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……そうだ、ひとまず落ち着こう。
ユーリは自分の胸にそう言い聞かせ、深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。
ええとそれで、何でしたっけ?
見上げれば、伯爵家の御曹司様もまた、「ヤバい、口にしてしまった」と言わんばかりに額に手を当てている。グラ的にも、先ほどの勢い良く言い切った台詞は本意ではなく、うっかりと段取りか単語だか何かを間違えてしまったらしい。
「若君様、『私を妻に』というのは、何かの比喩ですか?
それとも、結婚相手のフリをする相手が必要にでもなりましたか」
背後で事の成り行きを見守っているであろう天狼さんの反応が、とっても、物凄く、滅茶苦茶、すんごく、気になるのだが、流石に貴人に背を向けてシャルの表情を観察する訳にもいかない。見上げ続けているグラは、ユーリの疑問に溜め息を吐いた。
「フリでも比喩でもない。私はユーリ、お前を名実ともに私の妻として迎え入れる」
グラは相変わらず、不機嫌さを隠しもしない仏頂面である。彼が結婚の是非について、非常に不本意極まりない心持ちであるのは、その馬鹿正直な表情からも如実に示されている。
「……どうしてそんなお話になったのか、経緯や事情をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
ひとまずユーリは、グラが何故そんな話を持ち出したのか、原因を探る事にした。
これが、『家に仕えている使用人の娘に一目惚れしてしまった上流貴族のお坊ちゃまが、衝動と熱に任せて権力を振りかざして強引に娘を自分のものにしようとしている』といった、腐れきった権力者の卑劣な行動ならば、厳しい身分社会で動いているこの国において、パヴォド伯爵家の魔法使いカルロスのしもべであるユーリには抵抗する術は無い。
だが、幸いというかパヴォド伯爵家の人間は誰もが、権力を笠に着て力で我を押し通そうとする者は居ない。少なくとも、ユーリが知る限りにおいては。
つまり、何かを思い詰めてトチ狂った結論に達した若君様の勘違いだか思い込みを解消してやれば、『あっはー、さっきのプロポーズもどき、やっぱナシで~』という平和的解決に導ける筈だ。多分、恐らく。いや、グラがこんな口調で話したりはしないだろうけれども。
「あれは、事故のようなものだ。私もお前も、そうしようと画策してそうなった訳ではない。
だが私は、私自らの紳士としての矜持とパヴォド伯爵家の名にかけて、婦女子にとって不名誉な汚名や評判を付きまとわせる訳にはいかない」
「ええと……?」
今一つ理解しきれないのだが、これはもう決定的だ。
グラがユーリにうっかり恋をしてしまって、『結婚しようぜ、まいすいーと』とか寝言を言い出しているのではなく、このまま何もせず放置していればユーリに女性として何らかの悪評やらケチがついてしまうので、責任感の強い貴公子様は自ら貧乏くじを買って出て、『オイラが嫁に貰ってやる、アンタに損は無いゼ』と言っているらしい。
……さっきから、意味を理解する為のぐらぐら様の発言変換台詞が、発した当人とはかけ離れた口調でしか考えられません。
どうやら、生まれて初めてのプロポーズ場面に遭遇し、ユーリは自分で思っているよりも些か混乱してしまっているらしい。
これが、義務感と責任感に圧されて渋々と求婚されたのでなければユーリにも一考の余地があるのだが、『仕方がないから妻にしてやる』と言われてもまったく嬉しくはないし、ユーリ自身はパヴォド伯爵家に忠誠を誓った訳でもない、身分差など遠い社会で生まれ育った人間なのだ。何を言われても逆らうなんて思い付きもしない従順な人間でもない。
これがこちらの世界の標準的な婦女子ならば、唯々諾々と従う事が美徳とされるのかもしれないが。
……だが。そう、だが、なのだ。
主家の若君としての命令だとか決定事項の通達だというのならば、グラは用件をユーリに告げてさっさと立ち去れば良い。そもそもユーリ本人を探し出す必要さえなく、カルロスに命じて嫁がせれば事は済む。
……もしかしてぐらぐら様って、さっきから私の「はい、承知致しました」って返事を待ってます?
