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そこは、光が射し込まぬ漆黒の空間だった。

不意に世界が揺れ動いたせいで、ただでさえ不安定な足場からユーリは滑り落ちてしまった。


「みぎゃっ」


少しだけ柔らかい布張りの壁と幾つかの缶のような物体の間に挟まれ、ユーリはジタバタともがく。しかし延々と揺れ動く狭苦しい世界は、ユーリの努力を嘲笑うかのように彼女の身を翻弄し、取っ掛かりを駆け上る隙さえ見せない。

狭苦しい空間に押し込められている彼女の頭上から、粗い布地の袋がバサリと降りかかってきて、息苦しさはいや増す。

エストがお出掛けする際、付き添うセリアが持ち歩く鞄の中にコッソリ忍び込んだユーリは、予想以上の揺れ具合によって、荷物と鞄の狭い隙間に挟み込まれてしまっていた。


“動き出したって事は、お前が入り込んでる事には気が付いてねえな”


ううっ……セリアさん、ちょっぴり劇場にお出掛けするだけなのに、何で鞄の中へこんなに大荷物を詰め込んでるんでしょう。

てゆか、この缶って……気のせいかアルコールっぽい匂いがするんですが、もしかしてお酒が入ってるやつじゃあ?


ソーイングセットの小箱を潰さないように気をつけつつ、ユーリは体勢を整えながら、水筒のような形の缶の一つに顔を近付けて鼻をひくつかせた。


“セリアが酒を持ち歩いてる? ああ、いざという時の気付けと消毒用だろう。

エストは昔っからお転婆で、俺も持ち歩いてた。そうか、俺が言い渡した注意事項、セリアの奴、ちゃんと守ってくれてんだな……”


何やら主人はしんみりしているが、それはそれとして、ユーリは非常に困った事態である。


「エスト、そろそろ出られるか?」

「はい、お兄様」


鞄の薄い布張り越しに、近くに居るであろう人々の会話がややくぐもってはいるが、なんとか聞こえてくる。

まだ出発さえしていないこの状況で見付かる訳にもいかないと、ユーリはピタリと動きを止めた。


「……今夜はまた、ひときわ麗しく美しいな。いったい誰の為に着飾ったんだ、エスト?」


鞄の向こうから聞こえてきたグラが発したと思しきヘンテコな台詞に、ユーリは一瞬頭の中が真っ白になった。


「ふふふ。嫌ですわお兄様ったら、そんな分かりきった事をお訊ねにならないで下さいまし」

「私とてたまには、はぐらかされずにストレートな言葉を求めたくもなるさ」

「それなら、しゃがんでお耳をお貸し下さいな」


そうして、微かな衣擦れの音と、小さ過ぎて聞き取れない何事か。仲の良い兄と妹の、楽しげな笑い声。

鞄の持ち主であるセリアと、まだ退室していない筈のラウラが、先ほどから一言も発していないこの空気も微妙過ぎる。


……気のせいでしょうか。何だかぐらぐら様とエストお嬢様のやり取りがまるで、イチャイチャしてるカッ……


“気のせいだ”


ユーリの述懐を遮って、ご主人様から即座に否定のお言葉が飛んできた。

彼女の主は、重要性の高い事柄であるほど感情を直接伝えて下さる事は少ないので、カルロスが彼らのやり取りをどう思っているのか、本当のところは不明である。


あのぅ、主。ぐらぐら様は、女性への対応が無愛想だと聞いたのですが。しかしこう、今日一日耳にしたエストお嬢様へのお言葉はむしろ、どろどろに蕩けそうなほど甘々~で。

実はぐらぐら様って、二重人格か何かですか。


“昔、グラシアノ様とエストはとてつもなく仲が悪かった。いや、グラシアノ様が一方的にエストを嫌っていた、と言った方が正確だが。

ともあれ紆余曲折を経て、エストと仲直りしたグラシアノ様は……ああなった”


それはまた、極端から極端に走る方ですね。

紆余曲折の詳細が気になるところです。


「エスト、明日からは唇にさす紅、あまり鮮やかな物は控えなさい」

「この口紅、わたくしには似合いませんか?」

「いや。擦れ違う男共の視線を無闇に釘付けにして、お前の艶姿の残像をいつまでも焼き付かせる羽目になる。それが気に食わない」

「わたくしにそんな感慨を抱かれるのは、お兄様ぐらいなものですわ」


“エストと2人きりの時は人が変わったような猫可愛がりようだが、以前グラシアノ様が俺にポツポツ零した言によると、近い内に嫁に出さねばならないあどけない妹だからこそ、手元にある内に目一杯愛情を注いでやりたいらしい”


