していた。談笑してる場合じゃない。無礼者を見張っておけ。
「妻が10人……平等にお相手したとしても、ひと月のうち3回で済む……負担にならなくて良いわね」
「閨でのことか?」
「あっ、声に出てた……」
こことは違う場所で生きていた頃の私は結婚どころか恋人も居ないまま、何も経験しないままで死んでしまった。それを思えば……働く必要がない上に、こんなイケメンに月3回も抱かれるのなら良いことずくめなのでは?
「あの、もしかして、好きなだけ読書をすることも許されますか?」
「構わぬ。好きなだけ買えば良い。城にも図書室があるが足りなければ帝国図書館から取り寄せると良いだろう。帰ったらすぐに蔵書目録を用意させよう」
「ありがとう存じます。セーリオ帝国に到着する日が楽しみになってきましたわ」
今すぐにでも行きたいくらいだ。色々と準備があるから出発が数日後になってしまうのがもどかしい。
「話が違う……」
イレーネ嬢が真っ青な顔をして何か呟いた。
「なんでよ、アリシャはハーレムが嫌で他の女たちとトラブルになって、大事件を起こして、それでセラス様の友人である私が国を代表して謝罪に行くはずで……」
「イレーネ嬢、殿下とお幸せに」
「ジェスレーン様はアリシャに愛想を尽かしてイメラ王国に追い返すのよ、それで、私が寵愛を受けてセーリオ帝国の正妃になれるはずだったのに……! ジェスレーン様は逆ハールートでしか登場しないから全員の好感度を下げないようにしてここまで頑張ったのに!」
ブツブツ言ってないで私の話を聞きなさいよ。っていうか殿下だけじゃ飽き足らずジェスレーン様まで狙ってたの? 国をまたいで逆ハーレムを作るなんて……どんだけガッツあるのよ……
「マナーも一般常識も欠けている貴女にとって王妃教育は辛く厳しいものとなるでしょうけれど……」
「ジェスレーン様! 本当にアリシャ様で良いのですか? この方は他の生徒を使って私を虐めていたような酷い性格で……!」
目の前で究極の無礼者が爆誕した。頭が痛くなってきた。ジェスレーン様が婚姻の契約を破棄して開戦したらどうするつもりだ。聞けよ、私の話。
「気が強い女は嫌いではない」
ジェスレーン様はそう言って笑いかけてくれた。
イケメンの微笑みは心臓に悪いけど、動揺を顔に出さないようにして令嬢らしい微笑みを浮かべてみた。
「わたくし、ハーレムの皆様と争うつもりはありませんのよ? ただ、本を読みたいだけですわ」
ハーレムには2種類の妻がいる。人質として嫁いできた女性と、正妃となるべく帝国内の高位貴族から嫁いできた女性。私は前者のように人質として嫁ぐわけで、正妃を目指すつもりはない。イメラ王国の国民を守りつつ、快適な人妻ライフを送らせて頂くために嫁ぐのだ。セーリオ帝国では読書三昧の生活が待っているのだから無意味な争いなど起こすわけがない。
「なるほど。それではそなたの部屋に壁一面の本棚を増設しよう」
「まぁ……!」
荷物が増えちゃうけど本を購入していこう!
理解のある夫で良かった!
ありがてぇありがてぇ!
「ちょっと、どういうことよ! ここまでシナリオ通りにきたのに設定がおかしいじゃない! まさかアンタも異世界転生したってこと!? 絶対に許さないから! ジェスレーン様に愛されるのは私のはずなのに!」
異世界転生? どういうこと? もしかしたらイレーネ嬢にも私と同じように『以前』の記憶があるということ?
社畜人生を送っていた私にも楽しみにしていることがあった。眠る前のわずかな時間、ネット小説を読むことが好きだったのだ。そこで異世界転生がテーマになったお話をたくさん読んだことがあるけど……まさか、この状況がゲームか何かになっていたの?
「殿下! 殿下! イレーネ嬢の様子が変ですわ!」
「なにっ!?」
なにっ!? じゃないよ!
ちゃんと見張っておきなさいよ!
「ジェスレーン様に愛されたいなどと世迷言を……。きっと殿下がお傍に居られないから不安になってしまったのです。気をつけてくださいませ」
「あぁ……すまない、イレーネ……不安にさせてしまったね。心配しなくても帝国との契約は済んでいる。今度は私とイレーネの婚約が待っているよ」
イレーネ嬢は真っ青な顔をしてジェスレーン様を見つめているけれど、殿下はその視線を遮るようにイレーネ嬢の腕を掴んで椅子から立ち上がらせていた。そして、有無を言わさぬ態度でこの場から連れ去っていった。
イレーネ嬢の様子を見る限り、私との婚約破棄を本気で喜んでいたのは殿下だけだったわけだ。イレーネ嬢は殿下や他の子息を踏み台にしてジェスレーン様と結ばれるつもりでいたらしい。漫画やゲームじゃあるまいし……私の、そして、彼らの人生を何だと思ってるんだ。
「あのような者を王妃にしてイメラ王国は大丈夫なのか?」
「……第二王子とその婚約者である令嬢がとても優秀なので問題はないでしょう」
王妃教育は本当に厳しいけれど、国民か殿下への愛があれば乗り越えられるはずだ。そのどちらも持ち合わせていないイレーネ嬢が王妃教育に耐えられずに逃げ出すのは時間の問題だろう。今回の婚約破棄騒動、そして殿下が選んだはずのイレーネ嬢が王妃教育を投げ出してしまう事は王位継承権に影響を与えるはず。
「ジェスレーン様、出発の日を楽しみにしております」
「あぁ、私も楽しみにしている」
ジェスレーン様は私の手を取ると、その甲に軽い口付けを落として優雅に微笑んでみせた。
セーリオ帝国のハーレムでジェスレーン様の10番目の妻になるという事、少しの不安はあるけれど……快適な読書生活のためにも上手く立ち回っていかなければならない。『今の私』と『前世の私』の記憶があるおかげか不思議と何でも出来そうな気がした。
さぁ、嫁入りの準備を始めなくちゃ。
まずは大量の本を買うわよ!
ラストにもう一度ざまぁがあります。
1週間ほどで完結する予定です。
よろしくお願いします。