え? 了承待ちって事は、拒否権もアリ?
どうにもその辺の機微が今一つ読めない。所詮ユーリはまだもの慣れぬ未熟な小娘であり、こちらの常識も理解しきれているとは言い難い。
話をスムーズに纏めるにはどう進めるべきか……と、困っているらしきグラを見返し、ふとユーリは疑問を覚えた。
「若君様、コンスタンサ嬢の事は……」
「何故お前がレディ・コンスタンサの事を?」
あなたの婚約者ではないのですか、そんな引っ掛かりを直接ぶつけてみると、グラはどうしてユーリが彼とコンスタンサ嬢の婚約について知っているのかと、訝しげな眼差しを向けてきた。
「観劇のお供に、セリア嬢の鞄の中に潜んでいた折に、小耳に挟みまして」
「ああ、あの時か。
お前が何を懸念しているのかは知らないが、レディ・コンスタンサはレディとしての役割を弁えられた方だ。何も問題は無い」
無表情のまま、グラは淡々と言葉を紡ぐ。彼の言い分を要約すると……つまり、グラは責任を取る意味で仕方なくユーリを娶るが、元々の婚約者であるコンスタンサ嬢も妻とする。
この場合、正妻は誰か? 当然、貴族の姫君たるレディ・コンスタンサだ。そしてユーリの事は第二夫人だか愛人という枠組みに収めるが、レディ・コンスタンサは高貴な貴婦人として心得ているから、夫が自分以外の女性を囲っていようが見て見ぬ振りをし、虐められる心配など無い、と……
もしもこれが、もっと違った状況でのプロポーズだったならば。
もしかしたらユーリは、グラの求婚にあっさり頷いていたかもしれない。
彼が女心に壊滅的に疎い貴人だったとしても、彼女を『女性』として認識しているのはグラだけであるし、初対面の時には感情表現の薄さに苦手だと思えた相手でも、今は彼の度量の広さがそう嫌いでもない。ずっと一緒にいれば、そのうち愛情も湧いてきそうな気もする。
彼女が『恋愛』がしたい相手が、ユーリに対して全くそんな感情を抱けないのに、いつまでもうじうじと引きずっているよりも。別の誰かに目を向けられるのならば、そうした方がきっと良い。
けれど、このバーデュロイでユーリは外見が幼く見えるらしく、当然恋愛対象として見られる事など殆ど無い。未成年の少年ならば有り得るのかもしれないが、ユーリの方が彼らを恋愛対象には見られない。
ぐらぐら様と結婚するのも、別に悪くはなさそうですけどね。意外と面白い人ですし、この人。
ただ、二番目の奥さんにされるのも嫌だし、そもそもお貴族様の旦那様……私、上手くやっていける自信が全くありません。
だが、伯爵家の政略的観点からみて、ユーリを次期伯爵夫人に据えるメリットは何も無い。よって、万が一パヴォド伯爵から婚姻を認められたとしても、ユーリは日陰の身だ。
「……若君様、私は魔法使いカルロスのクォンです」
「知っている」
「つまり私は、この世界の人間ではありません」
「そのようだ」
ぎゅっと拳を握り締めながらのユーリの呟きに、グラは間髪入れずに答えていく。
貴人であるグラ相手になるべく角を立てず、事を荒立てずに納得していただける断り文句はどんなものか。ユーリは一つ、知ってはいた。
けれどもまずは、じっと沈黙を保ったままの同僚の前でその断り文句を口にするよりも先に、別の方向性から攻めてみる事にする。
「こちらの流儀は存じ上げませんが、私の故郷では複数の相手と婚姻を結ぶ事は、赦されざる大罪です」
日本では結婚も離婚も再婚も簡単だが、ちょっぴり大袈裟に吹聴しておく。
実際、法律やら国教教義が厳しい諸外国では、離婚出来ない故に大変難儀している人々がいるらしいのだ。その中で最も有名な人物は、イングランド国王ヘンリー八世だろうか。
意味を考えていたのか、ユーリの言葉を反芻しているように見えたグラは、やがて薄い唇を開く。
「……つまり、お前には既に夫がいると言いたいのか、ユーリ?」
何でやねん。あんたが人を愛人に仕立て上げようとしとるから、牽制したんやろが。
決して口には出せれないツッコミを反射的に思い浮かべつつ、ユーリはゆっくりと首を左右に振った。