その言がグラの本心ならば、何だか心温まる良い話のような気もするのだが、やっぱりユーリの耳に聞こえてくるグラの台詞は『エストを独り占めしたいアホ男の嫉妬心混じりな戯言』にしか感じられない。これは、自分の思考が穢れているのだろうか……と、鞄の隙間に挟まれたまま自答自問。


“念の為に付け加えておくが、グラシアノ様はエスト以外の弟妹方にも、似たような過保護なお言葉をかけるぞ”


……なるほど。つまり、早い話がぐらぐら様個人が弟妹方の前限定で一風変わった方だという事ですね!


カルロスからの駄目押し的補足に、ユーリはそれ以上考える事を放棄して、ぐらぐら様考察に無理やり結論を下した。

まだ見ぬ弟君方からは、普通の兄弟間にありがちな感情の衝突とは些か違う意味で、グラは煙たがられていそうだ。


「さあ、行こうか」

「はい。今夜の演目は『フレイセ』ですよね。まだ観たことがありませんから、とても楽しみで」

「……そう言えば、私も観たことが無いな。母上が熱心に勧めてこられたから、傾向は推して知るべし、だが」


鞄が再び揺れ始めたが、今度は決められた箇所をなぞるような周期的な動きとリズムで、慣れてしまえばタイミングを計って安定姿勢を保っていられた。どうやらグラとエスト、そしてセリアは移動を始めたらしい。


……主。ふれいせ、ってどんなお話ですか?


元々インドア派であり、人が多く集まる場所にいそいそと出向いて楽しむ、という嗜好を持たないユーリは、劇場などで観劇を楽しんだ経験も無い。映画館に足を運ぶよりも、レンタルビデオ屋でDVDを借りるタイプであった。

こっそり忍んでの随行なだけに観られるかどうかは分からないが、いざ劇場へお出掛けとなると、初めての体験になんだかソワソワしてくるものがある。


“……ん?

あ~……数百年前のデュアレックスに実在した王族女性の名で、彼女の色恋沙汰を題材に面白おかしく進む喜劇、だったかな”


ほほう、ラブコメですか。レディ・フィデリアがお好きだそうですが。


むくむくと、今宵の演劇をしっかり鑑賞してみたいという期待が湧き上がってくる。これまでユーリには接する機会がなかった類いの娯楽であるが、だからこそ興味がそそられる。


会話を交わすグラとエストの声を遠くに聞き流しつつ、鞄の中に隠れたまま、如何にして劇を覗き見をするか? という難問を真剣に考え始めたユーリは、不意に鞄が大きく傾いて横倒しにされ、見事に足場から転がり落ちて分厚い箱のような物体の下敷きになった。メイクボックスか、常備薬の小箱だろうか。

よそ事に気を取られて完全に注意力が散漫になっていたユーリは、圧し潰される重量にたまらず悲鳴を上げた。


「えっ、今、どこからかユーリちゃんの声が!?」

「わたくしにも聞こえましたわ。何だか切羽詰まっていませんでした?」

「ま、まさかこの馬車に轢かれ……!?」

「そんなっ!?」

「……私には、セリアが鞄を置いた途端にネコの鳴き声が聞こえた気がしたが?」


慌てふためくセリアとエストのやり取りに、グラが溜め息混じりに口を挟む。

と、不意に鞄が再び角度を変えて縦向きになり、頭上から光が差し込んできた。重圧と息苦しさから解放され、ユーリは思わず大きく深呼吸をする。


「ユーリちゃん、何時の間に鞄の中に!?」


仰天したセリアに鞄の隙間から掬い上げられて、ユーリは力無く「……みぃ……」と呻きながら真っ暗な世界から連れ出された。夕暮れ時を走る馬車の内部、飴色の世界に目を瞬せる。