「いいえ、私には結婚歴はありません」
「では何故、私の申し出にすぐ頷かない」
グラは如何にも、そうであるのが庶民の当然のありようと言いたげな、大貴族のお坊ちゃま的な尊大感溢れるお言葉を賜る。
何故そんな態度でいられるのだろう。ユーリの発言の意味を考えるのならば、いずれはレディ・コンスタンサを妻にと考えているグラとは、価値観が相容れない故に、プロポーズを受け入れる事など出来ないというのに。
ユーリがグラの背景を慮り、彼の事情や主張を全面的に受け止め受け入れる方が当然だとでも、そう言いたいのだろうか。
そしてグラは、チラリとユーリの背後を見やりながら続ける。
「心に決めた男でも居るのか、それとも実はお前自身が男なのか?」
「そんな事はありません」
ユーリの裸体を見てしまった事がそもそもの発端なのに、男性かと問うてくるのはいったいどうしてだ。そしてグラは何故、ユーリがシャルに惹かれている事を知っているのだろう。いや、当てずっぽうなのかもしれないし、シャルへと目をやった事に深い意味は無いのかもしれない。
しかし、殆ど反射的かつ即座に強く疑念を否定してしまった事で、グラから疑惑を深められてしまった可能性はある。
「もったいないお申し出だとは思いますが、若君様の下へ嫁すなど、私には荷が勝ち過ぎます故、ご容赦下さいませ」
「私の妻になる事で、お前へ過剰な負担は掛からぬよう計らう。
全く無いとは言い切れぬが、そもそも無碍に扱うつもりはない」
ひたすら下手に出まくった、日本人的秘技・謙遜遠慮という名の迂遠拒否は、貴公子様には全く通用しなかった。
むしろ、なんだそんな事を心配していたのか的な、緊迫感からどことなく安堵と拍子抜けした空気をグラは纏い始めた気がする。
ああ、たまにいますよねー。
丁重にお断りをしても、断り文句を冷静に論破して、尚も食い下がってくる人って。
不真面目なのが嫌いと言えば真面目になると答え、八方美人が嫌だと言えば君一筋になると誓い、頭悪い人ヤと言えば期末試験で成績を上げてくる。
これはもう、最後の切り札を切るしか無いのだろうか。
出来ればこの同僚の前ではやりたくなかったのだが。
「紳士である若君様にとっては、私のあられもない姿を目撃してしまった事は、途方もない重大事だったのかもしれません。
しかしその理論でいくと、私は若君様以外の男性諸氏……ざっと数十人……いえ、数百人の方々に責任を取って頂かなくてはならない事になります」
「な……!?」
淡々と告げるユーリに、グラは目を剥いた。『私、色んな男の前で服を纏わぬ姿を晒してきたのです』発言に、言葉を失っている。
恭しく跪いていた体勢から、ユーリはスッと、音もなく立ち上がる。
「お忘れですか、若君様?
……私は、魔法使いカルロスの第二のクォン。こことは界を異なる地より契約術によって呼び寄せられた、ネコにございます」
そして、多少は近付いたグラの顔を覗き込みながら、借り受けた上着の裾を両手で軽く左右に広げた。
こちらの状況を、まだ把握していないであろう主人へと、ユーリはもう一度願い出る。
「ネコに必ずしも衣服は必要ではありません。
そして、人とは大きく隔たる種族の者が、どうして人の子と婚姻を結べましょう?」
変身に伴うユーリの視界は、いつでも前触れなく一瞬にして入れ替わる。グラの顔を覗き込んでいたはずなのに、次の瞬間には全身を覆う大きな布地から、もぞもぞと這い出る羽目になってしまったが、グラのやや呆然とした表情はなんだか小気味良い。
「にゃー?(お分かり頂けましたか?)」
「……それが、お前の答えだと?」
はい、そうです。そんな意味を込めてユーリは頷く。
グラはしばし考え込むように額に手を当て……ややあって、床の上にこんもりと崩れ落ちた夜着を拾い上げ、溜め息を吐いた。
「いかにお前が自らをネコだと主張しようが、私にとってのユーリは名誉を守ってやるべき1人の娘でしかない。
そう認識が固定されたからには、私の中で覆すのは難しい」
……え。
ぐらぐら様、何だか私の予想以上に生真面目頑固?
「怪我人にあまり無理もさせられまい。ひとまず今夜のところはこれで失礼する。
だが、私は納得した訳ではないからな」
夜着をぱさりと元通り羽織直してグラはクルリと踵をかえすと、再びカツカツと足音も高らかに規則正しく、ホールを横切って夜の闇の中へと姿を溶け込ませてゆく。
扉が開閉しているらしき小さな金属音を最後に、ホールの中は月光に照らし出され静寂のみが漂っていた。
ユーリがシャルからはっきりと拒絶されたように。
そういった対象として見る事がまず不可能な、異種族という当人達の努力ではどうする事も出来ない生理的な理由によって、断りを入れられるというのは。もうすっぱりと諦めるしか無い、最後通牒に等しいものだと思っていたのだが。
……ぐらぐら様、種族の壁なんてそもそもさして問題になんてならないって、堂々と宣言して行かれました?
初めに、全く違う生き物なのだから恋愛対象になんて考えられないだなんて。シャルからそう言われていたから、そういうものなのだとユーリも頭から決め付け、強く思い込んでいたけれども。
もしかしたらそれは、越えようと思えば越えられる壁だったのだろうか。
ユーリは背後を振り返る。銀色の獣は、四肢を伏せて警戒心も無く寛いでいるように見受けられた。
……そうでなければどうしてユーリ自身、この天狼姿の彼にも胸が弾むのだろう。
恋愛感情を抱いて欲しいと思ってはいけないと、どこかで自分を戒めていたけれど。
ただ同僚として近付いていく努力だけでなく、別の関係にもなれるよう、全力で頑張っていっても良いのだろうか。
種族云々以前に、お互いの性格や趣味嗜好の不一致から、結局恋愛的な関係に至るのは無理だったのだと、諦めが胸を過ぎるまで。
ユーリの視線に気がついたのか、シャルは窓に向けていた鼻面で彼女へと振り向き、のっそりと立ち上がる。
「グラシアノ様とのお話は終わりましたか、ユーリさん」
「み~(はい、多分)」
そして改めてのしのしとユーリの傍らに歩み寄った同僚は、彼女の傍らにて立ち止まり、天狼から人の姿へとその身を変えた。
両手でユーリを掬い上げるように抱き上げて、窓辺へと歩み寄る。窓の向こう、夜半の月は優美な傾きを見せており、伯爵家のお屋敷自慢の前庭は静謐さと幻想的な印象を見る者に抱かせる。
シャルは片方の手にユーリを抱いたまま、窓にスッと手をかけた。軽く力を入れたそれは、なんの抵抗もなく開放される。
……一階だと言うのに不用心な。
「まったく。すっかり目が冴えてしまって、もう一度寝付ける気がしません。
お散歩でもしましょう、ユーリさん」
ユーリの呆れた呟きはいつものごとく笑顔で聞き流し、シャルはよいせっとばかりに窓枠に足を掛けた。
……まったくもってどうでも良いのですが、シャルさんそのまま庭に降りて、万が一知人に見つかったらそれ、まるっきり変態で変質者ですからね?
抱き上げられているユーリはすかさずビシッと、同僚の真っ裸の胸板に後ろ手でツッコミを入れる。シャルは不満げにチッと小さく舌打ち。
そして、いかにも渋々……といった態度で、シャルはホールの片隅でちまっと放置されていた見覚えのある背負い袋に歩み寄り、ユーリを床に下ろすと袋の中から服を取り出して着込み始めた。
ここは森の家ではなく、王都にあるパヴォド伯爵家の館なのだから、いつも以上に気を遣って頂きたいものである。