有事の際までこっそりと隠れているつもりであったのに、間抜けにも出発して早々に呆気なく発見されてしまった。


「ネコは狭いところが好きなんですってね。出掛ける間際に、ユーリちゃんの姿が見えない事が気になってはいたけれど……」

「も、申し訳ありませんお嬢様。すぐに連れて帰って……」

「もうお屋敷を出てしまったし、セリアをここで下ろしたりしたくありませんわ。

このままユーリちゃんをこっそり連れて行っても構いませんわよね、お兄様?」


セリアが張り切っていた通り、恐らく緑色系統のドレスなのだろう。今宵のエストのお召し物は、夕日を浴びて金色味がかっているというか、黄緑色に見える。

ふんわりと結い上げた髪の毛が一房、肩にかかっているのだが、兄に問い掛けながら小首を傾げたエストの首筋を、黄金の流れがしどけなくサラリと零れてゆく。


「……そのネコが例え劇場の中で行方不明になったとしても、終幕を見終わったら探さずに帰宅する。それでも構わないなら好きにしなさい」

「ええ、大丈夫ですわ、お兄様」


グラはいつも通りに眉間に皺を寄せて、たっぷり沈黙してから渋々といった風情でそう許可を出した。それに、エストは自信たっぷりに頷いてセリアからユーリを両手で受け取った。


「ユーリちゃんは、お出掛け先でもちゃんといい子に出来ますわよね?」

「にゃ~(は~い、お嬢様)」

「……セリア。劇場に着く前に、そのネコをまた鞄の中に詰めておけ。フラフラと好き勝手に歩き回られては堪らん」

「かしこまりました」


馬車の座席にたくさん置かれているクッションに片肘をついて凭れかかり、額に手を当てながら指示を出すグラ。彼もまた、普段とは異なる礼服に身を包んでいる。

お疲れのご様子の若君様をマジマジと眺めて、こういった服も主に似合いそうだなぁ、などと身内贔屓の感想を抱きつつ、揺れる馬車内でエストの腕から窓に飛び付いた。馬車の揺れや衝撃緩和の為か、山と積まれているクッションを足場に外の様子を眺めやった。


主に馬車が行き来する大通りを走っているのか、薄暗い夕暮れ時のせいか、人通りも少なくどこかしら物寂しくノスタルジックな気分にさせる。べったりと窓に張り付いて見回せば、箱型の馬車のサイドにはランタンが吊されていて、LED電球にも似たくっきりとした輝きを放つ、カルロスの魔術の光に慣れたユーリの目にその細やかな灯火は実に柔らかく、幻想的な心地よさをもたらす。


は~。何だかんだ言って、館に追い返されずに済んで良かったです。

そう言えば、エストお嬢様がお出掛けの際には結構頻繁にホセさんが御者をやってた印象がありますが、今夜は誰が操っているんでしょう?


何しろ箱型の馬車なので、御者台を覗こうにも窓にべったり張り付いてもそちらの様子が窺えない。

車内を見回すが、座席の背もたれになっていて御者台に通じるドアなどは無い。こういった馬車に乗車している時、御者さんになにがしかの用件が出来て話し掛ける際は、どうやってコンタクトをとるのだろう。


主が悩んでいた、エストお嬢様のお出掛けにお供する理由付け……いっそのこと、御者のついでに灯り係を買って出れば良かったんじゃないかとか、ふと思ったりもしましたが黙っておきましょう。動物に忌避されるあの方に、馬が御せるとも思えませんし。


ユーリがつらつらと考えている間に景色は流れ、さほど時間も掛からずに馬車は目的地である劇場に到着したらしい。車内では会話らしい会話さえ交わされず、体感時間でもほんの数分程度だろうか。この程度の距離ならばいっそ歩いた方がよほど早そうな気もする。

劇場前の広場には自動車ラッシュならぬ馬車溜まりが出来ていて、今日の公演を観覧すべく訪れた着飾った紳士淑女の姿で出入り口付近は実に煌びやかだ。


「ごめんなさいねユーリちゃん、またここに入っててね」


鞄を開いたセリアが、窓の外をおのぼりさんよろしく眺めていたユーリの胴を掴んで再びそこに押し込める。馬車の座席に置いてきぼりにされるよりは、この狭苦しい鞄の中に入っていた方が、確かに都合が良いが……どうしたって狭い。

上部の口が閉じられてしまうと、周囲が再び真っ暗闇になってしまった。オマケに突発的な揺れが予測出来ず、衝撃に備えられずに足を踏み外して転がり落ちてしまう。

……どうやら、馬車は停車したらしい。

馬の嘶きや何かの物音がした後に、グラが小さく「ご苦労」と誰かを労い、


「エスト、おいで」

「はい」


どうやら馬車を下りるらしく衣擦れの音がして、そうしてしばしの後にユーリが入っている鞄も動き始めた。

とんとん、と、セリアの移動に合わせてユーリの世界も上下や前後に小さく揺れ動く。


「ではグラシアノ様、刻限になりましたらお迎えに上がります」

「ああ」


耳を澄ませるしかやる事が無いユーリが、大人しく周囲の物音に気を配っていると、鞄越しに聞き覚えのある声が聞こえてきた。片やイリス嬢は傷心のあまり同僚から通常業務への従事を押し止められたというのに、ホセ青年は今夜もお仕事に励んでいるらしい。

セリアが休むよう言わなければ、イリスは御者を務める彼と鉢合わせしていた訳で……それは確かに気まずい。両者の間にぎこちない雰囲気だって出るだろう。それを、聡いエストが気が付かないとは到底思えない。セリアはそういった状況を見越していたのだろうか。


「どうぞ、ごゆるりとお楽しみ下さいませ」


揺れる鞄の向こう側で、感情が一切滲んでいないホセの見送りの言葉が遠ざかってゆく。

そうして今度は、楽器演奏と笑いさざめく人々の声がだんだんはっきりと聞こえてきた。開演前、幕間の休憩時間、こういった劇場でのホワイエは社交場となる。


……そう言えばセリアさん、ずっとこの鞄持ち歩いて下さるんでしょうか。クロークに預けられたらどうしましょう。


鞄の中から脱出した後に、エストが舞台を鑑賞している席を探し当てられるだろうか、否。という自答自問を繰り広げ、暗闇の中でユーリは両手を合わせる。

どうか、セリアがユーリ入りの鞄を手にしたままでいてくれますように……

そんな祈りが通じたのか、特にどこぞに預けられた様子もなく、滑らかな弦楽器の音色と和やかな会話の渦に運び込まれたようだ。


「おお、これはこれは。珍しいところでお会いしましたな、パヴォド隊長殿」

「ギュゼル殿、ご機嫌よう。よい夜ですね」

「貴公は相変わらずの仏頂面だな。任務外の時ぐらい、もっと場に合った朗らかな笑みを浮かべてみたらどうか?」

「性に合いません」


どうやらグラの知り合いの男性と出くわしたらしく、からかいと笑い混じりで実に遠慮の無い言葉が発せられた。

エストと2人きりの際は、あんなに穏やかな微笑を浮かべていたくせに、今のグラは例の無愛想面をしているらしい。もしかして彼は、内弁慶というやつなのだろうか。


「不器用な男だな、勿体無い事だ。

ところでお連れの美しいご令嬢はもしや、隊長殿の恋人かね?」

「…………」


今夜グラがエスコートしている麗しのエストが何気に気になっていたらしき、ギュゼル殿、と呼ばれた男の問い掛けに、グラは即座に否定せずに不自然な間が空いた。


「……いえ」


だから何故、てらいなく『妹です』と言わない、ぐらぐら様!?


「ご紹介が遅れました。彼女は私の妹、エステファニアです。

エスト、こちらは第一連隊事務官のギュゼル殿だ」

「おお、お目にかかれて光栄です、レディ・エステファニア。

いやはや、噂以上に愛らしく美しい」

「お初にお目にかかります、ギュゼル様。エステファニア・ファルマシア・パヴォドでございます。

いつも兄がお世話になっております」

「ええ、このガスパール・アルトラム・ギュゼルは、レディの世渡り下手な兄君を日々、誠心誠意お世話を致しております」


エストの挨拶に、すかさずギュゼル氏はにこやか~な声音でお茶目な発言をかます。

声だけでは冗談めかして聞こえるのだが、彼はグラと仲良しなのだろうか? それとも嫌味を言われているのだろうか。


「ギュゼル殿、私はあなたにそこまで世話になった覚えは……」

「たくさんあるだろう。例えば今宵の休暇申請」

「……」

「不肖の兄のそばに、ギュゼル様のようなご親切で有能な事務官の方が居て下さるだなんて、心強いですわ」

「……」


ぐらぐら様、セリアさんからの微妙評価だけでなく、溺愛してる妹からまで『不肖』とか言われてるし。


「レディ・エステファニアは噂に違わず、趣味の良いレディですな。

今宵のお召し物も、実に強気でよくお似合いだ」

「ありがとうございます。

わたくしは、その日の自分に最も映えるドレスを纏う主義ですの」

「素晴らしい。まさにレディの為にこそ、華やかな新緑はあるのでしょうな」


外では本当に口数の少ないグラが、時折口を挟む事はあったが、しばし、ギュゼル氏や更に声を掛けられた他の知人方との会話が続き、ユーリが疲れて眠たくなった頃、ようやく人々は観覧席へと移動を開始した。

目を閉じてうつらうつらしていたユーリは、頭上から僅かな光が漏れてきている事に気が付き、瞼を擦りながら欠伸を零し、鞄の開け口を見やる。


「ユーリちゃん、席に着いたけど……出てきたい?」


鞄の中を覗き込んできているセリアは、逆光になって顔が見えにくい。「みぃみぃ」と鳴きながら両前足を伸ばして出たいアピールをしてみると、鞄の持ち主はユーリの両前足を握って引き上げた。そのままセリアの膝の上に乗せられる。

闇に慣れた目で薄暗い周囲を見渡してみて、何故セリアがユーリを鞄から出してくれたのか、納得がいった。

グラとエストは、今夜のオペラを豪華なボックス席で観覧するようで、高所から舞台を見下ろせる個室の中はゆったりと寛げる造りになっている。

前列の座席にはグラとエストが並んで腰掛け、セリアは後部に落ち着いている。

と、背後のやり取りに気が付いたエストがこちらを振り向いた。


「ユーリちゃん、良ければ一緒に舞台を見ましょう?

こちらへいらっしゃいな」


笑顔で誘いかけてくるお嬢様のご要望に応えて、セリアがユーリを腕に抱いて立ち上がった。グラとエストの座席に足を踏み出したセリアに合わせて、ユーリはピョンと飛び出して座席の背もたれに体重を預けていたグラの肩の上に着地する。そのままそこに腰を下ろした。


「……おい」

「あら、ユーリちゃんは本当にグラシアノお兄様のそばが好きなのね」

「エスト、このネコをどかしてくれないか。重い」


クスクスと笑みを零す妹に、ユーリが乗った方の肩が微妙に傾いだグラは実に不機嫌そうに要請をかけるが、エストは可愛らしく小首を傾げるだけで兄の願いを聞き入れようとはしない。

重いと失礼な文句を口にするグラだが、反対側の手で乱暴にユーリを払いのけるつもりはないようで、面倒そうに深々と溜め息を吐いた。


ボックス席は前面全てが開放されている訳ではなく、当然落下防止にある程度の高さの壁がある。

座席に座っていても視界を遮る事はなく、十分に舞台が見渡せる壁だが、それは人間の座高の場合だ。絶賛の子ネコ中のユーリでは、座席の上はもちろん、セリアやエストの膝の上でさえ舞台の様子が見えない。

グラの肩の上、彼とほぼ同じ目線で見渡す客席の様子はほぼ満席。円形の劇場ホールはボックス席も半円形にぐるりと取り囲んでいて、パヴォド伯爵家兄妹はとても鑑賞しやすい正面寄りの席を確保しているようだ。


う~ん、流石ぐらぐら様。無駄に上背がある訳じゃないんですね。

いやあ、ここは絶好の高度かつ角度です!


“ユーリ、そっちの様子はどうだ?”


ユーリをどかす事を早々に諦めたらしきグラは、問題ないとばかりに軽く片手を振ってあわあわと焦るセリアを再び座らせた。

それを横目に見ていたユーリの脳裏に、ご主人様からの経過報告を促すテレパシーが飛んできて、ユーリはワクワクと舞台の上を注目しながら答える。


はい、もうすぐ劇が始まるようです。ドキドキです。


“……お、俺はお前のその、目の前の欲求を優先して後先考えない現状に動悸が激しくなるんだが、どうしてくれる”


カルロスからそこはかとない非難を浴びて、ユーリはしばし思案した。

グラには威厳というか、閣下譲りの威圧感を帯びたカリスマ性は欠片も無いが、紛れもなくユーリの主人が仕える主家の後継者である。たまにうっかり忘れそうになるが、彼は敬うべき貴人である。

故に、本来ならば『ははー!』と頭を下げて平伏さねばならない存在であるが、現在ユーリはグラの肩の上に『でんっ』と居座っている。


あ、主とて、私を肩の上に乗せたがった事があるじゃないですか!

ぐらぐら様も、ネコのやる事だからと有り難い事に大目に見て下さっているようですし、素知らぬフリという事で……


“……俺は何も知らない。我が家のにゃんこは、甘えん坊でちょっとやんちゃなんだ……はっはっは”


カルロスは硬い声音でそんな空笑いを放つ。今更グラの肩から下りるに下りれず、ユーリは居心地悪く背もたれの上の方に比重を寄せた。

時を同じくして、管弦楽の演奏と共に、するすると舞台の幕が上がってゆく。


“どうやらアティリオとのデートじゃねぇみてえだし、存分に楽しんでこい”


心のどこかでは半ば覚悟していた予想が外れたのが嬉しいのか、カルロスは一転して明るい声音で告げて、テレパシーを切った。



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